第十一章 最後の言葉
第十一章 最後の言葉
インターホンが鳴った。
父が玄関へ向かい、俺もそのあとを追った。
母親は居間のソファに座ったまま、煎餅の袋を覗き込んでいる。
「また警察?」
「多分」
「私の事件なのに、私だけ話に入れないって不便よねえ」
「今さら気づいたのかよ」
「警察に幽霊専用の相談窓口とかないの?」
「あるわけないだろ」
玄関を開けると、岡崎刑事と野上刑事が立っていた。
「突然、申し訳ありません」
岡崎刑事が頭を下げた。
「奥様のことで、確認したいことがあります」
父は二人を居間へ通した。
岡崎刑事と野上刑事が並んでソファに座り、父と俺が向かい側へ座る。
母親は父の隣に腰を下ろした。
もちろん、二人の刑事には見えていない。
岡崎刑事は膝の上で手帳を開いた。
「失踪当日の奥様を見た可能性のある人物が見つかりました」
父の表情が変わった。
「妻を?」
「本人だという確証はありません。夜道で、虎柄の短いスカートをはいた女性を見たという証言です」
「それは、妻です」
父はすぐに答えた。
「あの日、妻は虎柄のスカートをはいていました」
「供述調書にも、そう記録されています」
「どこで見たんですか」
「ご自宅から少し離れた道路です。時刻は、奥様が家を出たあとの時間と一致しています」
父は身を乗り出した。
「その人は、ほかに何か見ていないんですか」
岡崎刑事は一度、野上刑事を見た。
野上刑事がファイルを開く。
「道路脇に車が停まり、女性はその車の助手席へ乗ったそうです」
「車……」
父の声が止まった。
隣にいた母親も、同じ言葉を呟いた。
「車……?」
母親は、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。
俺は母親を見た。
父も顔を伏せたまま動かない。
二人とも、同じ言葉に反応していた。
「車種やナンバーは分かっていません。運転していた人物の顔も、目撃者は見ていません」
野上刑事が続けた。
「ただ、その女性は迷わず助手席へ乗ったそうです。もし目撃された女性が奥様だった場合、奥様は知っている人物の車に乗った可能性があります」
「違う……」
父が小さな声で言った。
岡崎刑事が父を見た。
「何が違うんですか」
「妻は、車を運転できません」
「奥様が助手席へ乗ったという証言です」
「そうではなくて……」
父は両手を強く握った。
「私たちは、あの夜、車のことで言い争ったんです」
俺は父を見た。
八年前の夜、布団の中で聞いた声が蘇った。
今さら。
佑のためには。
「以前は、息子さんのことで意見が合わなかったとだけ話していましたね」
岡崎刑事の声は穏やかだった。
「はい」
「詳しく聞かせていただけますか」
父はすぐには答えなかった。
母親が不安そうに父の顔を覗き込んでいる。
「妻はあの日、突然、運転免許を取りたいと言い出しました」
「免許を?」
「佑を、塾へ送り迎えしたいと言っていました。夜、一人で歩かせるのは危ないからと」
母親がゆっくりと顔を上げた。
「そうだ……」
刑事には聞こえない声だった。
「私、免許を取りたいって言った」
父は俯いたまま話を続けた。
「私は、今さら免許を取る必要はないと言いました。車も持っていませんし、必要なら自分が運転すると」
「ご主人は、ほとんど運転されないそうですね」
野上刑事が言った。
「はい。免許を取ってから、一度もと言っていいほど運転していません。だから妻にも言われました。あなたもペーパードライバーなのだから同じだと」
父の口元に、ほんの一瞬だけ笑みのようなものが浮かんだ。
だが、それはすぐに消えた。
「今思えば、くだらない言い争いでした。妻が運転できるようになりたいと言った。それだけのことだったんです」
父の手に力が入る。
「でも私は、最後に……」
父はそこで言葉を止めた。
「最後に、何と言ったんですか」
岡崎刑事が尋ねた。
長い沈黙のあと、父が口を開いた。
「車は、乗る人によっては凶器にもなるんだ、と」
母親の顔から表情が消えた。
「君が運転する車に、佑を乗せるのは危険だ。そんなことを言いました」
「父さん……」
「心配だっただけなんだ」
父は俺を見なかった。
「妻はそそっかしいところがありました。免許を取ったとしても、すぐに佑を乗せるのは危ないと思った。ただ、それだけだったんです。でも、言い方が悪かった」
父の声が震えた。
「妻には、君は車を運転する資格もない、佑を危険にさらすような人間だと言われたように聞こえたかもしれない」
「そんなふうには思ってないよ……」
母親が呟いた。
「そのあと、奥様は家を出たんですね」
「はい。買い物へ行ってくると言いました」
「引き止めなかったんですか」
「少し、お互いに頭を冷やしたほうがいいと思ったんです」
父は握っていた手を開いた。
掌には、爪の跡が残っていた。
「帰ってきたら謝ればいいと思っていました」
母親が父の肩へ手を伸ばした。
触れることのできない指が、父の身体をすり抜ける。
「ごめんね」
母親は自分の手を見つめた。
「帰ってこられなくて、ごめんね」
野上刑事が静かに尋ねた。
「どうして、その話を今までしなかったんですか」
父は顔を上げなかった。
「言えなかったんです」
「なぜです」
「あれが、妻にかけた最後の言葉だったと認めたくなかった」
父は途切れ途切れに息を吐いた。
「私があんなことを言ったから、妻は家を出た。怒って、私たちから離れようとした。その途中で何かに巻き込まれた」
父の目から涙が落ちた。
「私が、妻を外へ追い出したようなものです」
「違うよ」
母親が言った。
父には聞こえない。
「あなたのせいじゃない」
「離婚届が届いたとき、やはり私の言葉が原因だったのだと思いました。妻が私たちを捨てたのではなく、私が妻を追い出したんです」
父は両手で顔を覆った。
「遺体が見つかってからは、自分が殺したようなものだと……」
「父さんのせいじゃない」
俺は言った。
父は首を横に振った。
「でも、私が止めていれば、妻はあの夜、家を出なかった」
岡崎刑事は、しばらく何も言わなかった。
やがて手帳を閉じる。
「奥様が家を出た理由は、まだ分かっていません」
父が顔を上げた。
「ご主人との口論が原因だったとも、買い物へ向かったとも、今の段階では決められません」
「でも……」
「もし目撃された女性が奥様なら、奥様は自分から誰かの車へ乗っています」
岡崎刑事は父を見た。
「誰かに会うために家を出た可能性があります」
父の目が揺れた。
「妻は、誰に会いに行ったんですか」
「それを調べています」
岡崎刑事は立ち上がった。
野上刑事もファイルを閉じる。
「今日お話しいただいたことは、捜査の参考にします。また何か思い出したことがあれば、どんな小さなことでも連絡してください」
玄関まで二人を見送ったあと、父は居間へ戻った。
ソファに腰を下ろし、何も言わずに俯いている。
母親はその隣へ座った。
「あなたのせいじゃないよ」
聞こえないと分かっているのに、何度も繰り返した。
「私、あなたに腹を立てて出ていったんじゃない」
「覚えてるのか」
俺が尋ねると、母親は眉を寄せた。
「喧嘩したことは、少し思い出した。私、佑を塾まで送り迎えしたいって言った」
「どうして、急にそんなことを思ったんだよ」
「分からない」
母親は自分の頭を指で軽く叩いた。
「でも、あの日の私は、佑を一人で歩かせちゃいけないって思ってた」
「俺を?」
「うん」
母親は目を閉じた。
「誰かに、何かを言われた気がする」
「何を」
「佑が……」
母親の声が止まった。
顔から、いつもの軽い笑いが消えていた。
「佑が、危ないって」
父は俯いたまま、その声に気づかなかった。




