第十三章 同じ名前
第十三章 同じ名前
柏木家から戻った岡崎は、父親から聞いた話を新しい調書にまとめた。
妻が失踪した夜、夫婦は運転免許のことで言い争っていた。
妻は、息子を塾へ送り迎えするために免許を取りたいと言った。
それまで運転することに興味を示したことはなかった。
なぜ、あの日に限って突然そんなことを言い出したのか。
父親にも理由は分からない。
岡崎は、調書の最後にその一文を加えた。
車に乗るところを目撃された女が、柏木の妻だったという確証はない。
妻が誰かと待ち合わせていた証拠もない。
それでも、家を出る直前に公衆電話から連絡を受け、その日のうちに誰かの車へ乗ったと考えれば、一応の筋は通る。
相手は、柏木の妻が警戒せず、助手席へ乗ることのできる人物。
そして、息子の塾に関係する何かを知っていた可能性がある。
岡崎は八年前の関係者一覧を開いた。
親族。
友人。
かつての勤務先。
近隣住民。
息子が通っていた小学校と学習塾の関係者。
一人ずつ、名前と当時の供述を確認していく。
捜査員が話を聞いた相手だけでも、かなりの人数になっていた。
妻と親しかった者。
顔を知っているだけの者。
失踪前の様子を尋ねられ、何も変わったことはなかったと答えた者。
その中に、一人の塾講師がいた。
小宮奈緒。
当時三十歳。
柏木佑が通っていた学習塾の担当講師。
失踪した妻とは、面談で何度か話したことがある。
個人的な相談を受けたことはない。
塾の外で会ったこともない。
失踪当日の様子について、息子から変わった話は聞いていない。
供述は、それだけだった。
岡崎は次に、遺体発見後に作成された現在の関係者一覧を開いた。
夫が勤める私立高校の教職員。
妻の遺体が発見され、休暇を取っている夫へ連絡した者。
自宅を訪ねた者。
書類や差し入れを届けた者。
一覧を上から追っていた岡崎の指が、一つの名前で止まった。
小宮奈緒。
現在三十八歳。
柏木と同じ私立高校に勤務する教員。
妻の遺体が発見されたあと、学校の書類と差し入れを持って柏木家を訪ねている。
岡崎は二つの資料を並べた。
八年前は、息子の担当講師。
現在は、父親の同僚。
名字だけではない。
名前も同じだった。
「野上」
少し離れた机にいた野上が顔を上げた。
「はい」
「この二人を確認しろ」
岡崎は二つの関係者一覧を野上の前へ置いた。
野上は交互に資料を見た。
「小宮奈緒……」
「同姓同名の別人かもしれない。生年月日と住所、職歴を照合しろ」
「分かりました」
野上は二つの資料を持ち、自分の机へ戻った。
岡崎は椅子へ深く座った。
同姓同名の人物など、いくらでもいる。
八年前に息子を教えていた講師が、現在は父親と同じ学校で働いている。
それだけなら、偶然で説明できる。
だが、偶然だと決める理由もなかった。
*
一時間ほどして、野上が戻ってきた。
「同一人物です」
野上は新しく印刷した資料を岡崎の前へ置いた。
「生年月日が一致しました。八年前に勤務していた学習塾を年度末で退職し、翌年度から現在の私立高校に勤務しています」
「住所は」
「八年前から二度変わっています。いずれも確認できました」
「免許は」
「母親が失踪する前から持っています」
「車両の所有歴」
「当時、小宮名義の車が一台ありました。数年後に手放し、現在は別の車を所有しています」
「車種と色は」
野上が答えた。
だが、目撃者は車種も色も覚えていない。
照合するものがなければ、当時小宮が車を持っていたという事実にしかならなかった。
「八年前の車を手放した時期は」
「失踪直後ではありません。数年たってからです」
事件を隠すため、慌てて処分したとは考えにくい。
それでも小宮には、柏木の妻を車で連れ出す手段があった。
柏木家の住所も知っていた。
妻とも面識があった。
「当時の塾関係者に、もう一度話を聞く」
「行ってきます」
「俺も行く」
岡崎は立ち上がった。
*
柏木佑が通っていた学習塾は、今も同じ場所にあった。
塾長はすでに代わっていたが、八年前に勤務していた講師の一人と連絡を取ることができた。
駅前の喫茶店で待っていると、四十代の女が現れた。
岡崎が小宮奈緒の名前を出すと、女はすぐに頷いた。
「覚えています。とても熱心な先生でした」
「柏木佑さんを担当していましたね」
「はい。小宮先生がずっと見ていました」
「柏木さんのご家族と、塾の外で会うことはありましたか」
女は少し考えた。
「ご家族と、ですか」
「自宅を訪ねたことは」
「ああ。忘れ物を届けに行っていました」
岡崎と野上は顔を見合わせた。
「何度くらいですか」
「一度ではなかったと思います。筆箱とか、教材とか。宿題を書いたノートだったこともあったかな」
「通常、講師が生徒の自宅まで届けるんですか」
「普通は、塾で預かります。急ぎなら保護者に取りに来てもらいます」
「では、なぜ小宮さんは届けたんです」
「帰り道だから、と言っていました。面倒見のいい先生でしたから、私たちも最初はそうなんだと思っていました」
「最初は?」
女は苦笑した。
「柏木君の家、小宮先生の帰る方向とは逆だったんです」
「それを知っていたんですか」
「同じ駅を使っていましたから。ある日、小宮先生が柏木君の忘れ物を届けると言ったので、そっちは反対方向じゃないかと聞いたんです」
「小宮さんは、何と?」
「用事があるから構わない、と」
「その用事については」
「聞いていません」
野上が手帳へ書き込んだ。
「小宮さんは、柏木さんの父親とも面識がありましたか」
「面談で何度か会っていたと思います」
「通常、面談にはどちらが来ていましたか」
「ほとんどがお母さんでした」
「父親は?」
「小宮先生が、ご両親で来るよう勧めていました。今後の学習方針に関わるから、お父さんにも来てもらったほうがいいと」
「ほかの生徒にも、同じように勧めていましたか」
女の手が、コーヒーカップの上で止まった。
「どうだったかな……」
しばらく考え、首を横に振る。
「少なくとも、私が覚えているのは柏木君だけです」
「柏木さんの母親が失踪したあと、小宮さんとその話をしましたか」
「しました。塾でも騒ぎになりましたから」
「小宮さんは、何と言っていました」
「驚いていました。面談で話したことしかないから、何も知らないって」
八年前の供述と同じだった。
面談で何度か話しただけ。
塾の外で会ったことはない。
個人的な相談を受けたこともない。
「小宮さんが柏木家へ忘れ物を届けていたことを、警察へ話しましたか」
「いいえ。聞かれませんでしたし、そのときは失踪と関係があるとも思わなかったので」
「小宮さん自身は、届けたことを話していましたか」
「分かりません」
岡崎は手元の資料を閉じた。
小宮の供述には、忘れ物を届けるため柏木家を訪ねたことが記されていない。
質問されなかったから答えなかっただけかもしれない。
忘れ物を届けることを、塾の外で会ったうちに入れなかった可能性もある。
嘘をついたとまでは言えない。
だが、小宮は八年前の供述よりも深く、柏木家へ関わっていた。
*
塾を出たあと、野上は歩きながら手帳を見返していた。
「八年前、小宮奈緒は柏木家の住所を知っていた。何度も自宅を訪ね、父親と会うための機会を作っていた」
「決めつけるな」
岡崎が言うと、野上は足を止めた。
「はい」
「父親と会うためだったとは、まだ分からない。熱心な講師だっただけかもしれない」
「ですが、現在は父親と同じ高校に勤務しています」
「それも事実だ。だが、理由ではない」
野上は一度頷き、手帳を閉じた。
「小宮奈緒には、母親との面識があった。柏木家の住所を知っていた。車を持っていた。そして、現在も父親の近くにいる」
「そうだ」
「話を聞く理由はあります」
岡崎は、塾の建物を振り返った。
八年前、ここにいた一人の講師。
現在は、妻を失った男と同じ学校で働いている。
偶然かもしれない。
偶然ではないかもしれない。
「勤務先へ行くぞ」
「今からですか」
「いや」
岡崎は時計を見た。
「まず学校へ連絡する。小宮奈緒には、任意で話を聞く」
二人は車へ向かった。
八年前と現在。
別々の関係者一覧に記されていた同じ名前が、ようやく一つにつながった。




