第十五章 声
第十五章 声
父は、母親がいる場所へ手を伸ばしたまま動かなかった。
母親も、父の手に自分の手を重ねている。
二人の指は触れ合わず、同じ場所で重なっていた。
「本当に、そこにいるんだな」
父が言った。
「いるよ」
母親が答えた。
「いるって」
俺が伝えると、父は小さく頷いた。
「ずっと、ここにいたのか」
「ずっとってほどじゃないわよ。私も、つい最近来たんだから」
「最近だって」
「そうか」
父は母親の姿が見えているかのように、空いた場所へ顔を向けている。
母親は泣きながら、その顔を見つめていた。
「八年もたったのね」
「八年もたったって」
「八年だ」
父の声が震えた。
「ごめんね」
母親が言った。
「帰ってこられなくて、ごめんね」
「帰ってこられなくて、ごめんって」
「君が謝ることじゃない」
父はすぐに答えた。
母親の声は聞こえなくても、返ってくる言葉は分かっていたようだった。
「ちゃんと食べてた?」
母親が聞いた。
「ちゃんと食べてたかって」
「それを今聞くのか」
父は泣きながら笑った。
「だって、あなた、放っておくと同じものばかり食べるでしょう」
「放っておくと、同じものばかり食べるから心配だって」
「心配とまでは言ってないわよ」
「大体同じだろ」
「勝手に足さないで」
母親が俺を睨んだ。
「今、何て言ったんだ」
「勝手に話を足すなって怒られた」
「怒ってない。注意しただけ」
「怒ってるじゃないか」
父は、俺と、俺の隣にある何もない空間を交互に見た。
「本当に、母さんと話しているんだな」
「だから、そう言ってるだろ」
「信じられないんだ。だが……」
父は言葉を止めた。
「母さんと話しているときのお前は、昔からそんな感じだった」
「どんな感じ」
「少しだけ、子どもに戻る」
「戻ってない」
「戻ってるわよ」
「母親も戻ってるって」
「ほらな」
「二人で決めつけるなよ」
父はまた笑った。
三人で話している。
父には母親の姿も声も届かない。
俺が間に入らなければ、母親の言葉を父へ伝えることはできない。
それでも、八年ぶりに三人で同じ場所にいる。
母親は父の顔を見つめたまま、何度も涙を拭っていた。
しばらくして、父の表情が変わった。
「聞いてもいいか」
父は母親がいる場所へ尋ねた。
「何?」
母親の返事は父には聞こえない。
「いいって」
俺が伝えると、父はゆっくり息を吐いた。
「君が覚えていることを、教えてほしい」
母親の笑顔が消えた。
「無理にとは言わない。ただ、少しでも覚えていることがあるなら」
「分かった」
母親が頷いた。
「分かったって」
「どうして、あの日、急に免許を取りたいと言ったんだ」
母親は目を閉じた。
「佑を守らなきゃって思ったの」
「俺を?」
「そう。夜、一人で歩かせちゃいけないって」
俺は母親の返事を父へ伝えた。
「何から守ろうとしたんだ」
父が尋ねる。
「分からない」
「分からないって」
父は責めることなく、次の言葉を待った。
「誰かに言われたの。佑が危ないって」
「誰に?」
「女の人」
「女の人だって」
「どこで会ったんだ」
母親が首を横に振った。
「会ってない。声だけだった」
「会っていない。声だけ聞いたって」
「電話か」
母親はゆっくりと頷いた。
「多分、電話」
「電話だと思うって」
「その女は、何と名乗った」
「思い出せない」
俺が伝えると、父は一度目を閉じた。
「電話を受けたのは、家か?」
「うん。昼間だった」
「家で、昼間に受けたって」
「そのとき、私と佑は?」
「あなたは仕事。佑は学校」
その答えも父へ伝えた。
「その女は、佑について何と言った」
母親は膝の上で両手を握った。
「いじめられているって」
「俺が?」
「同じ学校の子に、帰りを待ち伏せされてるって。お金を持ってくるように言われてるって」
母親の声が震え始めた。
「断ったら、階段から突き落とすって……」
俺は、母親の言葉をそのまま父へ伝えた。
父の顔が強張る。
「そんなことは、一度もなかった」
「うん。なかった」
「でも、母さんは信じたんだな」
父の問いかけに、母親は頷いた。
「その人が、佑のことをよく知っていたから」
「俺のことを?」
「自分から質問できないこと。何を聞いても大丈夫って答えること。問い詰めると黙ってしまうこと」
どれも、当時の俺に当てはまっていた。
家族なら知っている。
学校の教師も知っていたかもしれない。
塾で俺を見ていた人間なら、なおさらだ。
「塾の人だったのか」
俺が尋ねた。
母親の瞼が震えた。
「塾……」
「電話の相手は、塾の人だった?」
「分からない。でも、私は塾へ行こうとしてた」
「母親は、塾へ行こうとしてたって」
父が身を乗り出した。
「いつ?」
「夜。仕事が終わってからなら話せるって言われた」
「電話の相手に?」
「うん」
俺は二人のやり取りを父へ伝えた。
「そのことを、どうして私に話さなかった」
父が母親へ尋ねる。
「佑が、ご両親には言わないでほしいと言っているって言われたの」
俺が伝えると、父は唇を噛んだ。
「俺は、そんな相談してない」
「分かってる。でも、あのときは信じたのよ」
母親は俯いた。
「ごめんね」
「謝るなよ。騙されたんだろ」
俺が言うと、父も頷いた。
「君が謝ることじゃない」
父には母親の姿が見えていない。
それでも、声をかける場所はもう迷わなかった。
「その人に会いに行ったのか」
「多分」
「車へ乗った記憶は?」
母親は両手で頭を押さえた。
「車……」
「思い出せないなら、無理をしなくていい」
父は急かさなかった。
俺のように問い詰めてはいけない。
母親の性格を知っている父には、それが分かっている。
父は黙って、母親の返事を待った。
「歩いてた」
母親が呟いた。
「家を出て、一人で歩いてた。塾へ向かってたと思う」
「一人で塾へ向かって歩いてたって」
「そのあと?」
「車が停まった」
「車が停まった」
俺が伝えると、父の表情が変わった。
「誰の車だ」
「分からない」
「運転していた人は?」
「女の人」
「顔は見たのか」
「見たはず。でも……」
母親は首を横に振った。
「思い出せない」
俺が伝えると、父はそれ以上聞かなかった。
「今日は、ここまでにしよう」
「待って」
母親が父を見た。
「もう少しで思い出せそうなの」
「もう少し考えたいって」
「無理をしなくていい」
「大丈夫」
母親は目を閉じた。
女の声。
電話。
佑がいじめられているという話。
夜の塾。
停まった車。
運転席にいた女。
母親の呼吸が少しずつ速くなった。
「大丈夫か」
父が母親へ尋ねた。
「静かにして」
母親が答える。
「静かにしてだって」
「そうか」
父は素直に口を閉じた。
母親は目を閉じたまま、記憶を探っていた。
やがて、小さく呟く。
「最近、見た」
「何を」
「その女の人」
「いつ」
「ここで」
母親が目を開けた。
視線が、玄関のほうへ向く。
「この前、この家に来た」
俺は、書類と買い物袋を持って現れた女を思い出した。
父の同僚。
小宮。
「書類を届けに来た人か」
「うん」
俺は父を見た。
「この前、家に来た女だって」
父の顔が変わった。
「小宮先生のことか?」
その名前を聞いた瞬間、母親の身体が震えた。
「小宮……先生」
母親の中で、声と顔が重なった。
『実は、佑君から、いじめの相談を受けました』
母親が両手で口元を覆う。
「思い出した」
「何を」
母親は父を見た。
顔から血の気が引いていた。
「電話をかけてきたの、小宮先生よ」
俺は、その言葉を父へ伝えた。




