第十章 見立て
第十章 見立て
岡崎は、机の上に八年前の捜査資料を広げていた。
柏木の妻が失踪した当時に作成されたものだった。
家族への聞き取り。交友関係。預金口座やクレジットカードの利用状況。携帯電話の通信履歴。近隣住民の証言。
どれも一度は確認されたものばかりだ。
だが、当時と今では前提が違う。
八年前、彼女は携帯電話と財布、鞄を持って自宅を出たまま行方が分からなくなった。
自ら家を出た可能性も否定できなかった。
失踪から二年後には、本人の筆跡によく似た離婚届が県外から郵送されている。
夫と息子を捨て、どこかで暮らしている。
そう考えることもできた。
だが、その遺骨は隣県の山中から発見された。
土の中に埋められ、携帯電話も財布も鞄も見つからなかった。
離婚届は、本人の筆跡をまねて書かれた可能性が高い。
岡崎は、失踪当時の通信記録を手元へ引き寄せた。
柏木家の固定電話には、妻が家を出る少し前、公衆電話から着信があった。
通話時間は四分余り。
発信元の公衆電話は、柏木家から歩いて行ける距離ではなかった。
駅からも、妻が普段利用していた店からも離れている。
当時も捜査員が周辺を調べていたが、電話をかけた人物へつながるものは見つからなかった。
八年が過ぎた今では、公衆電話の周辺にあった店もいくつかなくなっている。
防犯カメラの映像など、残っているはずもなかった。
岡崎は、遺体発見後に改めて行われた身辺調査の資料を開いた。
友人、親族、かつての職場関係者。
失踪前、悩みを抱えていた様子はなかった。
金銭的な問題もない。
異性関係を疑わせる証言もなかった。
家族との間に深刻な問題があったと話す者もいない。
夫婦喧嘩について知っていた友人もいたが、珍しいことではなかったという。
失踪当日の口論について、夫は「息子のことで意見が合わなかった」とだけ話していた。
当時小学五年生だった息子は、自分の名前が出たことを覚えていた。
聞こえたのは、「今さら」と「佑のためには」という言葉だけだった。
どちらを父親が言い、どちらを母親が言ったのかは覚えていない。
その晩の口論だけを理由に、幼い息子を残して姿を消すような人ではない。
多くの者が、同じことを話していた。
失踪前に、誰かを怖がっていた様子もない。
恨まれていた形跡もない。
八年前の資料と、遺体が見つかってから集められた証言。
二つを並べても、新しく浮かび上がる人間はいなかった。
岡崎は椅子の背にもたれ、目頭を押さえた。
資料を何度読み返しても、書かれている内容が増えるわけではない。
そのとき、捜査室の扉が開いた。
野上が一冊の薄いファイルを抱えて入ってきた。
「八年前、柏木さんを見た可能性のある男性がいました」
野上は岡崎の向かいへ座り、ファイルを開いた。
「当時の聞き取り資料に、一度だけ名前が出ています。ただ、本人かどうか確証がなく、目撃情報としては扱われていませんでした」
「話は聞けたのか」
「はい。今朝、会ってきました」
野上は聞き取りの内容を報告した。
男性は当時、柏木家から少し離れた会社に勤めていた。
その晩は同僚と酒を飲み、一人で歩いて帰る途中だったという。
時刻は午後十時を過ぎていた。
通りの先に、派手な服装の女が歩いていた。
虎柄の短いスカートに、高いヒール。
暗く、酒にも酔っていたため、顔までは覚えていない。
ただ、夜道を一人で歩くには目立つ格好だった。
男性は女に声をかけようと、後ろから近づいた。
そのとき、一台の車が女の横へ停まった。
女は迷う様子もなく助手席へ乗り、車はそのまま走り去った。
「車種とナンバーは」
「覚えていません。色も、暗くて分からなかったそうです」
「運転していた人間は見たのか」
「いいえ」
「女が柏木さんだったという確証は」
「ありません。ただ、失踪当日の服装について、ご主人は虎柄のスカートだったと話しています」
岡崎は八年前の供述調書を開いた。
妻が家を出たときの服装。
そこには、虎柄のミニスカートと記載されていた。
「どうして当時、詳しく話さなかった」
「酔っていたことと、声をかけようとしていたことを家族に知られたくなかったそうです。それに、顔を見たわけではないから、自分の話が役に立つとは思わなかったと」
「八年前のことを、よく覚えていたな」
「虎柄のスカートだけは、覚えていたそうです」
「柏木の夫は、運転免許を持っているのか」
「はい。ただ、身分証明書として更新しているだけで、取得後はほとんど運転していないそうです」
「車は」
「柏木家に、車の所有歴はありません」
岡崎は、野上の報告書へ目を落とした。
夫は免許を持っている。
だが、車を所有したことはなく、普段から運転もしていない。
目撃された女が柏木の妻だったとしても、停まった車が柏木家のものではないことだけは確かだった。
「男性は、運転手について何か言っていたか」
「見えなかったと。ただ……」
野上が一瞬、言葉を止めた。
「男ではなかったような気がする、と言っていました」
「根拠は」
「女が警戒せずに車へ乗ったからだそうです」
「それは目撃者の感想だ」
「はい」
野上は、それ以上何も付け加えなかった。
公衆電話からの着信。
そのあと家を出た女。
道路脇へ停まった車。
自分から助手席へ乗り込む姿。
それらをつなげれば、一つの筋書きは作れる。
柏木の妻は、電話で誰かに呼び出された。
そして、待ち合わせていた相手の車へ乗った。
だが、それはまだ筋書きにすぎない。
公衆電話の相手と、車を運転していた人物が同じだという証拠はない。
目撃された女が、柏木の妻だったという確証すらなかった。
以前の野上なら、運転手は女だった可能性が高いと言ったかもしれない。
自分の足で見つけた証言に意味を持たせようとしたかもしれない。
岡崎は報告書を閉じた。
「野上」
「はい」
「お前の見立ては?」
野上はすぐには答えなかった。
机の上に広げられた資料へ目を向ける。
「分かりません」
「何がだ」
「柏木さんが殺されたのか、何かの事故で亡くなったのか。あの夜、車に乗った女が本当に柏木さんだったのか。公衆電話からかけた人間と、車を運転していた人間が同じなのか」
野上は岡崎を見た。
「どれも、まだ分かりません」
岡崎は黙って続きを待った。
「ただ、一つだけです」
野上の声に迷いはなかった。
「自分で土の中に埋まる人はいません」
それは、この捜査が始まったときから分かっていたことだった。
新しく見つかった事実ではない。
野上は余計な推測を加えなかった。
自分が見つけた証言に引っ張られることもなかった。
「亡くなった柏木さんの遺体を遺棄した人間がいる」
野上は言った。
「その人間を見つけます」
岡崎はしばらく野上を見つめた。
「そうか」
それだけ答えた。
野上は報告書を岡崎の机に置き、自分の席へ戻った。
岡崎は、再び資料へ目を落とした。
事件から八年が過ぎている。
現場に残されていたはずのものは失われ、防犯カメラの映像も残っていない。
人の記憶も、時間とともに曖昧になっていく。
仮に殺人だったとしても、公訴時効はない。
だが、時効がないことと、犯人を見つけられることは別だった。
このまま何一つ見つからず、未解決のまま残る。
そんな事件を、岡崎はこれまでにも見てきた。
閉じた資料に手を置く。
その人間を見つけます。
迷いなく言い切った野上の顔が、頭に浮かんだ。
岡崎は資料をもう一度開いた。
見落としているものはないか。
誰かの証言を、最初から意味のないものだと決めつけてはいないか。
一枚目へ戻り、初めから読み直した。




