第十七章 守る
第十七章 守る
インターホンが鳴った。
父と俺は、同時にリビングのモニターへ顔を向けた。
母親も、つられるように画面を見る。
そこには、ケーキの箱を提げた小宮が映っていた。
いつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべている。
「小宮先生……」
父の表情が変わった。
「あの人」
母親が呟いた。
次の瞬間、母親は俺の前へ出た。軽く腰を落とし、両手を顔の前に上げる。握った拳を小さく揺らしていた。
「何してんの」
「見たら分かるでしょ。ファイティングポーズよ」
「戦えないだろ。物にも触れないのに」
「気持ちで負けたら終わりなの!」
構えは少しへっぴり腰だった。
インターホンがもう一度鳴る。
『柏木先生、小宮です』
モニターから、いつもと変わらない穏やかな声が聞こえた。
『先ほど警察の方からお話を聞かれました。奥様のことで、少しお伝えしたいことがあります』
父はしばらく黙っていた。
それからスマートフォンを取り出し、画面を操作した。録音を始めたのだと分かった。
「佑、私のそばを離れるな」
「分かった」
父はスマートフォンをズボンのポケットへ入れ、玄関へ向かった。
俺もあとを追う。
母親は拳を構えたまま、俺の隣を歩いていた。
「母ちゃん。歩きにくくない?」
「戦闘態勢なんだから、これでいいの」
「相手からは見えてないけど」
「うるさいわね。集中できないでしょ」
玄関へ着くと、父は一度だけ俺を振り返り、ドアを開けた。
「急にすみません」
小宮は申し訳なさそうに頭を下げた。
「警察の方から、奥様が失踪された頃のことをいろいろ聞かれまして。私のことで、柏木先生にもご心配をおかけしたのではないかと思って」
小宮はケーキの箱を少し持ち上げた。
「よろしければ、皆さんで」
皆さん。
その言葉に、母親が眉を上げた。
「私の分は入ってないくせに」
「当たり前だろ」
「気持ちの問題よ」
父は小宮を家へ入れた。
小宮はリビングへ入ると、母親のいる場所を通り抜けた。
「うわっ」
母親が飛び退く。
「何?」
「今、この女、私の中を通った!」
「仕方ないだろ。見えてないんだから」
「分かってても嫌なものは嫌なの!」
小宮が俺を見た。
「どうかした?」
「何でもありません」
俺が答えると、小宮は少しだけ目を細めた。
父と小宮が向かい合って座った。
俺は父の隣に座る。
母親は俺の前に立ったまま、もう一度拳を構えた。
小宮がケーキの箱をテーブルへ置く。
「ここのケーキ、お好きでしたよね」
「よく覚えていますね」
「以前、職員室で召し上がっていたので」
父は箱に手を伸ばさなかった。
俺も動かなかった。
小宮の笑顔がわずかに固くなる。
「食べないんですか?」
「その前に、お聞きしたいことがあります」
父が言った。
「妻がいなくなった夜、あなたはどこにいましたか」
小宮の笑顔が消えた。
「先ほど、警察にも同じことを聞かれました。八年も前ですから、覚えていません」
「妻へ電話をかけましたか」
「いいえ」
「佑がいじめられていると、妻へ話したことは?」
「ありません」
小宮は即座に答えた。
「どうして、そんなことを聞くんですか」
「妻は、佑がいじめられているという電話を受けた。その相手に呼び出され、夜の塾へ向かおうとした。そして、途中で女の車に乗った」
「警察から聞いたんですか?」
「いいえ」
「では、誰から?」
父は答えなかった。
小宮の顔をまっすぐ見て、別の質問をした。
「妻が憎かったのですか?」
小宮は少し驚いたような顔をした。
けれど、すぐに穏やかな笑みを取り戻す。
「いいえ。素敵な奥様でしたもの」
「では、なぜこんなことを?」
「何のお話をされているのか、私には——」
「私たち家族が、あなたに何をしましたか」
小宮の笑顔が揺れた。
「柏木先生。私は、あなたのことを——」
「ただ佑の塾を担当していただけの先生で、今はただの同僚だ」
父は小宮の言葉を遮った。
「ただの知人でしかないあなたが、なぜ私の妻を手にかける必要があるんです」
小宮の口が開いたまま止まった。
父は小宮をまっすぐ見ていた。
けれど、その目に、同僚へ向ける親しさはなかった。
小宮は何かを言いかけた。
しかし、声は出なかった。
顔から少しずつ笑みが消えていく。
それでも、もう一度笑おうとした。
口元だけを無理に持ち上げ、今度は俺を見た。
「佑君」
作りきれなかった笑顔が、歪んでいた。
「あなたが、お父さんに有ること無いこと吹き込んだの?」
「違います」
「だったら、誰がそんな話をしたの?」
「母さんです」
小宮は何度か瞬きをした。
それから、小さく笑った。
「お母さんは、亡くなっていますよ」
「知ってます」
「だったら、お話なんてできるはずないでしょう」
「俺には見えるんです。母さんが」
小宮の視線が、俺の隣へ動いた。
そこには母親が立っている。
拳を構え、まっすぐ小宮を睨んでいた。
「あなたが母さんへ電話をかけた」
俺は言った。
「俺がいじめられてるって嘘をついて、母さんを呼び出した。夜の塾へ向かって歩いていた母さんの前に、車を停めた」
「何を言っているの」
「車に乗せて、飲み物を渡した」
小宮の頬から、少しずつ色が消えていく。
母親が両手で頭を押さえた。
「眠くなった。身体が動かなくなって……」
言葉が途切れる。
「無理に思い出さなくていい」
俺が言うと、母親は首を横に振った。
「思い出さなきゃ」
母親は目を閉じた。
「この女が運転してた。車の中で飲み物をくれて、私はそれを飲んだ。目が覚めたときには、暗い場所にいた」
俺は母親の言葉を、そのまま小宮へ伝えた。
「やめなさい」
小宮の声から、穏やかさが消えていた。
「母さんが目を覚ましたとき、あなたがいた」
「やめなさい!」
「母さんの首にロープをかけた」
「黙れ!」
「母さんは、あなたの顔を見てる」
「黙れって言ってるでしょう!」
小宮が立ち上がった。
ケーキの箱が床へ落ちる。
蓋が開き、白いクリームがカーペットに潰れた。
小宮は肩を震わせながら、父を見た。
けれど、父は俺の前へ立ち、小宮から俺を隠した。
小宮は父の身体越しに俺を見ようと、首を動かした。
その目が大きく見開かれる。
「本当に、どいつもこいつも私の邪魔ばかりする」
小宮が鞄へ手を入れた。
「あの女も、邪魔だったから消した」
取り出した手には、小さなカッターナイフが握られていた。
刃が押し出される。
「今度は、あんたの番よ」
小宮が俺へ向かって踏み込んだ。
「邪魔者なんて、いなくなればいい!」
「佑、逃げて!」
母親が叫んだ。
考えるより先に、俺は身体を横へ投げた。
直後、小宮が振り下ろした刃が、さっきまで俺のいた場所を切り裂いた。
父が小宮の腕を掴む。
「何をする!」
「離して!」
小宮は父を突き飛ばした。
父の背中がテーブルへぶつかり、鈍い音がした。
「父さん!」
「来るな!」
父は床へ膝をつきながら叫んだ。
小宮が俺へ向き直る。
その顔には、もう親切な教師の面影はなかった。
母親が俺の前へ出た。
小宮との間に立ち、拳を構える。
足は震えていた。
腰も引けている。
どう見ても、強そうではなかった。
「母ちゃん、無理だ」
「うるさい」
「触れないだろ」
「分かってるわよ!」
母親は小宮から目を逸らさなかった。
「それでも、あんたは母ちゃんの後ろにいなさい!」
小宮には、その姿は見えていない。
声も届いていない。
それでも母親は、一歩も退かなかった。
小宮が踏み込む。
「右!」
母親の声に、俺は右へ飛んだ。
刃が空を切る。
「後ろ!」
言われたとおりに下がる。
小宮の手が、俺の服を掠めた。
「玄関へ走って!」
母親が叫ぶ。
俺は玄関へ向かって走った。
小宮が追ってくる。
母親も俺たちの間を走る。
「速い! ちょっと待ちなさいよ!」
「幽霊なんだから頑張れよ!」
「幽霊だって急には速くならないの!」
こんなときまで、母親は母親だった。
格好よくなんてなかった。
髪を振り乱し、必死な顔で走っている。
俺は玄関へ飛び込み、鍵へ手を伸ばした。
背後から、小宮の足音が迫る。
「佑、しゃがんで!」
俺はその場にしゃがんだ。
頭の上を、小宮の腕が通り過ぎる。
そこへ父が後ろから飛びついた。
二人が床へ倒れる。
カッターナイフが、小宮の手から滑り落ちた。
俺は鍵を開け、ドアを押し開けた。
目の前に岡崎と野上が立っていた。
「下がれ!」
岡崎が俺を押しのけ、家の中へ飛び込む。
野上も続いた。
小宮は父を振りほどこうともがいていたが、岡崎に腕を押さえられ、野上に手錠をかけられた。
「離して! 私は何もしてない!」
小宮が叫んだ。
「この人たちが、おかしなことを言ってるだけです! 死んだ人間と話したなんて、そんな話——」
「全部、録音しました」
父が立ち上がった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、小宮へ向ける。
「妻を殺したことも、佑を殺そうとしたことも、あなたが自分で話した」
小宮の顔から、すべての表情が消えた。
「その死んだ人間に負けたんだよ」
俺は言った。
小宮が俺を見る。
母親は俺の隣で、まだ拳を構えていた。
呼吸をする必要もないくせに、肩で息をしているように見えた。
「母ちゃん」
「何よ」
「もう終わったよ」
「……そう?」
「うん」
母親は小宮を見たまま、ゆっくりと拳を下ろした。
父が俺を抱き寄せた。
「無事か」
「大丈夫」
「母さんは?」
「ここにいる」
父は、俺の隣にある何もない空間へ顔を向けた。
「守ってくれたんだな」
母親の顔がくしゃりと歪んだ。
「当たり前でしょ」
涙を拭いながら、母親は笑った。
「母ちゃんなんだから」




