第十四章 そこにいる
第十四章 そこにいる
「佑が、危ないって」
母親はそう言ったまま、目を閉じていた。
「どういうことだよ」
「分からない」
「分からないって、今、自分で言っただろ」
「言葉だけ浮かんだのよ。意味までは出てこないの」
母親は両手で頭を抱えた。
「こう、喉のところまで来てる感じはするんだけど」
「幽霊にも喉があるのか」
「あるような気はする」
「役に立たないな」
「失礼ね。今、大事なことを思い出しかけてるでしょう」
父は少し離れたソファに座り、俯いたまま動かなかった。
刑事たちが帰ってから、一度も顔を上げていない。
俺は声を落とした。
「誰に言われたんだ。俺が危ないって」
「それが分からないの」
「男か、女か」
「多分、女の人」
「どこで聞いた」
母親は眉間に皺を寄せた。
「家にいたと思う」
「その人が家に来たのか」
「違う。声だけ」
「電話?」
母親の表情が変わった。
「電話……」
その言葉を確かめるように、ゆっくり繰り返す。
「そうかもしれない。誰かから電話がかかってきた」
「何を話した」
「あなたのこと」
「俺の何を」
「危ないって。怖い思いをしてるって……」
母親は目を閉じたまま、首を横に振った。
「駄目。そこから先が出てこない」
「いじめの話じゃないのか」
母親の瞼が震えた。
「いじめ……」
「だから急に、塾へ送り迎えしたいって言い出したんじゃないのか」
「そうなのかもしれない」
「誰から聞いたんだよ」
「だから、分からないって言ってるでしょう」
「思い出せよ。誰かに呼び出されたんじゃないのか。そいつの車に乗ったんじゃないのか」
「佑」
母親が困ったように俺を見た。
「一度に言われても無理よ」
「そいつが、あんたを殺したのかもしれないんだぞ」
「分かってる」
「だったら――」
「佑!」
突然、父が声を上げた。
俺は振り返った。
父はソファから立ち上がり、俺を見ていた。
顔には、悲しみよりも強い動揺が浮かんでいる。
「さっきから、誰と話しているんだ?」
母親が口を閉じた。
部屋が静かになった。
俺は、父と母親を交互に見た。
父には母親が見えていない。
俺が何もない場所へ向かって、一人で話し続けていたようにしか見えない。
「佑」
父がもう一度、俺の名前を呼んだ。
「誰が、そこにいるんだ」
今まで言えなかった。
言ったところで、信じてもらえるはずがない。
俺自身、本当にここにいるのが母親なのか分からなかった。
母親の姿を借りて、自分の頭が作り出した幻かもしれない。
父にまで見放されるかもしれない。でも。
「母親」
俺は答えた。
「……何?」
「母親が、そこにいる」
父は俺が見ている場所へ顔を向けた。
母親は、父のすぐ隣に座っている。
それでも父の目には、空いたソファしか映っていない。
「何を言っているんだ」
「俺にも分からない。幽霊になって出てきた」
「幽霊……」
「遺体が見つかったって聞く前からいた」
父の顔が強張った。
「いつからだ」
「父さんが、母親が死んだって言った前の日」
「どうして、今まで黙っていた」
俺は父から目を逸らした。
「言って、信じると思うか?」
父は答えなかった。
「俺だって信じてない。母親がいなくなって八年たって、遺体が見つかったから、自分で作り出した妄想なのかもしれないって思ってた」
「本人を前に妄想って、失礼じゃない?」
母親が言った。
「俺にしか見えないんだから仕方ないだろ」
「佑?」
父が俺を見た。
「今のは誰に言ったんだ」
「母親。妄想扱いするなって怒ってる」
「怒ってないわよ。呆れてるの」
「怒ってるだろ」
「怒ってない」
「うるさいな」
「誰がうるさいのよ」
父の顔から、動揺が消えなかった。
俺は息を吐いた。
「こんな感じで、ずっと勝手に喋ってる」
「ずっと……?」
「しかも、自分がどうして死んだのか、誰に殺されたのか、何一つ覚えてない」
「何一つは言いすぎでしょう。今、電話のことを思い出したじゃない」
「今まで煎餅の魂を食う以外、何の役にも立ってなかっただろ」
「役に立ってるわよ。エアコンを消し忘れてるって教えたでしょう」
「あれだけじゃないか」
「電気代は大事よ」
父は、俺と誰もいない場所を交互に見ていた。
「佑」
「何」
「お前は、ずっと一人でこれを抱えていたのか」
父の声は、さっきまでとは違っていた。
俺を問い詰める声ではなかった。
「誰にも言えるわけないだろ」
「私は早く話したほうがいいって言ったでしょう」
母親が口を挟んだ。
「一回も言ってないだろ」
「心の中では言ってたの」
「幽霊の心の中なんか分かるか」
父が口元を押さえた。
笑ったのか、泣いたのか分からなかった。
その肩が小さく震えている。
父は力が抜けたように、母親の隣へ腰を下ろした。
「父さん」
「本当に……そこにいるのか」
父は、母親が座っている場所を見た。
「いる」
俺が答えると、母親も頷いた。
「いるよ。ずっとここにいる」
父には聞こえない。
「何か、言っているのか」
「ずっと、父さんのせいじゃないって言ってた」
父の目から涙が落ちた。
「さっきも、父さんが自分を責めてる間、隣で何度も言ってた。腹を立てて家を出たんじゃない。帰ってこられなくてごめんって」
「あなたのせいじゃない」
母親がもう一度言った。
「私、あなたに腹を立てて出ていったんじゃないよ」
俺はその言葉を父に伝えた。
父は俯き、両手で顔を覆った。
「そんなことを、言わせるために作ったんじゃないのか」
掠れた声だった。
「父さんを慰めるために、俺が勝手に言ってると思うなら、それでもいい」
俺には、母親が本物だと証明する方法がなかった。
母親自身が何も覚えていない。
父と母親しか知らないことを尋ねても、答えられないかもしれない。
それでも、母親はここにいる。
「でも、俺には見える」
父がゆっくりと顔を上げた。
「どこにいる」
「父さんの隣」
父は、自分の右側を見た。
母親が座っている場所だった。
「もっと、こっち」
父は少しだけ身体の向きを変えた。
母親と向かい合う。
二人の視線は重ならない。
それでも母親は、父が自分を見ているように微笑んだ。
「久しぶり」
母親の目から涙が落ちた。
「老けたね」
「最初に言うことがそれかよ」
「だって、本当に老けたんだもの」
「何て言ってる」
父が聞いた。
「久しぶりって」
「それだけか」
「……老けたって」
父は一瞬、目を見開いた。
それから、涙を流したまま小さく笑った。
「そうか」
「何笑ってるのよ。本当に老けたわよ」
母親は泣きながら笑っていた。
父は震える手を、誰もいないはずの隣へ伸ばした。
母親も、その手へ自分の手を重ねる。
二人の手は、触れ合うことなくすり抜けた。
「……そこに、いるのか」
父の問いに、母親は泣きながら頷いた。
「うん。ここにいるよ」
俺は、その言葉を父に伝えた。




