第十六章 痕跡
第十六章 痕跡
小宮は、取調室の机を挟んで岡崎と向かい合っていた。
隣には野上が座っている。
「八年前、柏木佑君が通っていた塾で、講師をしていましたね」
「はい」
小宮は穏やかに答えた。
「担当したこともあります。とても真面目なお子さんでした」
「母親の柏木美沙さんとは?」
「何度かお会いしています。送り迎えに来られていましたから」
「塾の外で会ったことは」
「ありません」
岡崎は小宮の顔を見たまま、机の上へ一枚の写真を置いた。
柏木美沙の遺体が見つかった場所だった。
「ここに見覚えは?」
小宮は写真へ視線を落とした。
ほんの数秒、考えるように見つめてから首を横に振る。
「ありません」
「柏木美沙さんが失踪した夜、どこにいました?」
「八年も前のことです。覚えていません」
「その頃、車を持っていましたね」
「持っていました。それが何か?」
「車種は?」
小宮は答えた。
岡崎は手元の資料へ目を落とした。
「二年後に手放している」
「古くなったので買い替えました」
「その車が今どうなっているか、知っていますか」
「知りません。もう廃車になっているのではないでしょうか」
何を聞かれても、小宮の表情は変わらなかった。
岡崎たちに証拠がないことは、質問を聞けば分かる。
車はとうに手放した。
ロープも、睡眠薬の包みも、あの夜に身につけていた服も残っていない。
柏木美沙の鞄や携帯電話も処分した。
八年前の自分へつながるものは、すべてなくした。
「失踪した夜、柏木美沙さんが、女の運転する車に乗るところを見たという証言があります」
小宮は黙って岡崎を見た。
「その女性が私だと?」
「そうだとは言っていません」
「車のナンバーは私のものでしたか? 運転していた人の顔は?」
「暗くて顔までは確認できなかったそうです。ただ、車の特徴は、あなたが当時所有していたものと似ている」
「よくある車ですよ」
「運転していたのは、女だった可能性が高い」
「可能性だけですよね」
「ああ」
岡崎は表情を変えなかった。
小宮は困ったように微笑んだ。
「八年前、私は佑君が通っていた塾で働いていた。柏木先生の奥様とは面識があった。そして、よく似た車を持っていた」
小宮は指を折るように、一つずつ挙げた。
「でも、その夜に私が奥様と会った証拠はない。車のナンバーも、運転していた女性の顔も確認されていない。違いますか?」
岡崎は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「最近、柏木さんの自宅を訪ねましたね」
「はい。同僚ですから」
「何をしに?」
「お休みされていたので、学校の書類と差し入れを届けました」
「頻繁に行くんですか」
「いいえ。困っている同僚を気遣うことが、そんなに不自然でしょうか」
小宮は腕時計を見た。
「まだお話があるなら伺います。でも、これは任意ですよね」
「ああ」
「でしたら、今日は帰らせていただきます」
岡崎は引き止めなかった。
小宮は席を立ち、一礼して取調室を出た。
警察署の玄関を抜けても、歩く速さは変えなかった。
振り返ることもない。
けれど、駅前のショーウインドーを通り過ぎたとき、ガラスに映る男の姿を確認した。
署を出たときから、一定の距離を保ってついてきている。
小宮は小さく息を吐いた。
「どいつもこいつも、私の邪魔ばかりする」
呟いてから、いつもの微笑みを浮かべた。
尾行は一人だけだった。
まだ、自分を犯人だと決めてはいない。
念のため見張っているにすぎない。
小宮は駅前の商業施設へ入り、婦人服売り場を抜けた。上の階へ行き、別のエスカレーターで下りる。化粧品売り場で立ち止まり、鏡越しに男の位置を確かめた。
そのまま地下の食品売り場へ向かう。
昼前の売り場は人で混み合っていた。
小宮は買い物客の間を縫い、地下道へ続く出口へ進んだ。角を曲がったところで足を速め、停車していたタクシーへ乗り込む。
走り出した車の後ろに、男の姿はなかった。
一人を撒くくらい、難しいことではない。
小宮は途中でタクシーを降りた。
鞄には、睡眠薬が入っている。
以前は時間をかけるつもりだった。
佑が自分で死を選んだように見せるため、準備もしていた。
だが、もうそんなことに構ってはいられない。
柏木先生は、警察から何を聞かされたのだろう。
きっと不安になっている。
自分を疑っているかもしれない。
誤解なら、早く解かなければならない。
「柏木先生を不安にさせてしまったかもしれないわね」
小宮は通りの先にある洋菓子店を見つけ、微笑んだ。
「謝りに行かなくちゃ」
*
「見失った?」
岡崎の声が低くなった。
電話の向こうで、尾行を任せた捜査員が謝っている。
『駅前の商業施設までは確認していました。ですが、中で姿を——』
「出口は一つじゃないだろう」
『申し訳ありません』
岡崎は電話を切り、机の上へ放った。
「一人じゃ無理ですよ」
野上が言った。
「あくまで念のための尾行でした。小宮に気づかれないよう、割ける人員も一人だけだったんですから」
「分かってる」
そう答えた岡崎の声には、苛立ちが滲んでいた。
そのとき、机の電話が鳴った。
野上が飛びつくように受話器を取る。
「はい、野上です」
相手の話を聞くうちに、野上の表情が変わった。
「本当ですか。分かりました。すぐに取りに行きます」
受話器を置く。
「筆跡鑑定の結果が出ました」
野上は立ち上がった。
「離婚届の筆跡と、小宮の筆跡。完全な一致とは言えないそうです。離婚届のほうは、柏木美沙さんの字へ意図的に似せた可能性がある。ただ、払い方や線のつなげ方に、小宮と共通する特徴が何か所も見つかったと」
「小宮が書いた可能性は」
「高いそうです。ただし、断定はできないと」
岡崎は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
離婚届。
八年前の曖昧な目撃証言。
すでに手放された車。
どれも小宮へ近づいてはいる。
だが、まだ届かない。
「家だ」
岡崎が言った。
「小宮の自宅ですか?」
「あの女は二度転居してる。それでも、何か残ってる」
「捜索差押許可状は出ませんよ。今ある証拠だけでは——」
「分かってる。まず行くぞ」
二人は小宮の自宅へ向かった。
何度インターホンを押しても応答はなかった。
窓のカーテンは閉じられ、中に人の気配はない。
「管理人を呼べ」
岡崎が言った。
「待ってください。令状がありません」
「連絡がつかない。室内で倒れている可能性もある」
「そんな理屈、通りませんよ」
「なら、お前はここにいろ」
「岡崎さん」
「責任は俺が取る」
野上が止める間もなく、岡崎は管理人のもとへ向かった。
しばらくして、管理人が鍵を持って現れた。何度も事情を尋ねてきたが、岡崎は室内で異変が起きている可能性があると押し切った。
扉が開く。
「お前は外にいろ」
「でも——」
「入るな。これは命令だ」
岡崎は一人で部屋へ入った。
中は静まり返っていた。
家具は少なく、物は決められた位置に収められている。床には埃もなく、台所には使った食器一つ残っていない。
人が暮らしている部屋には見えなかった。
岡崎は奥へ進んだ。
一つだけ、部屋の様子にそぐわない場所があった。
机の周囲に、紙が散乱している。
足元には丸められた紙がいくつも転がり、ゴミ箱にも入りきらないほど詰め込まれていた。机の上は、何枚、何十枚もの紙で覆われている。
岡崎は一番上の紙を手に取った。
同じ文章が、何度も書かれていた。
字の大きさや傾きが、少しずつ違う。
別の紙には、一つの名前だけが繰り返されている。
柏木佑。
柏木佑。
柏木佑。
岡崎は紙をめくった。
その下から、短い文章が現れた。
『お父さんへ。
お母さんが死んだのは、僕のせいです。
もう耐えられません。
ごめんなさい。
柏木佑』
岡崎は紙を掴み、玄関へ走った。
勢いよく扉を開ける。
「柏木さんちだ。行くぞ!」
野上が目を見開いた。
「何があったんですか」
「小宮が殺そうとしてるのは、柏木佑だ!」
二人は階段を駆け下りた。




