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第2話 紅い月と姫核狩り

 ミライの名は、煙になった。


 朝の空は、前日と同じように青かった。あまりにも青く、あまりにも遠く、あまりにも何も知らない顔をしていた。村の中央に組まれた薪の上で、白い布に包まれたミライの身体が横たえられている。布の下の輪郭は小さかった。昨日まで笑って、水を差し出し、ケイの名を呼んでくれた少女の身体が、あんなに小さく見えることが、ケイには受け入れられなかった。


 火はまだ入っていない。


 村人たちは、輪を作るように集まっていた。畑仕事の手を止めた男たち。子どもの手を握る女たち。怪我をした腕を布で吊っている者。顔に青あざを作った若者。みな、黙っていた。昨日の襲撃で壊された水桶や、踏み荒らされた土の跡はまだ残っている。村の入口には、魔導装甲兵が残した足跡が、乾いた土に深く刻まれていた。


 村長は、薪のそばに膝をついていた。


 昨夜から、ほとんど眠っていないはずだった。顔は一晩で何年も老いたように見えた。けれど背筋だけは曲がっていない。彼は娘の布にそっと手を置き、何度も何度もその名を呼んだ。


「ミライ」


 声は掠れていた。


「ミライ。ミライ。ミライ」


 呼ぶたび、布の下で少女が少しだけ応えるのではないかと、ケイは思ってしまう。けれど何も起こらない。布は静かで、朝の風だけがその端をわずかに揺らした。


 ケイは人の輪の少し後ろに立っていた。村の女が貸してくれた古い上着を羽織っている。焼け焦げた制服の上からそれを着て、胸元を隠していた。胸骨の紋様は、今は薄く沈んでいる。けれど完全には消えない。肌の奥で、火種のように眠っている。


 ミライの聖痕も、昨日まではそうだったのだろうか。


 ケイは唇を噛んだ。


 村人の一人が、松明を持って前に出た。若い男だった。昨夜、魔導装甲兵に弾き飛ばされて水路へ落ちた男だ。額に包帯を巻いている。彼は松明を薪へ近づけようとして、ふと手を止めた。


「……あれ」


 小さな声だった。


 それでも、静まり返った村にはよく響いた。


 村長が顔を上げる。


「どうした」


「いや、その……」


 若い男は困ったように眉を寄せた。


「ミライって、どんな顔でしたっけ」


 空気が凍った。


 ケイは一瞬、何を言われたのかわからなかった。


 男は慌てて首を振る。


「違うんです。違う、忘れたとかじゃなくて。村長の娘さんで、子どもの頃から知ってて、井戸の水をよく運んでて、よく笑う子で……なのに、顔だけが、ぼやけて」


「やめろ」


 村長の声が低く落ちた。


「言うな」


「すみません。でも、本当に……」


 今度は、別の女が口元を押さえた。


「声が」


 隣にいた年配の女が振り向く。


「声?」


「あの子の声。昨日まで聞いていたのに、思い出せないの。高かった? 低かった? 笑うと、どんな声だった?」


「やめなさい!」


 別の村人が叫んだ。だが、その叫びもすぐに震えたものへ変わる。


「俺は覚えてる。覚えてるぞ。ミライは、村長の娘で、あの、あれだ。去年の祭りで……何をしたんだったか」


「ミライは機織りが上手だった」


「違う、機織りはサナだろ」


「じゃあミライは何が得意だった」


「水汲みを……いや、そんなの誰でもする」


「顔が」


「髪は長かったか」


「昨日、目の前にいたのに」


「やめて」


 ケイは震える声で言った。


 けれど、村人たちのざわめきは止まらない。まるで一人の少女の輪郭が、村全体の記憶から剥がれ落ちていく音のようだった。


 ミライ。


 ケイは胸の中でその名を握りしめた。


 日に焼けた肌。黒い髪。水を飲ませてくれた手。怖いよね、と言ってくれた声。背中に浮かんだ淡い羽根の紋様。最後に見た、眠るように穏やかな顔。


 忘れない。


 忘れたくない。


 たった一日しか知らないのに。昨日出会ったばかりなのに。


 ケイは、誰よりも強くその顔を思い出そうとしていた。


 村長が立ち上がった。


 彼は松明を持つ若者から、それを奪うように受け取った。手が震えている。怒りのせいか、悲しみのせいか、あるいは恐怖のせいか、ケイにはわからない。


 村長は火を薪へ近づけた。


 炎が移る。


 乾いた枝がぱちりと鳴った。火は最初小さく、やがて布の端を赤く照らし、白い煙を空へ昇らせ始めた。


 村長は火を見つめたまま、言った。


「姫核を抜かれた者は、名前から消えていく」


 誰も声を出さなかった。


「肉が焼かれ、骨が灰になるより先に、顔が消える。声が消える。癖が消える。何を好きだったか、何を嫌っていたか、誰を呼んだか、誰に呼ばれたか。それが一つずつ、世界から抜け落ちる」


 炎が強くなる。


「だから呼ぶのだ」


 村長の声が震えた。


「呼び続けるのだ。消えるなと。ここにいたと。おまえは病ではなかった。材料ではなかった。ミライだったと」


 彼は、燃え上がる火へ向かって言った。


「ミライ」


 ケイの喉が詰まった。


 村人たちも、一人、また一人と名を呼び始めた。


「ミライ」


「ミライちゃん」


「ミライ」


「ミライ」


 声は揃わなかった。泣き声に混じり、嗚咽に潰れ、時に遅れ、時に途切れた。それでも、村人たちは呼んだ。


 ケイも呼んだ。


「ミライ」


 煙が空へ昇る。


 昨日、世界が終わったあとにも夏は来るのだと知った。


 今日、ケイは知った。


 この世界では、人は死んだあとにも奪われる。


     *


 葬儀のあと、ケイは村長の家へ呼ばれた。


 囲炉裏には小さな火が残っていた。昨夜ミライが座っていた場所には、誰も座っていない。そこだけがぽっかり空いているように見えた。


 村長は、ケイの前に粗末な粥を置いた。


「食え」


「でも」


「食わねば歩けん」


 その言い方があまりにも強かったので、ケイは椀を受け取った。


 粥は薄かった。米より雑穀が多く、味もほとんどない。けれど温かかった。喉を通るたび、身体が少しずつ現実へ戻っていく。


 村長はしばらく黙っていた。


 やがて、囲炉裏の火を見つめたまま口を開いた。


「おまえは、一九九九年から来たと言ったな」


「はい」


「その年に、トキオ聖戦が起きた」


「昨日も聞きました。でも、私の知ってる東京は……普通でした。学校があって、コンビニがあって、電車が走ってて」


「ならば、おまえの知っているトキオは、その日までのトキオだ」


 ケイの手が止まった。


 村長の声は低く、淡々としていた。けれど、その淡々とした調子の奥に、この世界で何度も何度も語られてきた歴史の重さがあった。


「一九九九年、第七の月。トキオに光の柱が立った。高次の存在、ソエルと呼ばれる者たちが争い、旧き都は一日のうちに死都となった。空は裂け、地は焼け、人は影だけを残して消えたと伝わっている」


 ケイは、あの光の柱を思い出した。


 空へ突き刺さる白い光。


 音の消えた道路。


 黒くなった信号機。


 伸びる影。


「その後、女帝ヌルが現れた。人ではない。天より堕ちた神、光の子。彼女は神奈川の地へ人と文化と技術を集め、新たな都を築いた。それが帝都エデンだ」


「帝都エデン……」


「魔導と科学が混ざり合った都。死都東京を封じる都。女帝の宮殿、夢殿、ヴァルハラ宮殿、ワルキューレ。今となっては、どこまでが史実で、どこまでが神話かわからん」


 ケイは椀を膝に置いた。


「その帝都エデンは、もうないんですよね」


「ない。百年栄えたのち、ノアインパクトで滅びた」


「ノアインパクトって、何なんですか」


「大洪水と伝わっている」


 村長は壁に掛けられた古い板状端末を見た。もう動いていない。ただの黒い板のようだった。


「百五十日の雨。海が陸を呑み、川が都を引き裂き、山が崩れ、空が狂った。だが、ただの水ではなかったとも言われる。古い記録には、名が流れた、歴史が流れた、死者の声が地上へ溢れたとある」


 ケイには半分も理解できなかった。


 けれど、ミライの顔を忘れかけた村人たちを思い出すと、それがただの比喩ではない気がした。


「それから百年、人は生き延びるだけで精一杯だった。のちに絶望の百年と呼ばれる時代だ。石油は枯れ、物流は止まり、飛行機は飛ばず、電気も満足には使えん。多くの国が崩れ、争い、飢えた」


「でも、この村には魔導灯がありました」


「旧帝都の残骸だ。魔都から流れてきた部品を、騙し騙し使っている」


「魔都エデン」


「第二のエデンだ」


 村長は苦い顔をした。


「旧帝都エデンの遺跡とロストテクノロジーを掘り起こし、死都東京の上に築かれた新たな都。今、このニホンで最も栄えている場所だ。だが、栄えているのは魔都だけだ。地方はこの通り、農村に戻った」


「どうして……」


「食わねば死ぬ。燃料も機械も足りぬ。物を運べぬ。ならば、人を畑へ戻すしかない。国民総農民化計画。聞こえは立派だが、魔都が食うために、地方が耕すだけの話だ」


 ケイは粥の椀を見た。


 薄い粥。


 ミライが昨日飲ませてくれた井戸水。


 この村の人たちは、ずっとそうやって生きてきたのだ。


「日本は、他の国と交流しないんですか」


「二三五九年、本州鎖国。魔都の技術を外へ漏らさぬため、外国からの流入を防ぐため、という名目だ。実際には、魔都が自分たちの富と技術を守りたいだけだろう。港は厳しく管理され、入国も出国も簡単にはできん」


「そんな……」


「だが、外の国が安全とも限らん。ノアインパクトの後、世界の形は変わった。外を見た者は少ない。魔都が出す情報も信用できん」


 ケイは頭を抱えたくなった。


 あまりにも遠い。


 自分のいた世界から遠すぎる。


 四百年以上先の未来。


 いや、未来だと考えるしか、今のケイにはできなかった。異世界と言われるよりは、まだ未来の方が飲み込める。たとえ、それがあまりにも壊れた未来であっても。


 村長は、彼女の胸元へ視線を向けた。


「そして、今の魔都はヒミカ症候群を恐れている」


 ケイは反射的に上着の襟を押さえた。


「ミライにもあった、あの光る印……」


「聖痕と呼ぶ者もいる。魔都の役人は発症痕と呼ぶ」


「本当に病気なんですか」


「魔都の発表ではな」


 村長の声には、明確な怒りが混じった。


「ヒミカ症候群は危険な魔導性疾患。発症者は精神混濁、肉体変異、魔導暴走を起こし、周囲へ災厄を撒き散らす。だから隔離し、治療しなければならない。そう魔都は言う」


「でも、ミライは……」


「何もしておらん」


 村長は即座に言った。


「ミライは病ではなかった。暴走などしておらん。村の水を汲み、畑を手伝い、子どもたちの面倒を見ていた。あの子は、ただ生きていただけだ」


 声が震えた。


 怒りと、悔しさと、どうしようもない喪失の震え。


「発症者を連れていった魔都の役人は、誰一人として帰していない。治療された者もいない。手紙も来ない。墓も返らない。ただ、記録から消える。まるで最初からそんな者はいなかったように」


「それで、姫核狩り……」


「村の者はそう呼ぶ。魔都は認めんがな。姫核という言葉すら、口に出せば反逆と見なされる」


「姫核って何なんですか」


 村長はすぐには答えなかった。


 囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。


「詳しいことは知らん。知る者は魔都にいる。だが、昔から言われている。あの光る印を持つ者は、女帝やワルキューレの名に近い。死者の記録を宿す。神々の欠片を抱く。魔都はそれを集めているのだと」


「死者の記録……」


「難しいことはわからん。だが、一つだけ確かだ。連れていかれた者は戻らない。アカツキに姫核を抜かれた者は、名から消える。どちらにせよ、奪われる」


 アカツキ。


 紅い花魁衣装の、美しすぎる男。


 ミライに口づけ、光の核を抜いた男。


 ケイは拳を握った。


「あの人は、何者なんですか」


「紅い月。姫核狩りの狩人。魔都政府の敵でもあり、発症者の敵でもある」


「政府の敵なのに、ミライを殺した」


「奴は、自分が救っていると思っている」


 村長は吐き捨てるように言った。


「バベルに喰われるより、自分が眠らせる方がましだと。そんな理屈で、あやつは姫核持ちを狩る」


「救うって、殺してるだけじゃないですか」


「そうだ」


 短い肯定だった。


 ケイの胸の奥が熱くなった。紋様が反応したのか、怒りのせいなのか、わからない。


「バベルって、何なんですか」


 村長は、外を見た。


 遠く、まだ見えない魔都の方角。


「魔都エデンの中心にある黒い塔だ。魔導炉であり、神殿であり、処刑場であり、女帝復活のための柱だと噂されている。魔都の者は口を揃えて言う。バベルがあるから、ニホンは生きている。バベルがあるから、女帝はいつか戻る。バベルがあるから、選ばれた者は救われる」


「信じてないんですね」


「信じられるものか」


 村長の目に、火が映っていた。


「バベルに行った者は、誰も帰ってこない」


 沈黙が落ちた。


 ケイは、自分の胸元を見下ろした。


 この光る紋様。


 マッハはそれを見て、おまえもかと言った。


 アカツキは、姫核を抱いたままバベルに喰われる前に、と言った。


 つまり、自分も。


「私は……どうなるんですか」


「この村にいれば、いずれ魔都がまた来る」


 村長は即答した。


「マッハは見逃したわけではない。損傷が出たから引いただけだ。次はもっと大きな部隊を連れてくる。おまえを捕らえるためにな」


「じゃあ、逃げないと」


「そうだ」


「どこへ」


「魔都以外のどこかへ」


「でも、私は魔都へ行かないと」


 村長が鋭く顔を上げた。


「何を言う」


「私、自分が何なのか知りたい。元の時代へ戻る方法も探したい。たぶん、それを知ってるのは魔都です。だって、あの人たちは私の印を見て反応した。アインとか、バベルとか、姫核とか、意味のわからない言葉を知ってる」


「だからといって、魔都へ行くのは死にに行くようなものだ」


「ここにいても、また誰かが来るんですよね」


 ケイは村長を見た。


「私がここにいたら、また村が襲われる。ミライみたいに、誰かが傷つく」


 村長は言葉を失った。


 ケイの声は震えていた。怖くないわけがない。魔都が何なのかも知らない。外の道も知らない。食料もない。お金もない。この時代の常識も、地図も、服も、身分もない。


 それでも、ここにはいられなかった。


「私は帰りたいです。元の世界に。ユカとミホに会って、家に帰って、宿題が重いって文句言って、アイス食べて、寝たい」


 言葉にした瞬間、涙が出そうになった。


 でも、泣かなかった。


「でも、帰る方法を探すために、誰かを巻き込みたくない」


 村長は長く目を閉じた。


 そして、立ち上がった。


 奥の部屋から、古びた布袋と外套を持ってくる。さらに、短い刃物と、水筒のような金属容器を置いた。


「持っていけ」


「でも」


「ミライが助けた娘だ。手ぶらで追い出せるか」


 その言葉で、ケイは耐えられなくなりそうだった。


「ありがとうございます」


「礼はいい」


 村長は低く言った。


「ただ、一つ頼む」


「何ですか」


「ミライの名を覚えていてくれ」


 ケイは息を止めた。


「この村の者は、いずれ忘れるかもしれん。わしも、いつまで抗えるかわからん。だが、おまえは昨日来たばかりだ。姫核を抜かれた後の記録剥離に、どれだけ巻き込まれるかもわからん」


 村長の目が、真っ直ぐケイを見た。


「あの子がいたことを、誰か一人でも覚えていてくれ」


 ケイは、胸の奥でミライの声を思い出した。


 怖いよね。


 あの優しい声。


 忘れない。


「覚えています」


 ケイは言った。


「絶対に」


     *


 魔都エデンは、夜でも眠らない。


 天を衝く黒い塔、バベルを中心に、無数の光が同心円状に広がっている。外縁には防壁。内側には高層構造物。空中通路。魔導軌道。神殿を模した行政庁舎。女帝ヌルの像。ワルキューレの名を刻んだ門。


 地方の農村が土と汗と飢えの匂いを抱えているのに対し、魔都は水晶と金属と薬品の匂いがした。


 バベル管理局の最奥部。


 そこには、白い部屋があった。


 壁も床も天井も白い。継ぎ目がない。窓もない。外界の音は届かない。ただ、壁の奥を流れる魔導炉の低い鼓動だけが、心臓のように響いている。


 その部屋の中央に、少女が座っていた。


 少女、と呼ぶには、あまりにも空虚な目をしている。


 年齢は十代半ばほどに見える。白い儀礼服。首、背、腕、胸元から無数の透明な管が伸び、背後の装置へ接続されている。管の中を淡い金色の液体が流れ、時折、光の粒が混じった。


 彼女の名は、都智治リリカ。


 魔都エデンの統治者。


 女帝ヌルの末裔と呼ばれる少女。


 だが、この部屋に彼女を女帝の末裔として扱う者はいない。彼女は玉座に座っているのではない。接続台に固定されているだけだ。


 リリカの背後には、巨大な影が眠っていた。


 それはデーモンだった。


 しかし、獣型でも鳥型でもない。人の上半身と、巨大な花の蕾と、昆虫の蛹と、聖女像を混ぜ合わせたような異形。胸部には女性の顔が埋め込まれている。目は閉じられ、唇は眠るようにわずかに開いている。


 姉ヒミカ。


 最初の成功例。


 最初の失敗例。


 リリカは、その顔を見上げていた。


「姉様」


 声は小さかった。


「今日は、夢を見たの。赤い空の夢。誰かが落ちてくる夢。姉様が帰ってくる夢」


 返事はない。


 巨大なデーモンは眠り続ける。


 扉が音もなく開いた。


 車椅子が入ってくる。


 赤いドレスの女が座っていた。


 艶やかな赤。血よりも濃く、薔薇よりも暗い。顔には薄いベールがかかり、はっきり見えるのは紅い唇だけ。手袋に包まれた指は細く、膝の上で優雅に組まれている。脚元には精巧な義体の機構が覗いていたが、それすら装飾品のように美しかった。


 マダム・ヴィー。


 あるいは、マダム・ヴィーと呼ばれるもの。


 肉体のすべてが生身ではない。皮膚の下には記録義体の継ぎ目があり、瞳の奥では魔導演算の微光が揺れている。だが、彼女はそれを隠そうともしない。


 むしろ、欠けた身体も、作り直された身体も、美の一部だと見せつけている。


「ご機嫌よう、リリカ様」


 ヴィーは柔らかく言った。


 リリカはゆっくり顔を向ける。


「ヴィー」


「よく眠れまして?」


「姉様が戻る夢を見た」


「あら、素敵」


 ヴィーは微笑んだ。


「夢は、時に現実より正確ですもの」


 リリカの虚ろな目に、わずかな光が灯った。


「姉様が戻るの?」


 その声は、統治者のものではなかった。


 姉を待つ妹の声だった。


 ヴィーは車椅子を進めた。床には車輪の音すら響かない。まるで部屋の方が彼女のために滑っているようだった。


「一九九九年、第七の月。予言の少女が落ちてきたわ」


 リリカの指が、肘掛けを掴んだ。


「予言の、少女」


「ええ。ミナセ村近郊に出現。マッハが確認した胸骨聖痕は、通常の姫核反応ではありません。観測値にアイン型記録反応。さらに、闇性ノイズも混じっている」


「アイン」


 リリカは、その名を舌の上で転がすように呟いた。


「ワルキューレ第一位。女帝様の剣」


「その残響、あるいは誤記録。どちらにせよ、素晴らしい素材です」


「素材」


 リリカが、わずかに顔を歪める。


「姉様じゃないの?」


 ヴィーは、慈母のように優しい声で答えた。


「いいえ。ヒミカ様ではありません」


 リリカの顔が一気に怯えに変わる。


「じゃあ、姉様は戻らないの?」


「戻りますわ。もちろん。あなたがよい子で、バベルとつながり続けてくだされば」


 ヴィーはリリカの手に触れた。


「ただ、その少女はヒミカ様ではない。もっと美しいものよ。失敗した女帝の代わりになる、新しい器かもしれない」


「女帝様の……代わり」


「正しくは、女帝様の名を受け止めるための器。あるいは、アインの名を再現するための鍵。あるいは、ヴァルハラ計画を一段階進めるための起爆剤」


 リリカは震えた。


「器は、苦しい」


 管の中の光が揺れる。


「器になると、自分が薄くなる。名前が遠くなる。姉様の声が入ってきて、女帝様の祈りが入ってきて、知らない人たちの泣き声が入ってきて、私は、私がどこにいるかわからなくなる」


 ヴィーはそれを聞いて、うっとりと目を細めた。


「なんて美しい感受性」


「美しくない」


「美しいわ。壊れかけた器ほど、光の透け方が繊細なのですもの」


 リリカはヴィーの手を振り払おうとした。けれど、管につながれた身体では、それすらうまくできない。


「私は、都智治」


「ええ」


「女帝様の血を引く者」


「ええ、表向きには」


 リリカの瞳が揺れた。


 ヴィーは微笑んだまま続けた。


「けれど本当は、あなたはあなた。ヒミカ様の妹。女帝の末裔として祭り上げられた少女。ズィーベン記録核への適合に失敗しながら、それでもバベルに接続され続ける、可憐な未完成品」


「やめて」


「やめません」


 ヴィーの声は甘かった。


「だって、あなたはその痛みで完成へ近づくのですから」


 背後のヒミカ・デーモンが、かすかに蠢いた。


 リリカが振り向く。


「姉様?」


 巨大な眠れる顔は、目を開けない。


 ヴィーはバベルの方角へ顔を向けた。


「マッハには再捕獲を命じます。アカツキも動いているようですから、競争になりますわね」


「アカツキ」


 リリカの声に、嫌悪と恐怖が混じる。


「紅い月。姫核を抜く男」


「ええ。救済者気取りの美しい愚か者」


 ヴィーは楽しげに笑った。


「けれど彼のおかげで、バベルへ流れる記録は増えています。本人は気づいていませんが」


「ミライ」


 リリカが突然言った。


 ヴィーの笑みが止まる。


「リリカ様?」


「今、誰かが呼んでいた。ミライって。何度も。何度も」


 リリカは胸を押さえた。


「バベルの下で、名前が泣いてる」


 ヴィーは少しだけ首を傾けた。


 そして、嬉しそうに言った。


「では、その名前も収蔵しておきましょう。いつか作品の背景に使えるかもしれません」


 リリカは何も言わなかった。


 ただ、姉ヒミカの眠る顔を見上げた。


 その目の奥に、涙の形をした光が浮かんでいた。


     *


 ケイは、村を出た。


 昼前だった。


 村長がくれた外套を羽織り、布袋を肩にかけ、腰には短い刃物を下げている。刃物と言っても、まともに使える自信はまったくない。持っていないよりはましだ、と言われて持たされた。


 村の入口で、村長が見送った。


「街道を東へ行け。古い標識が残っている。三日歩けば、廃れた宿場跡がある。そこから先は、人の流れを探せ」


「東って、どっちですか」


 村長はしばらくケイを見つめたあと、空を指した。


「太陽の動きを見ろ」


「すみません……」


「生きる気があるなら、覚えろ」


「はい」


 ケイは素直に頷いた。


 この時代の道は、彼女の知っている道ではなかった。コンビニもない。駅もない。交番もない。スマホもない。道路標識すら、半分は朽ちている。


「魔都の者に見つかるな。赤い羽根を見たら隠れろ。鳥の声が一度だけ聞こえたら伏せろ。二度聞こえたら走れ。三度聞こえたら、祈れ」


「最後の、怖すぎません?」


「怖いと思えるうちは生きている」


 村長は、淡々と言った。


 ケイは返す言葉に困って、少しだけ笑った。


 けれど、その笑みは長く続かない。


 村長の後ろには、昨日までミライがいた場所が空いている。見送りに来てくれたかもしれない少女は、もういない。


 ケイは深く頭を下げた。


「お世話になりました」


「ミライの名を」


「覚えています」


 村長は頷いた。


 そして、最後にこう言った。


「おまえの名も、奪われるな」


 ケイは胸元を押さえた。


「はい」


 街道は、街道と呼ぶには頼りなかった。


 舗装はほとんど剥がれ、ところどころに古い道路の跡があるだけだ。ひび割れたアスファルトの間から草が生え、砂が吹き溜まっている。昔は車が通っていたのだろう。ガードレールの残骸が、錆びた骨のように並んでいた。


 ケイは歩いた。


 太陽は容赦なく照りつける。外套は暑いが、肌を隠さなければならない。胸の紋様を見られれば、また狩られる。


 布袋の中には硬いパンのようなものと、干した豆、水筒、小さな布に包まれた塩が入っていた。村では貴重なものだろう。受け取るのが申し訳なかったが、断れば歩き出す前に倒れることはわかっていた。


 歩きながら、ケイは何度も振り返った。


 ミナセ村は、やがて地平線の向こうに消えた。


 ミライの名前だけが、胸の奥に残った。


「ミライ」


 声に出す。


 誰もいない道で、何度も。


 忘れないために。


 自分がまだ自分であることを確かめるように。


「螢。ケイ。ミライ」


 名前を並べる。


 ユカ。ミホ。お母さん。お父さん。担任の先生。隣の席の男子。コンビニの店員。名前を思い出せる人と思い出せない人がいる。そのことに、ケイはぞっとした。


 自分の記憶も、いつか抜け落ちるのだろうか。


 この世界に長くいれば、元の世界のことを忘れてしまうのだろうか。


 それとも、自分の名前の方が先に消えるのだろうか。


「私は、ケイ」


 胸の紋様が微かに熱を持つ。


「アインじゃない。誰か知らないけど、私はケイ」


 そう言うと、一瞬だけ熱が弱まった気がした。


 午後を過ぎた頃、空に雲が出た。


 救いの雲ではない。黒く、重く、どこか低い。風が生臭い匂いを運んできた。遠くで雷のような音がする。だが雨は降らない。


 壊れた標識が立っていた。


 文字は半分剥がれている。


 ミ……ト?


 ヨ……ハ……?


 ケイは目を細める。


「水戸? 横浜? いや、方向おかしいよね」


 この世界の地図を知らない自分には、標識も謎かけにしか見えない。


 その時、背後で石が転がる音がした。


 ケイは振り返った。


 誰もいない。


 荒れた道。錆びたガードレール。草むら。遠くの廃墟。


 風が吹く。


 気のせいだと思いたかった。


 だが、今度は前方の廃車の陰から男が出てきた。


 髭面。汚れた外套。手には刃こぼれした鉈。目がぎらついている。続いて、別の男。さらに、女が一人。少年のように小柄な者もいる。


 全部で五人。


 ケイは足を止めた。


「えっと……こんにちは?」


 返事はなかった。


 髭面の男が、ケイの布袋を見た。


「村から来たな」


「……通りすがりです」


「荷を置け」


「嫌です」


 即答してから、しまったと思った。


 男の目が細くなる。


「威勢がいい」


 女が笑った。乾いた笑いだった。


「若い娘だ。売れるかもしれない」


 ケイの背筋が冷えた。


 野盗。


 時代劇でも映画でもゲームでも見たことがある。けれど実物は、物語の中の敵キャラよりずっと生々しかった。彼らは悪の記号ではない。飢えて、汚れて、疲れて、奪うことに慣れた人間だった。


「お金はありません」


「金はいらん。水と食い物と、身ぐるみ。それから、おまえ自身だ」


 ケイは後ずさった。


「やめた方がいいです。私、その、病気かもしれないし」


 これは効果があるかもしれないと思った。


 だが、逆だった。


 小柄な少年が、はっとしたようにケイの胸元を見た。


「ヒミカか?」


 女の顔色が変わる。


「やめとけ。発症者は魔都に売れる」


 髭面の男がケイを見た。


「外套を脱げ」


「嫌です」


「脱げ」


 男が一歩近づく。


 ケイは腰の刃物に手を伸ばした。握り方すらわからない。鞘から抜こうとして、手が滑る。


 野盗たちが笑った。


「刃物を持つのも初めてか」


「やめて」


 ケイは震える声で言った。


「近づかないで」


「なら荷を置け」


「これは、もらったものだから」


「死んだら持っていけんぞ」


 男が鉈を振り上げた。


 ケイの身体が固まった。


 逃げなければ。


 なのに足が動かない。


 その時、胸骨の紋様が光った。


 熱い。


 昨日とは違う熱だった。怒りに近い。恐怖に近い。身体の奥から、何かが爪を立てて外へ出ようとしている。


 男の鉈が振り下ろされる。


 ケイは目を閉じた。


 足元で、赤い火花が散った。


 ぱちり。


 乾いた音。


 地面に赤い線が走る。火花は一つ、二つ、三つと増え、ケイの影の周りを円のように囲んだ。


 野盗たちが怯む。


「なんだ」


「発症だ!」


 ケイの影が、歪んだ。


 人の形を失い、獣のように低く伸びる。狼にも似た輪郭。けれど、完全な形になる前に、ケイの頭の中に知らない声が響いた。


 ――拒絶せよ。


 その声に、ケイは叫んだ。


「来ないで!」


 赤い火花が弾けた。


 男の鉈が弾かれる。男が悲鳴を上げて後ろへ倒れた。ケイ自身も反動で尻もちをつく。


 何が起きたのかわからない。


 だが、野盗たちはもっとわからなかったらしい。


「やっぱり姫核だ!」


「捕まえろ! 魔都に売れば――」


 最後まで言えなかった。


 大地が轟いた。


 地平線の向こうから、黄金の塊が突っ込んできた。


 猪だった。


 ただし、普通の猪ではない。


 夕日を溶かして固めたような黄金の毛。牙は槍のように長く、蹄が大地を叩くたび、火花が散る。額には魔導紋が刻まれ、背中には赤い布と金属の装甲が結びついていた。


 黄金の猪は、まっすぐ野盗たちへ突進した。


「うわああああっ!」


 髭面の男が吹き飛ぶ。鉈を持った手から武器が離れ、空中で回転する。女が草むらへ転がり、小柄な少年が悲鳴を上げて逃げ出す。


 黄金の猪はケイの目の前で止まった。


 熱い息が、鼻先から白く漏れる。


 そして、その背から女が飛び降りた。


 背が高い。


 日に焼けた肌。炎のように赤みがかった髪。肩に羽織った外套はところどころ焦げ、腰には大剣。胸元には古い金属札がいくつも下がっている。豪快で、荒っぽく、けれど不思議と人を安心させる笑みを浮かべていた。


 彼女は倒れた野盗たちを見回し、鼻で笑った。


「姫核持ち一人に五人がかり? しかも負けかけてるじゃないか。野盗も質が落ちたね」


 髭面の男が呻きながら起き上がる。


「炎麗夜……!」


 女はにやりと笑った。


「おいらの名を知ってるなら、逃げ時もわかるだろ?」


 男たちの顔色が変わった。


 炎麗夜。


 その名には力があった。野盗たちは負傷者を引きずるようにして、あっという間に散っていく。女が一人だけ、悔しげに振り返ったが、黄金の猪が低く唸ると、悲鳴を上げて逃げ出した。


 静けさが戻る。


 ケイは地面に座り込んだまま、呆然としていた。


 炎麗夜は彼女の前にしゃがんだ。


「生きてる?」


「あ、はい。たぶん」


「たぶんって返事ができるなら、生きてるね」


 彼女は大きく笑った。


 そして、ケイの胸元へ視線を落とす。


 ケイは反射的に外套を押さえた。


 炎麗夜の表情が少しだけ真面目になる。


「あんた、姫核持ちだね」


 ケイは警戒して後ずさった。


「だったら、何ですか」


「しかも、ずいぶん厄介なやつを抱えてる」


「あなたも、私を連れていくんですか」


「どこへ?」


「魔都とか、バベルとか」


 炎麗夜は、心底嫌そうな顔をした。


「あんな悪趣味な塔に、誰が好き好んで人を運ぶか」


 ケイは少しだけ力を抜いた。


「じゃあ、あなたは……」


「おいらは炎麗夜。ヴァナディースのまとめ役をやってる」


「ヴァナディース?」


「姫核狩りから逃げる連中の寄り合い所帯。亡命者、逃亡者、病人扱いされた子、家族を取られた親、デーモンと半分くっついた爺さん、いろいろいるよ」


 炎麗夜は親指で黄金の猪を指した。


「こいつはフレイ。見た目は怖いけど、あんたを食ったりはしない。たぶん」


「たぶん多いですね、この世界」


「断言するとロクなことがないからね」


 ケイは思わず小さく笑ってしまった。


 笑った自分に驚く。


 昨日、ミライが死んだ。今朝、彼女を焼いた。さっき野盗に襲われた。なのに、少し笑った。


 人間の心は、壊れないために勝手に息継ぎをするのかもしれない。


 炎麗夜は、ケイの顔をじっと見た。


「あんた、名前は?」


 その問いに、ケイは息を止めた。


 名前。


 ここでは、それはただの自己紹介ではない。


「螢。ケイって呼ばれてます」


「ケイ」


 炎麗夜はすぐに呼んだ。


「あんたはケイだ。今のところは、それでいい」


「今のところ?」


「姫核持ちは、自分じゃない名前に呼ばれることがある。神様だの、ワルキューレだの、病名だの、実験番号だの。放っておくと、そっちに引っ張られる」


 ケイの胸が冷えた。


「アイン」


 炎麗夜の目が細くなる。


「誰に言われた」


「アカツキって人に。あと、夢の中でも聞いた気がします」


「紅い月に会ったのか」


 炎麗夜の声が低くなった。


 それまでの豪快さが、一瞬で影を帯びる。


「昨日、村で。ミライって子が……」


「狩られた?」


 ケイは頷いた。


「口づけで、光る核みたいなのを抜かれて。その子、死んで。今朝、葬儀で、みんながその子の顔や声を忘れかけて」


 炎麗夜は、強く拳を握った。


「またか」


「知ってるんですか」


「あいつはそうやって狩る。魔都に喰われるよりましだって顔でね」


「ましなんですか」


「ましなわけないだろ」


 炎麗夜は吐き捨てた。


「でも、魔都に持っていかれたらもっとひどい。それも事実だ。だから腹が立つ。どっちも地獄なのに、どっちかを選べって世界にね」


 その言葉に、ケイは何も言えなかった。


 炎麗夜は立ち上がり、手を差し出した。


「歩ける?」


「少しなら」


「なら、来な。日が暮れる前に野営地へ戻る。ここにいたら、野盗か魔都か赤い月にまた見つかる」


「信用していいんですか」


「しなくていい」


 炎麗夜は笑った。


「でも、今のあんたに一人旅は無理だ。おいらを信用するか、野盗が戻ってくるのを待つか、好きな方を選びな」


 ケイは、差し出された手を見た。


 大きな手だった。


 傷が多い。硬い。けれど温かそうな手。


 ミライが水を飲ませてくれた手を思い出す。


 ケイは、その手を取った。


     *


 ヴァナディースの野営地は、古い高速道路の残骸の下にあった。


 かつて高架だったものが半分崩れ、巨大な屋根のように傾いている。その下に、布の天幕、廃材で作った小屋、壊れた車両を改造した寝床が並んでいた。焚き火の煙がいくつも上がり、鍋の匂い、薬草の匂い、金属を焼く匂い、人の汗と獣の匂いが混じっている。


 そこには、たくさんの人がいた。


 少女。


 少年。


 老人。


 片腕が金属義肢の女。


 背中から小さな翼の骨組みが生えた男。


 額に聖痕を隠す布を巻いた子ども。


 身体の半分がデーモンの装甲と融合してしまった老人。


 人の言葉を話す小型の魔導獣。


 見た目だけなら普通の親子。


 けれど、誰もがどこか傷ついていた。


 ケイが野営地に入ると、視線が一斉に集まった。


 警戒。好奇心。恐怖。同情。値踏み。祈るような目。


 炎麗夜が声を張る。


「拾った! 名前はケイ。胸に厄介なもん抱えてるけど、魔都の犬じゃない。手ぇ出すなよ!」


 すぐにあちこちから声が返った。


「また拾ったのか、姐さん!」


「食い扶持増やしてどうすんだ!」


「顔がいいから許す!」


「顔で米は増えないぞ!」


「増えたら便利なのにねえ!」


 思ったより騒がしかった。


 ケイは呆気に取られた。


 炎麗夜は平然としている。


「見ての通り、まとまりはない」


「でも……」


「ん?」


「少し、安心しました」


「そりゃよかった。地獄でも飯時はうるさい方がいい」


 ケイは野営地を見回した。


 小さな子どもが、半デーモンの老人の膝に乗って笑っている。義肢の女が壊れた鍋を叩いて直している。少年たちが水を運んでいる。誰かが喧嘩をし、誰かが仲裁し、誰かが歌っている。


 ミライの村とは違う。


 けれど、ここにも生活があった。


 逃げている人々の生活。


 奪われた人々の、まだ奪われていない時間。


 炎麗夜はケイを焚き火のそばへ座らせた。木の椀に入った煮込みを渡される。豆と根菜と、少しだけ肉が入っていた。


「食べな。うちの飯は薄いけど、毒は入ってない」


「毒入りが普通に選択肢にある世界なんですか」


「たまにね」


「怖い」


「慣れるなよ。慣れたら終わりだ」


 炎麗夜は隣にどかりと座り、自分の椀を豪快にかき込んだ。


 ケイも一口食べる。


 熱い。


 塩気がある。


 それだけで泣きそうになった。


 焚き火の向こうで、額に布を巻いた少年がケイを見ていた。年は十二、三くらい。視線が合うと、慌てて顔を逸らす。隣の少女が肘でつつき、何か囁いて笑った。


「みんな、姫核持ちなんですか」


 ケイは小声で聞いた。


「全員じゃない。姫核持ちの家族、魔都から逃げた兵士、発症者を匿ったせいで村を追われた者、デーモン事故の被害者。いろいろさ」


「こんなにいるんですね」


「こんなもんじゃない」


 炎麗夜は火を見つめた。


「魔都の役人は、発症者は少数だって言う。危険な病だから隔離するだけだってね。でも実際は、あちこちで狩りが起きてる。昨日まで畑にいた子が、今日には病人。家族が泣けば反逆者。隠せば村ごと処罰。逃げれば野盗か賞金稼ぎに売られる」


「ミライも、そうだった」


「その子の名前、覚えてるんだね」


「忘れたくないから」


 炎麗夜は、少しだけ優しい顔をした。


「いいことだ。姫核狩りで一番怖いのは、死ぬことじゃない。忘れられることだ」


 ケイは椀を抱えたまま、焚き火を見つめた。


「アカツキは、どうしてそんなことをするんですか。救うためって、村長さんは言ってました」


「紅華を救うためさ」


「コウカ?」


「アカツキのデーモン。昔は人間だったって噂もある。あいつは紅華を戻すために姫核を集めてる。バベルに喰われる前に自分が抜き取れば、魂だけは救えると思ってる」


「本当に救えてるんですか」


「知らない」


 炎麗夜の声が硬くなった。


「でも、救えてるなら、抜かれた子の名前があんなふうに消えるはずない」


 その言葉で、ケイはミライの葬儀を思い出した。


 顔が思い出せないと呟いた村人。


 声を忘れた女。


 必死に名前を呼ぶ村長。


「魔都も、アカツキも、野盗も……みんな奪うんですね」


「そういう世界だ」


「嫌な世界」


「おいらもそう思う」


 炎麗夜は笑った。


 怒っているような、泣いているような笑いだった。


「だから逃げる。生き延びる。名前を呼び合う。奪われても、また名乗る。そうやって、しぶとくやるしかない」


 ケイは、野営地の人々を見た。


 あの人たちの中にも、ミライのような誰かがいる。ミライになりかけている誰かがいる。すでに誰かを失った人がいる。


 自分は帰りたい。


 それは変わらない。


 元の世界に戻りたい。自分の部屋に帰りたい。友人に会いたい。学校へ行きたい。宿題が嫌だと文句を言いたい。コンビニでアイスを買いたい。


 けれど、目の前にいる人たちをただの夢だとは思えなかった。


 ここで泣き、笑い、食べ、眠り、名前を呼び合っている人たちを、偽物だとは思えなかった。


 炎麗夜が言った。


「魔都エデンに行きたいなら、あたしたちと来な」


 ケイは顔を上げる。


「あたしたちはヨコハマ港跡地へ向かう。そこから国外へ逃げる」


「国外って、行けるんですか」


「行けるかもしれない。行けないかもしれない」


「また、たぶんですか」


「この世界で確実なことなんて、腹が減ることと、魔都が嘘をつくことくらいだ」


 炎麗夜は肩をすくめた。


「ヨコハマ港には、魔都が使ってる輸送デーモンがある。クジラ型のでかいやつだ。そいつを奪って海へ出る」


「それ、かなり無茶では」


「無茶だよ」


「ですよね」


「でも、魔都へ向かうなら途中までは同じ道だ。あんたは魔都に答えを探しに行く。おいらたちは魔都の喉元を噛みちぎって逃げる。目的は違うけど、しばらくは一緒に歩ける」


 炎麗夜は、まっすぐケイを見た。


「どうする」


 ケイはすぐに答えられなかった。


 焚き火が揺れる。


 遠くで誰かが笑う。


 別の誰かが、夜の見張りの準備をしている。


 空には見慣れない星が出ていた。いや、星は同じかもしれない。ケイが知らないだけかもしれない。それでも、星座の形がどこか違って見える。


 帰りたい。


 でも、逃げたくない。


 ミライの名を覚えていると言った。


 その言葉は、ただ記憶するという意味だけでは済まない気がした。


「一緒に行きます」


 ケイは言った。


 炎麗夜は、にやりと笑った。


「決まりだね」


「でも、戦えません。刃物もろくに使えないし、地図も読めないし、この時代のこと何も知らないし」


「自覚があるのはいいことだ」


「褒めてます?」


「半分」


「残り半分は?」


「鍛えがいがありすぎて頭が痛い」


 ケイは苦笑した。


 その時、黄金の猪フレイが近づいてきて、ケイの足元の匂いを嗅いだ。


「ひゃっ」


 ケイが身を引くと、フレイはふんと鼻を鳴らした。


 炎麗夜が笑う。


「気に入られたね」


「今ので?」


「噛まれてないからね」


「基準が低い」


 周囲の何人かが笑った。


 ケイも、少しだけ笑った。


 笑ってから、心の中でミライの名を呼んだ。


 忘れていない。


 まだ。


     *


 その夜、ケイは天幕の端で眠った。


 貸された毛布は薄く、地面は硬かった。遠くで見張りの声が聞こえる。誰かが咳をする音。デーモンの低い駆動音。火の爆ぜる音。風が高架の残骸を鳴らす音。


 眠れるはずがないと思っていた。


 けれど、身体は限界だった。


 目を閉じると、あっという間に意識が沈んだ。


 夢を見た。


 白い宮殿。


 ありえないほど白く、冷たい宮殿だった。


 床は磨かれた石。壁には金の紋様。天井は見えないほど高く、星空のように暗い。窓の外には雲も空もなく、ただ白い光だけが満ちている。


 ケイは裸足で立っていた。


 胸元の紋様が、夢の中でははっきり光っている。


「ここ……」


 声が反響した。


 宮殿の奥に、黄金の玉座があった。


 その前に、九つの影が並んでいる。


 一つ目の影は剣を持っていた。


 二つ目の影は獣を従えていた。


 三つ目の影は鳥の翼を持っていた。


 四つ目、五つ目、六つ目、七つ目、八つ目。


 そして九つ目の影だけが、輪郭を失っていた。空席のようで、棺のようで、誰かの形をした穴のようだった。


 ケイは息を呑む。


 九つの影のうち、最初の一つが振り返った。


 顔は見えない。


 けれど、その視線が自分に向けられていることだけはわかった。


 声が響く。


 ――アインではない者よ。


 ケイの胸が痛む。


 影は言った。


 ――なぜ、私の名を持っている。


 ケイは後ずさった。


「知らない。私は、あなたじゃない」


 影が一歩近づく。


 床に剣の音が響く。


 ――では、なぜ門を越えた。


「知らないってば」


 ――なぜ、死者の記録を宿す。


「知らない!」


 ケイは叫んだ。


 白い宮殿が震える。


 九つの影が、いっせいに彼女を見た。


 その中に、ミライの声が混じった気がした。


 ケイ。


 名前を呼ぶ声。


 ケイは胸元を押さえ、影を睨んだ。


「私は螢。ケイ。あなたの名前なんか持ってない。勝手に入ってきたなら、出ていって」


 影は沈黙した。


 やがて、剣を下ろす。


 ――ならば、選べ。


「何を」


 ――名を失うか。名を背負うか。名を変えるか。


 ケイは答えられなかった。


 宮殿の奥で、黄金の玉座が軋んだ。


 誰も座っていないはずの玉座から、幼い少女のような笑い声が聞こえた。


 それは優しくも、残酷でもあり、どこか遠い神の声のようでもあった。


 夢が崩れる。


 最後に、影がもう一度言った。


 ――アインではない者よ。


 ――おまえの名は、いつまでおまえのものだ。


     *


 ケイは目を覚ました。


 夜明け前だった。


 天幕の布越しに、空が薄く白んでいる。焚き火の残り火が赤く光り、誰かの寝息が聞こえる。フレイが少し離れたところで丸くなって眠っていた。


 ケイは胸元を押さえた。


 紋様は淡く光っている。


 けれど、夢の中ほど強くはない。


 彼女は小さく息を吐いた。


「私は、ケイ」


 声は震えていた。


 けれど、言えた。


「ミライ。炎麗夜。ケイ」


 覚えている名前を、順番に呼ぶ。


 遠くで、朝の見張りが交代する声がした。


 新しい一日が始まる。


 世界はまだ、ケイの知っている世界ではない。


 だが、この世界にも朝は来る。


 そして朝が来るなら、歩かなければならない。


 ケイは毛布を握りしめ、もう一度だけ呟いた。


「帰る。だけど、その前に……知りたい」


 自分の胸に宿ったものの正体を。


 ミライを奪ったものの名を。


 アカツキが救いと呼んだ行為の真実を。


 魔都エデンが隠しているものを。


 そして、アインという名が、自分をどこへ連れていこうとしているのかを。


 朝の光が、壊れた高架の隙間から差し込む。


 その光は、荒野を黄金色に染めていった。

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