↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
母ちゃんが、いる。  作者: もちむぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/20

第九章 彼岸花

第九章 彼岸花


 八年前。


 柏木が塾へやって来たのは、息子の入塾契約をするためだった。


 佑が小学五年生になったばかりの春だった。


「柏木佑の父です。本日はよろしくお願いします」


 柏木はそう言って、丁寧に頭を下げた。


 清潔なシャツに、落ち着いた色のジャケット。髪はきちんと整えられている。派手さはないが、立ち姿が美しかった。


 声も穏やかだった。


 小宮は、一目で心を奪われた。


「担当講師の小宮です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 いつもと同じように微笑んだつもりだった。


 けれど、自分の声が少し高くなっていることに、小宮は気づいていた。


 柏木は契約書へ必要事項を記入しながら、息子のことを話した。


「真面目な子なんですが、自分から質問するのが苦手でして」


「分からないところがあれば、こちらから声をかけるようにします」


「助かります。家では、分かっているとしか言わないものですから」


 息子の話をする柏木の表情は柔らかかった。


 自分の子どもを、心から大切にしている顔だった。


 勤務先を記入する欄で、柏木の手が止まる。


 そこへ書かれたのは、市内にある私立高校の名前だった。


「高校の先生でいらっしゃるんですね」


「はい。国語を教えています」


「そうなんですか」


 小宮は、その学校の名前を頭の中で何度も繰り返した。


 契約を終えた柏木は、最後にもう一度、深く頭を下げた。


「息子を、よろしくお願いします」


「はい。お任せください」


 小宮は、玄関を出ていく柏木の背中を見送った。


 もう一度会いたいと思った。


 次の面談はいつだろう。


 息子の様子を報告する機会なら、これからいくらでもある。


 そう思っていた。


 だが、柏木は来なかった。


 塾への送り迎えも、問い合わせも、面談も、すべて妻が担当した。


 虎柄のミニスカートに、高いヒール。耳元では大きな飾りが揺れている。


「いつも佑がお世話になってまーす」


 女は声が大きく、馴れ馴れしかった。


 面談が始まると、遠慮なく息子の成績表を覗き込む。


「算数、悪っ。あの子、分かってるって言ってたのに、全然分かってないじゃない」


「基礎は理解しています。ただ、応用問題になると少し時間がかかるようです」


「家じゃ何を聞いても大丈夫しか言わないのよ。誰に似たんだか」


 そう言いながら、女は、佑がどこでつまずいているのか、塾で一人になっていないか、講師へ質問できているかと、細かなことまで尋ねた。


 派手で、品がなくて、馴れ馴れしい。


 それなのに、息子のことはよく見ている。


 柏木がこの女を妻に選んだ理由を、小宮は理解できなかった。


 こんな女の、どこがいいのだろう。


 あれほど知的で穏やかな人が、どうしてこの女と一緒にいるのだろう。


 どうすれば、もう一度柏木に会えるだろう。


 小宮は、佑の筆箱を教室の棚の奥へ隠した。


 授業が終わり、佑が帰ったあとで柏木家へ電話をかける。


「佑君が筆箱を忘れていまして。宿題で使うと思いますので、私がお届けします」


 住所は契約書で知っていた。


 柏木が帰宅する時間も、佑との何げない会話から聞き出した。


 小宮は時間を合わせて、柏木家を訪ねた。


「わざわざ届けてくださったんですか」


 玄関へ出てきた柏木は、驚いた顔をした。


「大切なものですから」


「明日でもよかったのに。申し訳ありません」


「いえ。帰り道ですから」


 本当は、まったく違う方向だった。


 柏木は丁寧に礼を言い、筆箱を受け取った。


 それだけだった。


 家の中へ招かれることも、長く話すこともなかった。


 それでも小宮は満足した。


 柏木に会えた。


 自分の顔を覚えてもらえた。


 次は教材を隠した。


 その次は、宿題を書いたノートを隠した。


 佑が自分で忘れたのだと思うよう、隠す物や時期を変えた。


 そのたびに小宮は、柏木の帰宅する時間を狙って届けに行った。


「何度もすみません」


 柏木は毎回、申し訳なさそうに頭を下げた。


「佑にも、忘れ物には気をつけるよう言っておきます」


「まだ小学五年生ですから。こちらでも声をかけるようにします」


 個人面談の案内を出すときには、両親での出席を勧めた。


「今後の学習方針に関わることですので、可能であれば、お父様にもお越しいただけますか」


「主人は高校の教師で、帰りが遅いんです」


「お仕事がお忙しいのは承知しています。ただ、佑君のためにも、ご両親で方針を共有していただいたほうがいいと思います」


「分かりました。聞いてみます」


 そうして、柏木が面談へ来る日が少しずつ増えた。


 小宮は佑の学習状況を丁寧に説明した。


 よく見ている講師だと思われるよう、佑の癖や性格まで事細かに話した。


 柏木はそのたびに真剣に耳を傾け、最後には必ず礼を言った。


 だが、それ以上にはならなかった。


 塾の外で会うこともない。


 個人的に連絡をもらうこともない。


 どれほど気を配っても、柏木が見るのは息子の成績表だけだった。


 小宮自身を見ることはなかった。


 小宮は、講師として高い評価を受けるようになった。


 生徒への指導が丁寧で、保護者への対応も細やか。面倒見がよく、熱心な講師だと、塾長からも保護者からも褒められた。


 だが、そんな評価はどうでもよかった。


 小宮は、優秀な講師になりたかったのではない。


 柏木の妻になりたかった。


 一年ほどが過ぎた。


 このままでは、何も変わらない。


 小宮は、柏木が勤める私立高校の採用試験を受けることにした。


 筆記試験も、模擬授業も、面接も、抜かりなく準備した。


 そして、その年の夏の終わりに採用通知が届いた。


 封筒を開いた瞬間、小宮の頭に浮かんだのは、新しい職場でも、生徒たちでもなかった。


 柏木の顔だった。


 来年から、同じ学校で働ける。


 毎朝、同じ職員室で顔を合わせる。


 授業の合間に言葉を交わし、困ったときには互いに助け合う。


 仕事のあと、一緒に帰ることもあるかもしれない。


 やがて柏木は、自分が誰よりも彼を理解していることに気づく。


 小宮の頭の中に、明るい未来が広がっていった。


 どこまでも続く花畑のように。


 そこに咲いている花は、燃えるように紅い彼岸花だった。


 塾講師として働くのは、今年度で最後になる。


 佑の担当講師という立場を使えるのも、今だけだった。


 あの女さえいなくなれば、傷ついた柏木を自分が支えられる。


 息子と二人きりになった柏木は、同じ職場にいる自分を頼るだろう。


 悲しみが癒えるまで、何年かかっても構わない。


 いつか柏木の隣に立つのは、自分だ。


 小宮には、それが最初から決められていた未来のように思えた。


     *


 九月下旬の昼間。


 小宮は塾から離れた公衆電話へ向かった。


 佑は学校にいる。


 柏木も勤務中だ。


 家にいるのは、妻だけだった。


 受話器を取り、覚えていた番号を押す。


 数回の呼び出し音のあと、女の声がした。


「はい、柏木です」


「もしもし。いつもお世話になっております。佑君が通っている塾で、担当講師をさせていただいております、小宮です」


「ああ、小宮先生。いつもありがとうございます」


「今、少しお時間よろしいでしょうか」


 小宮は声を落とした。


「実は、佑君から、いじめの相談を受けました」


 受話器の向こうが静かになった。


「いじめ?」


「はい。ただ、学校にもご両親にも言わないでほしいと、強く言われていまして」


「あの子が、先生にそう言ったんですか?」


「しばらくは様子を見ていたのですが、命に関わるようなことになってからでは遅いと思い、お母様だけにはお話ししておいたほうがいいと判断しました」


「今、話せますか」


「申し訳ありません。電話では少し……。それに私も、今日はどうしても仕事を抜けられないんです」


「何時なら会えます?」


 思ったとおりだった。


 息子のこととなれば、この女は必ず来る。


「夜の十時まで勤務がありますので、そのあと、塾まで来ていただけますか。その時間なら、ほかの職員も帰っています」


「分かりました。十時過ぎですね」


「はい。それから、まずは私の話を聞いてから、ご主人へ話すかどうかを決めてください。佑君は知られたくないと言っていますので」


「……分かりました」


「よろしくお願いいたします」


 小宮は電話を切った。


 受話器を置いたあとも、胸の鼓動は乱れていなかった。


     *


 午後十時を少し過ぎた頃、柏木家の玄関が開いた。


 離れた場所に車を停めていた小宮は、運転席からその様子を見ていた。


 女は玄関先で一度だけ家を振り返り、それから足早に塾の方向へ歩き出した。


 小宮は車を出した。


 女の少し手前で速度を落とし、助手席の窓を開ける。


「柏木さん」


 女が振り返った。


「小宮先生?」


「すみません。まだほかの職員が残っていて、塾ではお話しできなくなってしまったんです」


「そうなんですか」


「少し車で移動してもいいですか。静かに話せる場所を知っていますから」


「佑の話ですよね?」


「はい」


 女は助手席へ乗った。


「遅い時間にすみません」


「いえ。心配ですよね」


「コーヒーを買ってあります。よければどうぞ」


「ありがとうございます」


 女は礼を言い、用意されていたコーヒーを口にした。


 小宮は車を走らせながら、準備していた話を始めた。


「佑君が初めて相談してくれたのは、一か月ほど前です」


「そんな前から?」


「はい。同じ学校の同級生に、塾の帰りを待ち伏せされることがあるそうです」


「同級生?名前は?」


「そこまでは教えてくれませんでした。名前を言えば、もっとひどいことをされると」


「何をされたんですか」


「最初は、持ち物を隠される程度だったそうです」


 女は膝の上で手を握った。


「それだけじゃないんでしょう」


「最近は、お金を持ってくるように言われていると」


「お金?」


「断ったら、階段から突き落とすと言われたそうです」


「何よ、それ……」


 女の声に怒りが混じった。


「どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか」


「申し訳ありません。佑君との信頼関係を壊してしまえば、何も話してくれなくなると思ったんです」


「だからって……」


「私も迷いました。ですが、日に日に佑君の様子が変わってきて」


「様子って?」


「授業中、後ろを気にすることが増えました。物音がするたびに、怯えたように振り返るんです」


 すべて、小宮が作った話だった。


「家では、そんな様子……」


「ご家族に心配をかけたくなかったんだと思います」


「馬鹿ねえ。心配くらい、いくらでもかければいいのに」


 女はコーヒーをもう一口飲んだ。


「明日、学校へ行きます。主人にも話します」


「その前に、佑君本人と話す時間を作ったほうがいいかもしれません」


「そうですね。あの子、問い詰めると黙っちゃうから」


 しばらくすると、女の言葉が途切れるようになった。


「それで……相手は、一人じゃないんですよね」


「三人だと聞いています」


「三人……」


「中心になっている子がいるようです」


「佑、怖かったでしょうね……」


 女は何度も瞬きをした。


「ごめんなさい。何だか、眠くて」


「お疲れなんですよ」


「でも、ちゃんと聞かないと……」


「大丈夫です。ゆっくりお話ししますから」


 車は街を離れ、隣県へ続く道へ入った。


 小宮は話し続けた。


 塾の階段で囲まれた。


 鞄の中身を捨てられた。


 誰かに言えば、次は家族を狙うと脅された。


 嘘を重ねるたび、女は苦しそうに眉を寄せた。


「家族まで……」


「はい」


「主人には、まだ言わないほうが……」


「まずは、佑君の気持ちを確認しましょう」


「そうね……あの子の、気持ち……」


 窓の外を、赤いものが流れていった。


 道の脇に群れて咲く彼岸花だった。


 女がゆっくりと顔を窓へ向ける。


「彼岸花……」


 掠れた声で呟いた。


「佑……」


 その言葉を最後に、女は目を閉じた。


 小宮は話すのをやめた。


 車内が静かになった。


 眠っている女を一度だけ見て、そのまま車を走らせた。


     *


 車は、長く使われていない建物のそばで停まった。


 周囲に人家はない。


 女は助手席で深く眠っていた。


 小宮は運転席を降り、後部座席へ移った。


 用意していたロープを、女の首へ回す。


 女は目を覚まさなかった。


「あなたがいると、柏木先生は幸せになれないんです」


 返事はない。


 小宮は、女の首と助手席のヘッドレストへ回したロープを握った。


 背負うようにして、全体重をかける。


「ぐっ……」


 女の喉から、一度だけ声が漏れた。


 閉じた瞼が震える。膝の上に置かれていた指がわずかに浮き、身体が少しだけ傾いた。


 そのわずかな反応さえ押さえ込むように、小宮はロープをさらに強く引いた。


 やがて、女の身体から力が抜けた。


 小宮は、それからもしばらく手を緩めなかった。


 完全に動かなくなったことを確かめてから、ようやくロープを外した。


 車の外では、彼岸花が風に揺れていた。


 女を土の中へ埋めた。


 携帯電話も、財布も、鞄も持ち帰った。


 柏木と佑が女を捜し続けることは分かっていた。


 それでも構わなかった。


 見つからなければ、いつか諦める。


 柏木が一人になれば、自分がそばにいられる。


 春になり、小宮は柏木と同じ高校で働き始めた。


 突然妻がいなくなった柏木を、小宮は献身的に支えた。


 授業を代わり、書類を届け、食事を差し入れた。


 柏木は、そのたびに礼を言った。


 だが、それ以上にはならなかった。


 一年が過ぎても、柏木は妻を捜していた。


 二年が過ぎても、小宮を見る目は変わらなかった。


 だから小宮は、女の筆跡をまねて離婚届を書いた。


 県外まで出向き、そこから柏木家へ郵送した。


 これで柏木も、妻が自分たちを捨てたのだと思うはずだった。


 けれど、離婚届を送っても何も変わらなかった。


 柏木は再婚しようとはしなかった。


 小宮を見る目も、以前のままだった。


 それでも小宮は待った。


 いつか柏木が諦める日を。


 いつか自分のほうを向く日を。


 七年目の冬。


 職場の忘年会で、柏木は珍しく酒を飲んでいた。


 酔っていたといっても、顔が少し赤くなっている程度だった。


「柏木先生は、これからどうされるんですか」


 小宮は隣に座り、自然を装って尋ねた。


「どう、とは?」


「その……佑君も、もう大学生でしょう。これから先、ずっとお一人でいらっしゃるおつもりなのかなと思って」


 柏木は少し考えたあと、穏やかに笑った。


「私は、もういいんです」


「もういい?」


「これからは、佑が最愛の人を見つけるのを見守りたいと思っています」


 小宮は微笑んだ。


「そうですか」


 それ以外の言葉は、何も出なかった。


 妻が消えても、柏木は自分を見なかった。


 妻との間に生まれた息子を見ていた。


 あの女の代わりに、今度は佑が二人の間に立っている。


 ――次は、佑ですか。


 小宮の頭の中で、紅い花が咲いた。


 八年前と同じ、燃え盛る炎のように紅い彼岸花だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。