第九章 彼岸花
第九章 彼岸花
八年前。
柏木が塾へやって来たのは、息子の入塾契約をするためだった。
佑が小学五年生になったばかりの春だった。
「柏木佑の父です。本日はよろしくお願いします」
柏木はそう言って、丁寧に頭を下げた。
清潔なシャツに、落ち着いた色のジャケット。髪はきちんと整えられている。派手さはないが、立ち姿が美しかった。
声も穏やかだった。
小宮は、一目で心を奪われた。
「担当講師の小宮です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
いつもと同じように微笑んだつもりだった。
けれど、自分の声が少し高くなっていることに、小宮は気づいていた。
柏木は契約書へ必要事項を記入しながら、息子のことを話した。
「真面目な子なんですが、自分から質問するのが苦手でして」
「分からないところがあれば、こちらから声をかけるようにします」
「助かります。家では、分かっているとしか言わないものですから」
息子の話をする柏木の表情は柔らかかった。
自分の子どもを、心から大切にしている顔だった。
勤務先を記入する欄で、柏木の手が止まる。
そこへ書かれたのは、市内にある私立高校の名前だった。
「高校の先生でいらっしゃるんですね」
「はい。国語を教えています」
「そうなんですか」
小宮は、その学校の名前を頭の中で何度も繰り返した。
契約を終えた柏木は、最後にもう一度、深く頭を下げた。
「息子を、よろしくお願いします」
「はい。お任せください」
小宮は、玄関を出ていく柏木の背中を見送った。
もう一度会いたいと思った。
次の面談はいつだろう。
息子の様子を報告する機会なら、これからいくらでもある。
そう思っていた。
だが、柏木は来なかった。
塾への送り迎えも、問い合わせも、面談も、すべて妻が担当した。
虎柄のミニスカートに、高いヒール。耳元では大きな飾りが揺れている。
「いつも佑がお世話になってまーす」
女は声が大きく、馴れ馴れしかった。
面談が始まると、遠慮なく息子の成績表を覗き込む。
「算数、悪っ。あの子、分かってるって言ってたのに、全然分かってないじゃない」
「基礎は理解しています。ただ、応用問題になると少し時間がかかるようです」
「家じゃ何を聞いても大丈夫しか言わないのよ。誰に似たんだか」
そう言いながら、女は、佑がどこでつまずいているのか、塾で一人になっていないか、講師へ質問できているかと、細かなことまで尋ねた。
派手で、品がなくて、馴れ馴れしい。
それなのに、息子のことはよく見ている。
柏木がこの女を妻に選んだ理由を、小宮は理解できなかった。
こんな女の、どこがいいのだろう。
あれほど知的で穏やかな人が、どうしてこの女と一緒にいるのだろう。
どうすれば、もう一度柏木に会えるだろう。
小宮は、佑の筆箱を教室の棚の奥へ隠した。
授業が終わり、佑が帰ったあとで柏木家へ電話をかける。
「佑君が筆箱を忘れていまして。宿題で使うと思いますので、私がお届けします」
住所は契約書で知っていた。
柏木が帰宅する時間も、佑との何げない会話から聞き出した。
小宮は時間を合わせて、柏木家を訪ねた。
「わざわざ届けてくださったんですか」
玄関へ出てきた柏木は、驚いた顔をした。
「大切なものですから」
「明日でもよかったのに。申し訳ありません」
「いえ。帰り道ですから」
本当は、まったく違う方向だった。
柏木は丁寧に礼を言い、筆箱を受け取った。
それだけだった。
家の中へ招かれることも、長く話すこともなかった。
それでも小宮は満足した。
柏木に会えた。
自分の顔を覚えてもらえた。
次は教材を隠した。
その次は、宿題を書いたノートを隠した。
佑が自分で忘れたのだと思うよう、隠す物や時期を変えた。
そのたびに小宮は、柏木の帰宅する時間を狙って届けに行った。
「何度もすみません」
柏木は毎回、申し訳なさそうに頭を下げた。
「佑にも、忘れ物には気をつけるよう言っておきます」
「まだ小学五年生ですから。こちらでも声をかけるようにします」
個人面談の案内を出すときには、両親での出席を勧めた。
「今後の学習方針に関わることですので、可能であれば、お父様にもお越しいただけますか」
「主人は高校の教師で、帰りが遅いんです」
「お仕事がお忙しいのは承知しています。ただ、佑君のためにも、ご両親で方針を共有していただいたほうがいいと思います」
「分かりました。聞いてみます」
そうして、柏木が面談へ来る日が少しずつ増えた。
小宮は佑の学習状況を丁寧に説明した。
よく見ている講師だと思われるよう、佑の癖や性格まで事細かに話した。
柏木はそのたびに真剣に耳を傾け、最後には必ず礼を言った。
だが、それ以上にはならなかった。
塾の外で会うこともない。
個人的に連絡をもらうこともない。
どれほど気を配っても、柏木が見るのは息子の成績表だけだった。
小宮自身を見ることはなかった。
小宮は、講師として高い評価を受けるようになった。
生徒への指導が丁寧で、保護者への対応も細やか。面倒見がよく、熱心な講師だと、塾長からも保護者からも褒められた。
だが、そんな評価はどうでもよかった。
小宮は、優秀な講師になりたかったのではない。
柏木の妻になりたかった。
一年ほどが過ぎた。
このままでは、何も変わらない。
小宮は、柏木が勤める私立高校の採用試験を受けることにした。
筆記試験も、模擬授業も、面接も、抜かりなく準備した。
そして、その年の夏の終わりに採用通知が届いた。
封筒を開いた瞬間、小宮の頭に浮かんだのは、新しい職場でも、生徒たちでもなかった。
柏木の顔だった。
来年から、同じ学校で働ける。
毎朝、同じ職員室で顔を合わせる。
授業の合間に言葉を交わし、困ったときには互いに助け合う。
仕事のあと、一緒に帰ることもあるかもしれない。
やがて柏木は、自分が誰よりも彼を理解していることに気づく。
小宮の頭の中に、明るい未来が広がっていった。
どこまでも続く花畑のように。
そこに咲いている花は、燃えるように紅い彼岸花だった。
塾講師として働くのは、今年度で最後になる。
佑の担当講師という立場を使えるのも、今だけだった。
あの女さえいなくなれば、傷ついた柏木を自分が支えられる。
息子と二人きりになった柏木は、同じ職場にいる自分を頼るだろう。
悲しみが癒えるまで、何年かかっても構わない。
いつか柏木の隣に立つのは、自分だ。
小宮には、それが最初から決められていた未来のように思えた。
*
九月下旬の昼間。
小宮は塾から離れた公衆電話へ向かった。
佑は学校にいる。
柏木も勤務中だ。
家にいるのは、妻だけだった。
受話器を取り、覚えていた番号を押す。
数回の呼び出し音のあと、女の声がした。
「はい、柏木です」
「もしもし。いつもお世話になっております。佑君が通っている塾で、担当講師をさせていただいております、小宮です」
「ああ、小宮先生。いつもありがとうございます」
「今、少しお時間よろしいでしょうか」
小宮は声を落とした。
「実は、佑君から、いじめの相談を受けました」
受話器の向こうが静かになった。
「いじめ?」
「はい。ただ、学校にもご両親にも言わないでほしいと、強く言われていまして」
「あの子が、先生にそう言ったんですか?」
「しばらくは様子を見ていたのですが、命に関わるようなことになってからでは遅いと思い、お母様だけにはお話ししておいたほうがいいと判断しました」
「今、話せますか」
「申し訳ありません。電話では少し……。それに私も、今日はどうしても仕事を抜けられないんです」
「何時なら会えます?」
思ったとおりだった。
息子のこととなれば、この女は必ず来る。
「夜の十時まで勤務がありますので、そのあと、塾まで来ていただけますか。その時間なら、ほかの職員も帰っています」
「分かりました。十時過ぎですね」
「はい。それから、まずは私の話を聞いてから、ご主人へ話すかどうかを決めてください。佑君は知られたくないと言っていますので」
「……分かりました」
「よろしくお願いいたします」
小宮は電話を切った。
受話器を置いたあとも、胸の鼓動は乱れていなかった。
*
午後十時を少し過ぎた頃、柏木家の玄関が開いた。
離れた場所に車を停めていた小宮は、運転席からその様子を見ていた。
女は玄関先で一度だけ家を振り返り、それから足早に塾の方向へ歩き出した。
小宮は車を出した。
女の少し手前で速度を落とし、助手席の窓を開ける。
「柏木さん」
女が振り返った。
「小宮先生?」
「すみません。まだほかの職員が残っていて、塾ではお話しできなくなってしまったんです」
「そうなんですか」
「少し車で移動してもいいですか。静かに話せる場所を知っていますから」
「佑の話ですよね?」
「はい」
女は助手席へ乗った。
「遅い時間にすみません」
「いえ。心配ですよね」
「コーヒーを買ってあります。よければどうぞ」
「ありがとうございます」
女は礼を言い、用意されていたコーヒーを口にした。
小宮は車を走らせながら、準備していた話を始めた。
「佑君が初めて相談してくれたのは、一か月ほど前です」
「そんな前から?」
「はい。同じ学校の同級生に、塾の帰りを待ち伏せされることがあるそうです」
「同級生?名前は?」
「そこまでは教えてくれませんでした。名前を言えば、もっとひどいことをされると」
「何をされたんですか」
「最初は、持ち物を隠される程度だったそうです」
女は膝の上で手を握った。
「それだけじゃないんでしょう」
「最近は、お金を持ってくるように言われていると」
「お金?」
「断ったら、階段から突き落とすと言われたそうです」
「何よ、それ……」
女の声に怒りが混じった。
「どうしてもっと早く教えてくれなかったんですか」
「申し訳ありません。佑君との信頼関係を壊してしまえば、何も話してくれなくなると思ったんです」
「だからって……」
「私も迷いました。ですが、日に日に佑君の様子が変わってきて」
「様子って?」
「授業中、後ろを気にすることが増えました。物音がするたびに、怯えたように振り返るんです」
すべて、小宮が作った話だった。
「家では、そんな様子……」
「ご家族に心配をかけたくなかったんだと思います」
「馬鹿ねえ。心配くらい、いくらでもかければいいのに」
女はコーヒーをもう一口飲んだ。
「明日、学校へ行きます。主人にも話します」
「その前に、佑君本人と話す時間を作ったほうがいいかもしれません」
「そうですね。あの子、問い詰めると黙っちゃうから」
しばらくすると、女の言葉が途切れるようになった。
「それで……相手は、一人じゃないんですよね」
「三人だと聞いています」
「三人……」
「中心になっている子がいるようです」
「佑、怖かったでしょうね……」
女は何度も瞬きをした。
「ごめんなさい。何だか、眠くて」
「お疲れなんですよ」
「でも、ちゃんと聞かないと……」
「大丈夫です。ゆっくりお話ししますから」
車は街を離れ、隣県へ続く道へ入った。
小宮は話し続けた。
塾の階段で囲まれた。
鞄の中身を捨てられた。
誰かに言えば、次は家族を狙うと脅された。
嘘を重ねるたび、女は苦しそうに眉を寄せた。
「家族まで……」
「はい」
「主人には、まだ言わないほうが……」
「まずは、佑君の気持ちを確認しましょう」
「そうね……あの子の、気持ち……」
窓の外を、赤いものが流れていった。
道の脇に群れて咲く彼岸花だった。
女がゆっくりと顔を窓へ向ける。
「彼岸花……」
掠れた声で呟いた。
「佑……」
その言葉を最後に、女は目を閉じた。
小宮は話すのをやめた。
車内が静かになった。
眠っている女を一度だけ見て、そのまま車を走らせた。
*
車は、長く使われていない建物のそばで停まった。
周囲に人家はない。
女は助手席で深く眠っていた。
小宮は運転席を降り、後部座席へ移った。
用意していたロープを、女の首へ回す。
女は目を覚まさなかった。
「あなたがいると、柏木先生は幸せになれないんです」
返事はない。
小宮は、女の首と助手席のヘッドレストへ回したロープを握った。
背負うようにして、全体重をかける。
「ぐっ……」
女の喉から、一度だけ声が漏れた。
閉じた瞼が震える。膝の上に置かれていた指がわずかに浮き、身体が少しだけ傾いた。
そのわずかな反応さえ押さえ込むように、小宮はロープをさらに強く引いた。
やがて、女の身体から力が抜けた。
小宮は、それからもしばらく手を緩めなかった。
完全に動かなくなったことを確かめてから、ようやくロープを外した。
車の外では、彼岸花が風に揺れていた。
女を土の中へ埋めた。
携帯電話も、財布も、鞄も持ち帰った。
柏木と佑が女を捜し続けることは分かっていた。
それでも構わなかった。
見つからなければ、いつか諦める。
柏木が一人になれば、自分がそばにいられる。
春になり、小宮は柏木と同じ高校で働き始めた。
突然妻がいなくなった柏木を、小宮は献身的に支えた。
授業を代わり、書類を届け、食事を差し入れた。
柏木は、そのたびに礼を言った。
だが、それ以上にはならなかった。
一年が過ぎても、柏木は妻を捜していた。
二年が過ぎても、小宮を見る目は変わらなかった。
だから小宮は、女の筆跡をまねて離婚届を書いた。
県外まで出向き、そこから柏木家へ郵送した。
これで柏木も、妻が自分たちを捨てたのだと思うはずだった。
けれど、離婚届を送っても何も変わらなかった。
柏木は再婚しようとはしなかった。
小宮を見る目も、以前のままだった。
それでも小宮は待った。
いつか柏木が諦める日を。
いつか自分のほうを向く日を。
七年目の冬。
職場の忘年会で、柏木は珍しく酒を飲んでいた。
酔っていたといっても、顔が少し赤くなっている程度だった。
「柏木先生は、これからどうされるんですか」
小宮は隣に座り、自然を装って尋ねた。
「どう、とは?」
「その……佑君も、もう大学生でしょう。これから先、ずっとお一人でいらっしゃるおつもりなのかなと思って」
柏木は少し考えたあと、穏やかに笑った。
「私は、もういいんです」
「もういい?」
「これからは、佑が最愛の人を見つけるのを見守りたいと思っています」
小宮は微笑んだ。
「そうですか」
それ以外の言葉は、何も出なかった。
妻が消えても、柏木は自分を見なかった。
妻との間に生まれた息子を見ていた。
あの女の代わりに、今度は佑が二人の間に立っている。
――次は、佑ですか。
小宮の頭の中で、紅い花が咲いた。
八年前と同じ、燃え盛る炎のように紅い彼岸花だった。




