第十二章 選ばせる
第十二章 選ばせる
小宮は、机の上に一枚の紙を置いた。
その横には、携帯電話がある。
画面に映っているのは、柏木家を訪ねた日に撮影した写真だった。
冷蔵庫に貼られていた短いメモ。
『バイト、遅くなります。夕飯いりません 佑』
父親と二人で暮らしてきた息子が、帰宅時間を知らせるために書いたものだった。
柏木が台所へ立った隙に、小宮はその文字を撮った。
丁寧ではない。
線は細く、文字の大きさも揃っていない。
最後に書かれた自分の名前だけが、ほかの文字より少し小さかった。
小宮は、メモに書かれていた文字を一つずつ紙へ写した。
何度書いても、同じにはならない。
佑が書いた文字に見えるものもあれば、よく似た別人の文字にしか見えないものもある。
小宮は失敗した紙を破り、机の脇へ置いた。
急ぐ必要はない。
必要な文字は、これから集めればいい。
大学生なら、ノートも手帳もある。
署名をする機会もある。
佑の書いた文章を手に入れる方法はいくらでもあるはずだった。
小宮は新しい紙を置いた。
『父さん、ごめんなさい』
そう書き、しばらく眺めた。
短すぎる。
これでは、なぜ死を選んだのか分からない。
だが、長く書けば、それだけ本人の文章ではないと気づかれる可能性が増える。
何を書くべきか。
母親の遺体が見つかったこと。
父親へ心配をかけ続けたこと。
自分がいる限り、父親が過去から解放されないこと。
理由など、あとから作ればいい。
大切なのは、柏木が息子の死を受け入れることだった。
小宮は椅子へ深く腰を下ろした。
母親のときは、失敗した。
殺したことではない。
見つからないようにしたことが間違いだった。
死体が見つからなければ、柏木は妻を待ち続ける。
離婚届を送れば、諦めると思っていた。
妻が自分たちを捨てたのだと知れば、いつか別の人生を選ぶと思っていた。
だが、柏木は待つことをやめなかった。
一年が過ぎても。
二年が過ぎても。
七年が過ぎても。
妻が生きている可能性が残っている限り、柏木の中から妻が消えることはなかった。
だから、佑を行方不明にしてはいけない。
捜し続ける理由を残してはいけない。
死んだことを、柏木自身が確認しなければならない。
そして、その死が誰かに奪われたものだと思わせてもいけない。
息子が殺されたと知れば、柏木は犯人を憎み続ける。
理由を求め、事件のことだけを考える。
自分がどれほどそばにいても、柏木の目には入らない。
事故も駄目だった。
偶然の死では、柏木は自分を責める理由を探す。
あのとき止めていれば。
迎えに行っていれば。
自分が代わりに出かけていれば。
答えのない問いを、いつまでも繰り返す。
小宮は、机の上の紙を見た。
自分で選んだ死ならば、受け入れるしかない。
誰かを捜すことも、犯人を憎むこともできない。
残された父親は傷つくだろう。
立ち直れないほど深く。
そのとき、自分がそばにいればいい。
食事を作り、身の回りのことを手伝い、何も言わずに支える。
すぐに振り向いてもらおうとは思わない。
何年かかっても構わない。
妻を失ったときと違い、今度は最初から自分がそばにいる。
柏木が一人で悲しむ時間を作らなければいい。
小宮は、佑を殺す方法を考えた。
正面から襲うことはできない。
大学生の男と力で争えば、自分が負ける。
抵抗されれば傷が残り、事件だと分かる。
母親と同じ方法も使えない。
眠らせたところで、佑の身体を一人で運ぶことは難しい。
学校にある薬品を使うことも考えた。
だが、管理されているものがなくなれば、必ず記録を調べられる。
自分が勤務する学校から持ち出されたと分かれば、柏木との関係もすぐに知られる。
事故に見せかける方法も確実ではない。
死ななければ、佑本人から話を聞かれる。
死んだとしても、遺書がなければ事故として扱われる。
それでは意味がなかった。
必要なのは、死体だけではない。
佑が自分で死を選んだと、柏木に信じさせるための言葉だった。
小宮は、もう一度ペンを持った。
『父さん、ごめんなさい』
その下に、今度は続けて書いた。
『母さんのことが分かってから、ずっと考えていました』
小宮は手を止めた。
佑が母親を何と呼んでいたのか知らない。
幼い頃と今とでは、呼び方が変わっている可能性もある。
知らないことが、まだ多すぎる。
小宮は紙を破った。
佑のことを、もっと知らなければならない。
父親との会話。
大学での生活。
友人関係。
普段使う言葉。
悩んでいること。
死を選ぶ理由にできそうなもの。
だが、料理を作るという申し出は断られた。
柏木家を頻繁に訪ねる理由は、もうない。
父親へ近づこうとすれば、また佑が間に入る。
先に佑へ近づく必要がある。
小宮は、机の脇に積み重なった紙を集めた。
どの紙にも、佑の文字をまねた言葉が書かれている。
母親のときは、いなくなってもらえばいいと思っていた。
今度は違う。
死んだことを、父親の目で確かめてもらう。
遺体を残す。
遺書を残す。
そこに事件があったと思わせない。
小宮は、最後の一枚だけを机の上に残した。
『父さん、ごめんなさい』
まだ佑の文字には見えなかった。
それでも構わない。
時間をかければ、同じように書ける。
方法も、これから考えればいい。
決めるべきことは、もう決まっていた。
「佑君には、自分で死を選んでもらいましょう」
小宮は紙を折り、引き出しの奥へしまった。




