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母ちゃんが、いる。  作者: もちむぎ


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第十八章 黙秘

第十八章 黙秘


 小宮が逮捕されてから、四日がたった。


 父の背中には大きな青あざが残っていた。


 病院では骨に異常はないと言われたが、立ち上がるたびに顔をしかめている。


「痛いなら座ってなさいよ」


 母親が言った。


「座ってても痛いんだよ」


 俺が伝えると、父は苦笑した。


「母さんは何て?」


「動くなって」


「そこまでは言ってないわよ」


「大体同じだろ」


 母親は不満そうに俺を睨んだ。


 父は学校を休んでいた。


 俺も大学へは行っていない。


 警察で何度も同じ話を聞かれ、そのたびに、見えない母親から聞いたとは言えず、説明に困った。


 父が録音していた小宮の言葉は、警察へ提出した。


 床へ落ちたカッターナイフも、小宮の鞄に入っていた睡眠薬も、すべて押収された。


 ケーキは捨てられた。


「一個くらい食べてもよかったんじゃない?」


 母親が言った。


「睡眠薬を持ってきた人間のケーキだぞ」


「私はもう死んでるから効かないわよ」


「食べられないだろ」


「魂だけなら食べられたかもしれないじゃない」


「どこまで食い意地張ってんだよ」


 父が俺を見る。


「母さん、ケーキを食べたかったらしい」


「だから伝えなくていいのよ!」


 母親が俺の肩を叩こうとして、手をすり抜けさせた。


 そのとき、インターホンが鳴った。


 リビングのモニターには、岡崎と野上が映っていた。


 父が立ち上がろうとする。


「俺が出るよ」


「そうしてくれ」


 俺は玄関へ向かった。


 二人をリビングへ案内すると、母親はソファの端へ移動した。


 岡崎がそこへ座ろうとする。


「ちょっと、そこ私の場所」


「聞こえないって」


 俺が小声で言うと、母親は渋々立ち上がった。


「怪我の具合はどうですか」


 野上が父へ尋ねた。


「打撲だけです。ご心配をおかけしました」


「いえ。こちらがもう少し早く到着できていれば」


「間に合ってくれました。それで十分です」


 岡崎は父と俺を順番に見た。


「小宮は、黙秘しています」


「何も話さないんですか」


「ああ。柏木美沙さんのことも、佑君を襲ったことも、一切答えない」


「でも、録音があります」


 俺が言うと、岡崎は頷いた。


「録音だけじゃない。凶器もある。君とお父さんの証言も一致している。俺たちが到着したとき、小宮はカッターナイフを持って君を追い、取り押さえられた直後だった」


 小宮が黙っても、あの家で起きたことまで消えるわけではない。


「佑への殺人未遂は?」


 父が尋ねた。


「それは固められる」


 岡崎が答えた。


「ただ、八年前の事件は別です」


 父の表情が曇る。


「録音には、妻を消したと言った声が残っています」


「本人の声で間違いない。だが、あれだけで殺害の方法や場所まで立証できるわけじゃない。弁護士は、追い詰められて感情的に発した言葉だと主張するでしょう」


「そんな」


 母親が声を上げた。


「あの女、私を見ながら首を絞めたのよ。私が証言するわ」


「死人の証言は無理だろ」


「何よ。被害者本人なのに」


「何の話だ?」


 岡崎が俺を見た。


「何でもありません」


 俺は誤魔化した。


 岡崎は少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


「小宮の部屋は、正式に令状を取って捜索しました」


 野上が鞄から数枚の写真を取り出し、テーブルへ置いた。


 机の周囲に散乱した紙。


 ゴミ箱から溢れた、丸められた紙。


 その中に、俺の名前で書かれた遺書があった。


「これ、俺が書いたことになってるんですよね」


「そうだ。筆跡を似せるために、君の名前を何度も練習している」


「離婚届と同じ……」


「おそらく、小宮は他人の筆跡を真似るときに出る癖を消しきれない。鑑定を続けています」


 次の写真には、父の名前が書かれた紙が何枚も写っていた。


 学校で交わした会話。


 父が職員室へ来た時刻。


 飲んでいたもの。


 着ていた服。


 いつ休みを取ったか。


 父がどの教師と話していたか。


 小さな文字で、何年分もの記録が残されている。


 母親が写真を覗き込んだ。


「気持ち悪っ」


 俺も同じことを思った。


「これだけあっても、妻を殺した証拠にはならないんですね」


 父が言った。


「小宮があなたに異常な執着を持っていたことは分かります。ただ、それだけで八年前の殺人を立証することはできません」


 岡崎は写真を重ねた。


「車の行方も追っています。廃車になった時期や場所、当時の整備記録も調べる。失踪した夜に小宮がどこにいたのか、塾の記録や関係者への聞き取りもやり直します」


「時間がかかりますか」


「ああ」


 岡崎ははっきり答えた。


「それでも、調べます」


 父は黙って頭を下げた。


 岡崎は少し迷ってから、もう一度口を開いた。


「小宮が一つだけ、要求しました」


「要求?」


「柏木先生に会わせてほしい、と」


 部屋の空気が止まった。


 母親が勢いよく立ち上がる。


「会わなくていい!」


 父には聞こえていない。


 それでも父は、迷わず答えた。


「会いません」


「よろしい!」


 母親が満足そうに頷いた。


「理由を聞いても?」


「私は、小宮先生に話すことはありません」


 父は静かに言った。


「妻を殺した理由を聞きたいとは思います。ですが、彼女が私に何を話しても、したことが変わるわけではない」


「そうですか」


「それに、会えば彼女は、まだ私との間に何かがあると思うでしょう」


 父はテーブルの上の写真を見た。


「私と彼女の間には、初めから何もありません」


 岡崎は小さく頷いた。


「そのように伝えておきます」


「いえ」


 父が止めた。


「何も伝えないでください」


 岡崎が父を見る。


「私の言葉を、一つも彼女へ渡したくありません」


 母親が、父の隣へ立った。


「いいこと言うじゃない」


「今のは伝える?」


「それは伝えて」


「どっちだよ」


 俺が小声で言うと、父がこちらを見た。


「母さんは何て?」


「今のは格好よかったって」


「そこまでは言ってないわよ」


 母親が慌てる。


 父は少しだけ笑った。


 岡崎と野上が帰ったあと、父はソファへ深く座った。


「すぐに戻ってくることはないんだな」


「うん」


「だが、いつかは戻ってくるかもしれない」


 父の言葉に、母親の表情が曇った。


 小宮は、捕まったからといって目が覚める人間ではない。


 母親のせい。


 俺のせい。


 警察のせい。


 これからも、自分以外の誰かを恨みながら生きていくのだろう。


 そして、いつかまた、父の前へ現れるかもしれない。


「そのときは、どうするの」


 母親が父へ尋ねた。


 俺が伝える前に、父が言った。


「今度は私が守る」


 聞こえているわけではない。


 それでも、母親の問いに答えたように思えた。


「佑も、この家も。もう二度と、あの人を中へ入れない」


 母親は父の顔を見つめた。


「頼んだわよ」


 俺はその言葉を伝えなかった。


 伝えなくても、父には届いている気がした。


 母親が俺の隣へ座る。


 そのとき、母親の身体をソファの模様が透けて見えた。


「母ちゃん」


「何?」


「なんか、薄くなってない?」


 母親は自分の両手を見た。


 指の向こうに、カーペットが見えている。


「元から幽霊なんだから、透けてるわよ」


「そうじゃなくて」


 母親は笑おうとした。


 けれど、その笑顔は少しだけ震えていた。

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