第1話 1999年、第七の月
夏休みは、世界が終わったあとにも来るのだろうか。
終業式の体育館は、蒸し暑かった。
窓を全開にしても、風はほとんど入ってこなかった。天井に取りつけられた古い扇風機が、ぐるぐると気休めみたいに回っている。先生たちの声はマイクを通して響いていたけれど、生徒たちの大半は聞いていなかった。聞いているふりだけはしていた。
夏休み。
その言葉だけが、体育館の空気の中で妙にはっきりしていた。
「えー、生活リズムを崩さないように。夜更かしはほどほどに。水難事故、交通事故、知らない人についていかない」
教頭先生の声が、汗で湿った空気の上を滑っていく。
螢は、体育座りの膝の上に両腕を乗せ、ぼんやり前を見ていた。名前は螢。けれど、友人たちはたいてい彼女をケイと呼ぶ。
眼鏡の奥で、黒い瞳が少しだけ眠たそうに揺れている。
校長先生の話が長かったからではない。昨夜遅くまで、夏休みに読むつもりだった文庫本の一冊目を開いてしまったせいだ。開いただけのつもりだったのに、気づけば午前二時だった。夏休み前日の夜というものは、どうしてあんなに人間の判断力を奪うのだろう。
「螢、寝てる?」
隣から小声が飛んできた。
ケイは首を傾けるだけで、視線は前に向けたまま答えた。
「起きてる。半分くらい」
「半分寝てるじゃん」
「半分起きてるからセーフ」
友人のユカが、口元を押さえて笑った。
その隣では、ミホが配られたプリントを団扇代わりにしている。教師に見つからないよう、手首だけでぱたぱたと動かしていた。
「ねえ、ケイ。夏休み、何する?」
「宿題を早めに終わらせる」
「出た、優等生発言」
「発言だけなら誰でもできるよ」
「やらないんだ」
「八月三十日の私がなんとかする」
ユカが声を殺して笑い、ミホが「未来の自分に丸投げするな」と小さく突っ込んだ。
遠くで、先生が咳払いをした。三人は一斉に黙る。
壇上では、生活指導の教師がマイクを握っていた。
「それから、最近はテレビや雑誌で妙な予言が騒がれていますが、根拠のない噂に振り回されないように。世界はそう簡単に滅びません」
体育館のあちこちで、微かな笑いが起きた。
ノストラダムスの予言。
一九九九年、第七の月。
空から恐怖の大王が降ってくるとか、アンゴルモアの大王がどうとか、マルスが幸福に統治するとか、テレビで何度も聞いた言葉。
生徒たちの大半は、本気になんてしていなかった。少なくとも、ケイの周りではそうだった。
世界が滅びる。
それは、数学の宿題や部活の合宿や、親に内緒で行く映画の予定よりも、ずっと遠い話だった。
終業式が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
机の中の教科書を持ち帰る者。ロッカーに荷物を詰め込む者。夏休みの部活予定を確認する者。担任に捕まって補習の話をされている者。誰かが「海行こうぜ」と叫び、誰かが「金ない」と返した。
ケイは鞄に宿題の束を押し込みながら、ため息をついた。
「重い」
ミホが覗き込む。
「全部持って帰るの?」
「置いていったら、存在を忘れる」
「それは正しい」
ユカは窓際で空を見上げていた。
「ねえ、明日、本当に世界が滅びたらどうする?」
教室の喧騒の中、その言葉だけが少しだけ浮いた。
ケイは鞄のファスナーを閉めながら、何気なく答えた。
「世界が滅びるなら、せめて宿題が出る前にしてほしいかな」
「もう出てるじゃん」
「だから手遅れ」
ユカが笑った。
ミホは「私はプリクラ撮ってから滅びたい」と言い、ユカは「私は好きな人に告白してからかな」と言った。
「ケイは?」
「え?」
「世界が終わる前にしたいこと」
ケイは少し考えた。
特に思いつかなかった。
本を読む。アイスを食べる。明日の朝、目覚ましをかけずに寝る。部屋の掃除をする。いや、掃除は世界が終わる前にやることではない気がする。
「普通に帰って、アイス食べて、昼寝したい」
「欲がない」
「平和主義なんだよ」
そう言って、ケイは笑った。
その時の笑い声を、彼女はあとで何度も思い出すことになる。
まだ世界が普通だった頃の、自分の声として。
*
午後の日差しは白く眩しかった。
校門の外には、自転車の列と、部活へ向かう生徒たちの声が混じっていた。ケイはユカやミホと途中まで一緒に歩き、駅前の交差点で別れた。
「じゃ、またね。世界が滅びなかったら」
「滅びても連絡して」
「どうやって」
「気合いで」
「無茶言うなあ」
そんなやり取りをして手を振る。
ケイはコンビニに寄った。冷房の効いた店内に入った瞬間、汗ばんだ肌が一気に冷える。天国だ、と心の中で思った。
アイスケースの前にしゃがみ込む。ソーダ味か、チョコモナカか、カップアイスか。三分悩んで、結局いつものソーダバーを選んだ。レジ横のテレビでは、ワイドショーが流れている。
『いよいよ明日、恐怖の大王が来るのか――』
司会者が大げさな声で言い、コメンテーターたちが笑っていた。
『まあ、予言というのは解釈次第ですからねえ』
『でも、こういう時期は災害や事故への備えを見直す良い機会でもあります』
『若い人たちはどう見ているんでしょうね』
ケイは財布から小銭を出しながら、ちらりと画面を見た。
画面の下に、派手な文字が躍っている。
一九九九年七月。
恐怖の大王、来る?
来るわけないじゃん、と彼女は思った。
会計を済ませ、コンビニの外へ出る。包装を破り、ソーダバーをひと口かじった。舌に冷たさと甘さが広がる。
「あー、生き返る」
自転車置き場へ向かいながら、ケイは鞄を前かごに放り込んだ。眼鏡を指で押し上げ、片手でハンドルを握る。
蝉が鳴いている。
車が走っている。
遠くで犬が吠えている。
どこにでもある、夏の午後だった。
ペダルを踏み込む。住宅街を抜け、緩い坂道を下る。風が制服の袖を膨らませる。スカートが膝の上で揺れる。溶けかけたアイスを急いでかじる。
その時だった。
空の色が、変わった。
「……え?」
最初は夕焼けかと思った。
けれど、まだ夕方には早すぎる。太陽は高い。雲も少ない。なのに、東京方面の空だけが、血を薄く溶かしたような赤に染まっている。
ケイはブレーキを握った。
自転車が小さく軋んで止まる。
歩道の人々も、同じ方向を見ていた。犬の散歩をしていた老人が立ち止まり、買い物袋を下げた女性が口を開ける。小学生たちが「なにあれ」と騒ぐ。
東京方面の空に、光の柱が立っていた。
白い。
いや、金色にも見える。
それは雲を貫き、空のさらに上へ伸びているようだった。まるで、地上から天に突き刺さった巨大な槍。あるいは、空の裂け目から落ちてきた光。
音はなかった。
いや、違う。
音が消えていた。
車のエンジン音も、蝉の声も、人のざわめきも、風の音も、すべてが遠のいた。耳の奥を、水の中に沈められたような静けさが満たす。
信号機が一斉に黒くなった。
赤でも青でも黄色でもなく、完全な黒。歩行者用の小さな人型も消える。電柱の影が、ぐにゃりと伸びた。
伸びた影は、地面の上をただ長くなるのではなく、まるで意志を持つもののように、光の柱の方向へ引かれていく。
ケイは息を呑んだ。
手の中のアイスが溶け、指に甘い液が垂れた。
胸が痛む。
心臓ではない。もっと奥。骨の内側。胸骨の裏に、小さな針を差し込まれたような痛み。
その痛みの底から、声がした。
知らない声。
女の声のようで、男の声のようでもあった。遠い。ひどく遠い。けれど、耳ではなく身体の中で響く。
――門が開く。
ケイは自分の胸を押さえた。
「なに……?」
光の柱が、膨らんだ。
空が割れたように見えた。
次の瞬間、彼女の視界が白く弾けた。
何かに撥ねられた。
車ではない。風でもない。音でもない。世界そのものに横から殴られたような衝撃だった。
自転車が宙に浮いた。
鞄が飛ぶ。
壊れた眼鏡が視界の端で光る。
地面が遠ざかる。
誰かが叫んでいる。
その声が、自分のものなのか、他人のものなのか、ケイにはわからなかった。
最後に見えたのは、赤い空と、白い柱と、自分の影が人の形を失って、巨大な翼のように伸びていく光景だった。
*
暑い。
最初に戻ってきた感覚は、それだった。
暑い。
肌が焼ける。喉が痛い。唇が乾いている。瞼の裏が赤い。身体の下にあるものが硬く、ざらざらしている。
ケイは、ゆっくり目を開けた。
青空があった。
ありえないほど高い青空だった。
雲がない。電線もない。ビルもない。学校の体育館の天井も、駅前の看板も、住宅街の屋根もない。ただ、空だけがあった。
「……え?」
声が掠れた。
身体を起こそうとして、腕に力が入らなかった。肘が砂に沈む。いや、砂ではない。細かく砕けた白い土。灰のようにも見えた。
咳き込む。
口の中に乾いた土の味が広がった。
「げほっ、なに、ここ……」
ようやく半身を起こす。
周囲には、何もなかった。
見渡す限りの荒野。
地面は円形に抉れている。自分はその中心にいた。まるで巨大な隕石でも落ちたあとのようなクレーター。縁は遠く、熱で焼かれたように黒く光っている。
ケイは自分の身体を見下ろした。
制服はところどころ焼け焦げ、ブラウスの前は破れている。スカートも裾が裂け、靴下は片方だけになっていた。けれど、不思議なことに、大きな怪我はなかった。擦り傷はある。打ち身もある。全身が痛い。けれど、骨が折れているような激痛はない。
手元に、眼鏡の片方だけが落ちていた。
フレームは歪み、片方のレンズは割れている。もう片方はなくなっていた。
ケイはそれを拾った。
拾った瞬間、ひどく現実的な悲しさが込み上げた。
「うそ……これ、買ったばっかりなのに」
言ってから、そんな場合ではないと気づく。
ここはどこなのか。
自分は事故に遭ったのではなかったか。
ユカは。ミホは。街の人たちは。東京方面のあの光は。
「夢……?」
呟いた瞬間、胸が痛んだ。
ケイは息を詰めた。
ブラウスの裂け目から、自分の胸元が見えた。胸骨のあたりに、淡い紋様が浮かんでいる。
傷ではなかった。
血も出ていない。
けれど皮膚の下に、薄い光が埋まっている。複雑な線。円。羽根のような形。剣のような形。文字にも見えるが、読めない。光は心臓の鼓動に合わせるように、弱く明滅していた。
「なに、これ……」
指で触れる。
熱かった。
火傷しそうな熱ではない。もっと内側から発する熱。触れた指先ではなく、触れられた胸の奥が震えた。
また、声がした。
――アイン。
ケイは手を離した。
「誰?」
答えはない。
荒野に風が吹く。乾いた土が舞い、彼女の髪に絡んだ。遠くで何かが軋むような音がした。
ケイは立ち上がろうとした。
膝が笑う。足に力が入らない。それでも立たなければと思った。ここにいても何もわからない。水もない。人もいない。
クレーターの縁へ向かって歩き出す。
一歩。二歩。三歩。
地面が熱い。靴底越しに熱が伝わってくる。喉が焼ける。頭がぼうっとする。
何度も転びそうになった。
クレーターを出た先にも、荒野が続いていた。
遠くに、黒く焼けた塔の残骸のようなものが見えた。ビルだろうか。いや、ビルにしては形が歪んでいる。空に向かって腕を伸ばした骸骨のようだった。
道路らしきものはない。電柱もない。標識もない。
ただ、地平線の向こうに、陽炎が揺れている。
「日本……じゃ、ないよね」
そう言ってから、ケイは笑いそうになった。
日本どころか、地球かどうかも怪しい。
でも、空は青い。太陽は暑い。重力もある。喉も乾く。たぶん地球だ。そう思いたい。
歩く。
膝が崩れる。
立ち上がる。
また歩く。
何分経ったのか、何時間経ったのか、わからなくなった頃だった。
遠くに、何かが動いた。
最初は馬だと思った。
黒い影が、荒野の向こうから近づいてくる。四本の脚。長い首。背に人のような影が乗っている。
助かった。
そう思いかけて、ケイは足を止めた。
馬ではなかった。
脚の関節が、変だった。生き物のしなやかさと、機械の硬さが同時にある。胴体には金属の装甲のようなものがあり、その隙間から筋肉のような赤黒い繊維が見えた。目にあたる部分には青い光が灯っている。背中の人影も、乗っているというより、半ばその生き物とつながっているように見えた。
馬に似た機械。
あるいは、機械にされた馬。
「……時代劇じゃなくて、SF?」
声に出した瞬間、視界が傾いた。
乾いた地面が近づいてくる。
倒れる寸前、誰かの声が聞こえた。
「お父さん! 人がいる!」
それは、ちゃんと日本語だった。
ケイは、少しだけ安心した。
そして、意識を失った。
*
次に目を覚ました時、天井があった。
低い木の天井。
煤で黒ずんだ梁。
その梁から、小さな灯りが吊るされている。
灯りは炎ではなかった。ガラス玉のようなものの中に、青白い光が揺れている。電球にも見えるが、電線がない。火でもない。蛍の光を閉じ込めたような、静かな灯り。
ケイは瞬きをした。
「……知らない天井」
「起きた?」
横から声がした。
ケイは反射的にそちらを向こうとして、身体の痛みに顔をしかめた。
「いっ……」
「無理しないで。かなり弱ってたから」
少女がいた。
ケイと同じくらいの年だろうか。少し幼く見える。日に焼けた肌。黒い髪を後ろで束ね、粗末な麻のような服を着ている。けれど、その目は大きく、真っ直ぐで、人を疑うことをまだ覚えていないような優しさがあった。
少女は木の椀を差し出した。
「水。ゆっくり飲んで」
ケイは椀を受け取ろうとしたが、手が震えてうまく持てなかった。少女が支えてくれる。
水を飲んだ瞬間、喉が音を立てて生き返った。
「おいしい……」
「ただの井戸水だけど」
「今まで飲んだ水で一番おいしい」
少女は少し笑った。
「大げさ」
「本当だよ」
ケイは椀を抱えたまま、部屋を見回した。
床は板張り。壁は土壁。隅には囲炉裏がある。鍋が吊るされ、煙の匂いが染みついている。障子の向こうから、鶏の鳴き声のようなものが聞こえた。
江戸時代の農家。
最初に浮かんだ印象はそれだった。
けれど、すぐに違和感が入ってくる。
梁の魔法みたいな灯り。
囲炉裏の脇に置かれた、ひび割れた黒い板状の機械。タブレット端末に似ているが、表面には見たことのない文字と紋様が刻まれている。壁には古い紙のお札のようなものと、金属製の小さな歯車が一緒に吊るされていた。
古いのか、新しいのか、わからない。
「ここ、どこ?」
少女はきょとんとした。
「ここ? ミナセ村」
「ミナセ村……」
知らない地名だった。
「県は? 県とか、市とか」
「ケン?」
「えっと、日本の、どこ?」
少女はさらに不思議そうな顔をした。
「ニホンだよ。日の国ニホン」
その言葉に、ケイは少しだけ身体を起こした。
「日本……ここ、日本なの?」
「うん」
「東京は?」
少女の顔から、笑みが消えた。
その反応に、ケイの胸が冷える。
「トキオのこと?」
「うん。東京。都庁とか、山手線とか、渋谷とか、新宿とか」
少女は、半分くらいしかわからないという顔をした。
「トキオは、死都だよ」
「……しと?」
「死んだ都。近づいちゃいけない場所。お父さんがそう言ってる」
ケイは言葉を失った。
冗談だと思いたかった。
けれど少女の顔は、冗談を言っている顔ではなかった。誰もが知っている当たり前のことを、当たり前に説明している顔だった。
「あなた、名前は?」
「あ……螢。螢って書いて、ケイ。友達はケイって呼ぶ」
「ケイ」
少女はその名を確かめるように呼んだ。
不思議だった。
知らない場所で、知らない少女に自分の名前を呼ばれただけで、少しだけ足元が戻ってきた気がした。
「私はミライ」
「ミライ……未来?」
「うん。お父さんがつけてくれたの。変?」
「ううん。いい名前」
ケイは本当にそう思った。
未来。
今の自分には、あまりにも眩しい名前だった。
障子が開き、髭を生やした男が顔を出した。五十代くらいだろうか。日に焼け、皺が深い。手には鍬を持っていた。
「目が覚めたか」
「はい。あの、助けてくれて、ありがとうございます」
ケイが頭を下げようとすると、男は手で制した。
「礼はいい。荒野で倒れている娘を見捨てるほど、この村は落ちぶれておらん」
ミライが少し誇らしげに笑う。
「お父さんは村長なの」
「村長……」
ケイは混乱したまま男を見る。
「すみません。私、何が起きたのか全然わからなくて。ここ、本当に日本なんですか? 今、何年ですか?」
男とミライが顔を見合わせた。
「何年、と来たか」
「ケイ、記憶喪失なの?」
「いや、記憶はある。学校帰りで、コンビニでアイス買って、自転車に乗ってて、それで空が赤くなって、光の柱が……」
話しながら、ケイは自分の声が震えていることに気づいた。
ミライは不安そうに彼女を見つめる。村長は少し考え、囲炉裏の脇に腰を下ろした。
「今は、魔都暦二一一年。旧暦で言えば、二四一一年だ」
ケイは、聞き間違えたと思った。
「……え?」
「二四一一年」
「にせん、よんひゃく……?」
「そうだ」
ケイは笑った。
乾いた、変な笑いだった。
「いや、待って。私、一九九九年から来たんだけど」
ミライが目を丸くした。
村長の表情が硬くなる。
「一九九九年?」
「七月。二十日。終業式で。明日世界が滅びるとか、そういう予言がテレビでやってて」
村長は、長い沈黙のあと、低く言った。
「トキオ聖戦の年だ」
「トキオ、聖戦……?」
「古い記録では、そう呼ばれている。一九九九年。第七の月。空より恐怖の大王が来たりて、トキオは一日のうちに死都となった。その後、女帝ヌルが現れ、神奈川の地に帝都エデンを築いた。帝都は百年栄えたが、やがてノアインパクトで世界は洗い流された」
「待って。待ってください。全然わからない」
ケイは頭を押さえた。
トキオ聖戦。
女帝ヌル。
帝都エデン。
ノアインパクト。
聞いたことのない言葉が、知っているはずの世界の上に乱暴に重ねられていく。
「東京が死都って、何? 日本は? 世界は? 私の家は? 学校は?」
声が高くなる。
ミライが慌ててケイの肩に触れた。
「ケイ、落ち着いて。まだ起きたばかりなんだから」
「落ち着けるわけないじゃん!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ミライがびくりとする。
ケイはすぐに後悔した。
「ごめん……ごめん、怒鳴るつもりじゃ」
「ううん」
ミライは首を振った。
「怖いよね。知らない場所で目が覚めたら、私だって怖い」
その言葉が、ケイの胸に刺さった。
怖い。
そうだ。
怖いのだ。
未来に来たのかもしれない。異世界に来たのかもしれない。死んだのかもしれない。夢かもしれない。どれが正解でも怖い。
ケイは震える手で、胸元の紋様を押さえた。
布の下で、光が微かに脈打つ。
ミライがそれを見て、目を細めた。
「それ……聖痕?」
「知ってるの?」
「ううん。ちゃんとは知らない。でも、村でそういう話を聞いたことがある。ヒミカ症候群の人には、身体に光る印が出るって」
「ヒミカ、症候群?」
村長が厳しい声を出した。
「ミライ」
ミライははっとして口を閉じた。
ケイは二人を見る。
「なに、それ。病気?」
村長は答えなかった。
その沈黙が、答えよりも嫌だった。
*
夕方近く、ケイはようやく外へ出た。
ミナセ村は、小さな農村だった。
古い木造の家々。土の道。水路。畑。遠くに低い山。人々は簡素な服を着て、鍬や籠を手に働いている。だけど、畑の端には奇妙な装置が立っていた。風車のようで、祠のようで、金属の羽根がゆっくり回っている。地面に刺さった棒の先では、青白い光が点滅していた。
「魔導水汲み機」
ミライが説明してくれた。
「古い帝都の部品を直して使ってるの。たまに暴走するけど、井戸だけよりは助かるから」
「帝都って、さっき言ってた帝都エデン?」
「うん。でも、もうないよ」
「ない?」
「ずっと昔に滅びたんだって。今は魔都エデンがある。すごく大きくて、すごく綺麗で、すごく怖いところ」
「怖いの?」
「うん。村から連れていかれた人は、誰も帰ってこないから」
ミライは、何でもないことのように言った。
何でもないこととして言えるくらい、この村ではそれが当たり前なのだ。
ケイは畑の向こうを見た。
地平線の先に、薄く黒い影が見える。山ではない。雲でもない。あれが魔都エデンなのか、それとも別の廃墟なのか、ケイにはわからなかった。
「ミライは、魔都に行ったことある?」
「ない。行きたいとも思わない」
「どうして?」
「綺麗なものは、遠くから見るくらいがちょうどいいって、お父さんが言ってた」
ケイは少し笑った。
「お父さん、詩人?」
「ただの頑固者」
ミライも笑う。
笑うと、本当に普通の少女だった。
この時代のことを知らなければ、ただの田舎の女の子に見えた。家の手伝いをして、父親に叱られて、友達と笑って、たぶん好きな食べ物があって、苦手な虫がいて、将来の夢もある。
未来という名前の少女。
その背中に、ケイはふと目を留めた。
服の襟元から覗く首筋の下。肩甲骨のあたりに、薄い光が浮かんでいた。
最初は夕日の反射かと思った。
だが違う。
淡い、羽根のような紋様。
「ミライ」
「なに?」
「背中……」
言いかけた瞬間。
空が裂けるような音がした。
爆音。
地面が揺れた。
村の犬が吠え、鶏が飛び跳ね、畑で働いていた人々が一斉に顔を上げる。子どもが泣き出した。遠くの道の向こうに、土煙が上がっている。
ミライの顔が青ざめた。
「まさか」
村長が家から飛び出してくる。
「全員、家に入れ! 子どもを隠せ!」
叫び声が村中に広がる。
ケイは何が起きているのかわからないまま、ミライに腕を引かれた。
「こっち!」
「なに? 何が来るの?」
「姫核狩り!」
その言葉の意味を聞く前に、土煙の中から鋼鉄の足音が響いた。
がしゃん、がしゃん、と規則正しく。
道の向こうから現れたのは、人間ではなかった。
いや、人間もいた。
けれど、彼らは黒い装甲を纏っていた。鎧というより、機械の外骨格。肩には魔導炉の小さな光があり、腕には銃のようなもの、背中には折り畳まれた盾。顔は仮面で覆われ、目にあたる部分だけが青く光っている。
その列の上空を、黒い影が旋回していた。
鳥。
違う。
鳥に似た機械。いや、機械に似た鳥。
赤い羽根を持つキツツキのような姿。長い嘴は槍のように鋭く、翼の一枚一枚が矢じりの形をしていた。
その背に、女が立っていた。
紅い髪。
漆黒の翼。
肩に掛けた短い外套が風に鳴る。目つきは鋭く、唇には笑みがある。右腕には弓とも銃ともつかない装置が装着されていた。背後の鳥型デーモンと神経がつながっているように、彼女の動きに合わせて翼が震える。
女は村の中央に降り立った。
「魔都エデン政府直属、姫核対策執行部隊バイブ・カハ、マッハだ」
声は明るい。
まるで酒場で名乗るような調子だった。
「ヒミカ症候群の疑いがある者を隔離する。抵抗しなけりゃ痛い目は見なくて済むよ。たぶんね」
村人たちがざわめく。
村長が前に出た。
「この村に病人はいない」
「それを決めるのは、あんたじゃない。魔都だ」
「子どもを連れていく気か」
「発症者ならね」
「連れていかれた者は帰ってこない」
マッハは肩をすくめた。
「病気が重いんだろ」
「嘘をつくな!」
村長の声が震えた。
マッハの笑みが少しだけ冷える。
「おいおい。女帝様の名のもとに行われる隔離政策を、嘘呼ばわりかい? 爺さん、長生きしたけりゃ口の場所くらい選びな」
魔導装甲兵が一歩前に出る。
村人たちは後ずさった。鍬を握る者もいた。だが、その手は震えている。鍬であんな装甲に勝てるはずがないことくらい、誰にでもわかる。
ケイはミライの手を握っていた。
ミライの手は冷たかった。
「ケイ、離れて」
「嫌だ」
「お願い。私、たぶん……」
ミライの声が小さくなる。
その背中から、光が強くなった。
服の布越しにもわかる。淡い羽根の紋様が、まるで呼吸するように広がっていく。
マッハの目が、それを捉えた。
「ああ、いた」
彼女は笑った。
獲物を見つけた獣のように。
「そこの娘。背中を見せな」
村長が叫ぶ。
「ミライを隠せ!」
村人たちが一斉に動いた。数人の男がマッハの前に立ちはだかり、女たちがミライを囲もうとする。
だが、魔導装甲兵が腕を振るだけで、男たちは弾き飛ばされた。
ケイの目の前で、ひとりが土壁に叩きつけられる。もうひとりは水路に落ち、呻いた。血が出ている。
「やめて!」
ミライが叫ぶ。
その声に反応したように、彼女の聖痕がさらに強く光った。
マッハが舌打ちする。
「発症反応、上昇。やっぱり姫核持ちか。面倒なことになる前に回収するよ」
「回収って……人間でしょ!」
ケイは前に出ていた。
自分でも驚いた。
怖い。足が震える。相手は武装している。自分は壊れた眼鏡を持っただけの女子高生だ。
それでも、言葉が勝手に出た。
「病気って、そんな連れていき方ある!?」
マッハがケイを見た。
最初は、邪魔な子どもを見る目だった。
だがすぐに、その表情が変わる。
彼女の視線が、ケイの胸元に落ちた。
焼けたブラウスの裂け目。そこから覗く、胸骨の淡い紋様。
マッハの笑みが消えた。
「おまえもか」
ケイは息を呑んだ。
魔導装甲兵たちの仮面が、一斉にこちらを向く。
青い光の目が並ぶ。
マッハは鳥型デーモンに手を伸ばした。
「フェザーアロー」
赤いキツツキが翼を広げる。
翼の羽根が、一本ずつ矢に変わった。
「対象二名。生体姫核反応あり。隔離する」
「隔離じゃないだろ、それ!」
ケイは叫んだ。
マッハは笑った。
「言葉は便利だよ。連行も保護も隔離も、紙に書くと似たようなもんさ」
赤い羽根の矢が、空中で震えた。
その瞬間。
空気が、紅く裂けた。
村の中央に、影が舞い降りる。
風が、花の香りを運んだ。
場違いなほど甘い香りだった。焼けた土と汗と血の匂いの中に、紅い花の香が混じる。
そこに立っていたのは、花魁だった。
豪奢な紅い衣装。幾重にも重なった裾。高下駄。白い肌。紅い唇。黒く長い髪を結い上げ、髪飾りが夕日を受けて鈍く光っている。
美しかった。
この荒れた村には不似合いなほど、美しい。
けれど、その声は低かった。
「相変わらず、獲物を追う時だけは鼻が利くな。赤毛のマッハ」
ケイはぽかんとした。
女ではない。
その声は、男のものだった。
マッハが目を細める。
「アカツキ」
村人たちがざわめく。
その名を知っている者がいた。知っているからこそ、怯えた。
アカツキと呼ばれた美貌の男は、扇を広げるような仕草で袖を揺らした。
「その娘を渡せ」
「どっちの娘だい?」
「光っている方だ」
「二人とも光ってるよ」
マッハの口元が吊り上がる。
アカツキの視線がケイを掠める。
一瞬だった。
だが、ケイはその目の奥に、何かが揺れたのを見た。驚き。困惑。痛み。あるいは、懐かしさに似たもの。
しかし、アカツキはすぐにミライへ向き直った。
「先にそちらを眠らせる」
次の瞬間、彼の姿が消えた。
いや、消えたのではない。速すぎて見えなかった。
ミライの前に、紅い袖が翻る。
「え――」
ミライが声を漏らすより早く、アカツキは彼女の顎に指を添えた。
その仕草は、優しかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「名は」
アカツキが低く問う。
ミライは震えながら答えた。
「ミライ……」
「そうか」
アカツキは目を伏せた。
「悪くない名だ」
そして、彼女に口づけた。
ケイは動けなかった。
何が起きているのか、理解が追いつかなかった。
口づけの瞬間、ミライの背中の聖痕が強く輝いた。光は胸へ、喉へ、額へと走り、やがて胸骨のあたりに一点として集まる。
アカツキはその光を、唇から吸い上げた。
血は流れない。
叫びもない。
ただ、ミライの身体から力が抜けた。
アカツキがそっと支え、地面に横たえる。
ミライの顔は、苦しんでいなかった。
眠っているようだった。
ほんの少しだけ、笑っているようにも見えた。
「ミライ?」
ケイは膝から崩れた。
「ミライ、ねえ、起きて。嘘でしょ。ねえ」
返事はない。
村長の叫びが響いた。
それでようやく、ケイの中で何かが切れた。
「人殺し!」
声が掠れるほど叫んだ。
アカツキは、ゆっくり振り返った。
紅い唇の端に、薄い笑みがある。けれど、その笑みは得意げでも楽しげでもなかった。どこか苦しそうだった。
「人殺し、か」
「そうでしょ! 今、ミライを……!」
「バベルに喰われる前に眠らせた」
「意味わかんない!」
「わからぬなら、そのまま叫んでいろ。貴様の喉が枯れるまでな」
アカツキは刀を抜いた。
細く、美しい刃。
夕日を浴びて、刃が紅く染まる。
「次は貴様だ。姫核を抱いたまま、バベルに喰われる前にな」
ケイの身体が凍った。
刀の切っ先が、胸元を向いている。
胸骨の紋様が、熱くなる。
心臓の奥で、知らない誰かが目を開けるような感覚がした。
――アイン。
また、その名。
アカツキの背後で、何かが揺れた。
紅い影。
花魁衣装の袖の中から、炎のような装甲がにじみ出ている。人の形をした何か。女の輪郭。顔は見えない。けれど、ケイを見ていた。
アカツキの手が震えた。
刀の切っ先が、わずかに下がる。
「……紅華?」
彼は、自分でも気づかないほど小さな声でつぶやいた。
次に、その目がケイを射抜く。
「違う。貴様は紅華ではない。なら……」
彼の顔が苦痛に歪む。
「なぜ、貴様からアインの匂いがする?」
「アインって、誰……?」
ケイには、それしか言えなかった。
その瞬間、マッハが動いた。
「話し込んでんじゃないよ、アカツキ!」
フェザーアローが放たれる。
赤い羽根の矢が、豪雨のようにアカツキへ降り注ぐ。アカツキは高下駄のまま舞った。ありえない動きだった。踊りのように身を翻し、袖で矢を逸らし、刀で弾き、地面を蹴って宙に浮く。
だが、フェザーアローはただの矢ではなかった。
外れた矢が空中で曲がり、再びアカツキの背を狙う。
ケイは思わず叫んだ。
「後ろ!」
アカツキは振り返らなかった。
それでも、まるで見えているかのように刀を背後へ滑らせる。赤い羽根が火花を散らして砕けた。
マッハが舌打ちする。
「相変わらず化け物じみてるね」
「貴様ほどではない」
「褒め言葉として受け取っとくよ!」
マッハが翼を広げる。彼女の背に、フェザーアローが重なる。紅い髪が逆立ち、黒い翼が鋼のように光る。
魔導装甲兵たちが一斉に銃を構えた。
村は戦場になった。
ケイはミライの身体を抱えたまま、動けなかった。
耳の奥で音が遠くなる。
さっきもそうだった。
光の柱を見た時のように。
世界が、また遠のいていく。
胸の紋様が熱い。
その熱に呼ばれるように、ミライの身体から抜けたはずの光の残り香が、空中に微かに漂っているのが見えた。
名前。
なぜか、そう思った。
あれは命だけではない。
ミライという名前の一部。
彼女が生きていた証のようなもの。
それがアカツキの紅い影へ吸い込まれていった。
「返して……」
ケイの口から、声が漏れた。
誰にも届かないほど小さな声。
「ミライを、返してよ……」
その声に反応したのか、アカツキが一瞬こちらを見た。
その隙を、マッハは逃さなかった。
フェザーアローの一本が、アカツキの肩を掠める。
紅い衣装が裂け、血が散った。
アカツキは顔をしかめる。だが、それ以上に彼の身体が大きく揺れた。
咳き込む。
唇から、赤黒いものがこぼれた。
血だけではない。光の粒が混じっている。
「ちっ……まだ、早い……」
アカツキは胸を押さえた。
マッハが笑う。
「限界かい? 紅い月も落ちる時は落ちるんだねえ」
「黙れ、凶鳥」
「アタイはキツツキだよ!」
マッハが再び矢を構える。
だが、アカツキは戦わなかった。
彼はケイを見た。
長い視線だった。
憎しみではない。殺意でもない。そこには、理解できない感情があった。
「貴様は、まだ殺せん」
彼はそう言った。
そして、紅い袖を翻す。
地面に花弁のような炎が散り、視界が赤く染まった。ケイが瞬きをした時には、アカツキの姿は消えていた。
「逃げたか」
マッハは舌打ちした。
だが、彼女も追わなかった。フェザーアローの鳥型デーモンが低く鳴き、翼を震わせている。どこか傷ついているように見えた。
マッハはケイを見下ろした。
「おまえは、アタイの獲物だ」
ケイは返事をしなかった。
ミライを抱きしめたまま、ただ彼女を睨んだ。
マッハは少しだけ目を細める。
「いい目だね。泣いてるくせに、噛みつきそうな目だ」
彼女は踵を返した。
「今日のところは引く。こっちも損傷が出た。だが、覚えときな。ヒミカ症候群は逃げられない。魔都は必ず回収する」
魔導装甲兵たちが後退する。
鳥型デーモンが翼を広げ、マッハを空へ運ぶ。
土煙と、血と、焼けた匂いだけが残った。
*
夕日は、やけに赤かった。
村の中央には、壊れた水桶、折れた鍬、踏み荒らされた畑、倒れた村人たちが散らばっていた。呻く声がある。泣き声がある。怒鳴り声がある。
その中心で、村長がミライを抱いていた。
彼は何度も娘の名前を呼んだ。
「ミライ。ミライ。ミライ……」
ケイは、少し離れた場所に座り込んでいた。
膝に力が入らなかった。
さっきまで話していた少女が、もう動かない。
水を飲ませてくれた。名前を呼んでくれた。怖いよね、と言ってくれた。その少女が、目の前で奪われた。
死んだのだ。
たぶん。
けれど血はほとんど出ていない。傷も見えない。眠っているだけに見える。だから余計に、現実感がなかった。
ケイは壊れた眼鏡を握りしめた。
割れたレンズの縁が、手のひらに食い込む。
胸骨の紋様は、まだ淡く光っていた。
ミライの背中にあった聖痕と同じように。
ケイは初めて、自分も狩られる側なのだと理解した。
ヒミカ症候群。
姫核。
バベル。
アイン。
わからない言葉ばかりだ。
それでも一つだけわかったことがある。
この世界では、誰かが誰かを、病気と呼ぶ。
誰かが誰かを、材料として連れていく。
誰かが誰かを、救うと言って殺す。
そして、奪われた人の名前は、簡単に風の中へ消えていく。
ケイは震える唇で、彼女の名前を呼んだ。
「ミライ」
村長が顔を上げた。
ケイは涙を拭わなかった。
「ミライ」
もう一度呼ぶ。
忘れないように。
この世界に来て、最初に自分の名前を呼んでくれた少女の名前を。
彼女がただの発症者でも、姫核保持者でも、誰かの材料でもなく、ミライという少女だったことを。
夕暮れの荒野に、ケイの声が小さく落ちた。
遠く、地平線の向こうで、黒い塔のような影が一瞬だけ光った。
ケイはまだ知らない。
その塔の名を。
バベル。
死者の名前を集める、偽りの天界。
そして彼女自身もまた、その塔に呼ばれていることを。
胸の奥で、知らない声が囁く。
――アインではない者よ。
ケイは、涙に濡れた目を上げた。
赤い空を睨む。
「私は、ケイだよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
けれど、言わなければならない気がした。
世界が終わったあとにも、夏は来る。
けれど、その夏はもう、彼女の知っている夏ではなかった。




