第十九章 さよなら
第十九章 さよなら
母親は、自分の両手を見つめていた。
指の向こうに、カーペットの模様が透けて見える。
腕も、肩も、さっきまでより薄くなっている。
「母ちゃん」
「何よ」
「消えるのか」
「知らないわよ。幽霊になったのも初めてなんだから」
母親は笑った。
いつものように軽く言ったつもりなのだろう。
けれど、その声は震えていた。
「母さんは、どうした」
父が尋ねた。
「身体が薄くなってる」
俺が答えると、父の顔から表情が消えた。
「それは……」
「多分、お別れってことね」
母親が言った。
「お別れだって」
その言葉を父へ伝えた瞬間、本当に終わりが来たのだと思った。
母親が帰ってきてから、まだ何日もたっていない。
うるさくて、勝手で、人の煎餅の魂を食べて、エアコンの設定温度にまで文句を言った。
八年ぶりに会えたのに。
もう、いなくなる。
「早すぎるだろ」
俺が言った。
「仕方ないでしょ。私が決めたことじゃないんだから」
「もう少しいればいい」
「そうしたいけどね」
母親は自分の腕を擦ろうとした。
指同士が重なり、そのまますり抜ける。
「佑を守れたから、もういいってことなのかも」
「よくない」
「よくないって言われても」
「俺は、まだ何も話してない」
「ずっと話してたじゃない」
「八年分あるんだよ」
母親が黙った。
「八年も、何も話せなかった。母ちゃんがどこにいるのかも、何で帰ってこないのかも分からなかった」
声が震えた。
「勝手に帰ってきて、勝手にいなくなるなよ」
「……ごめんね」
母親が俺の頬へ手を伸ばした。
触れることはできない。
それでも、透明な指先が涙を拭うように動いた。
「勝手にいなくなって、ごめん」
「母ちゃんが謝ることじゃない」
「でも、寂しかったでしょ」
「寂しかったよ」
俺は答えた。
「ずっと腹も立ってた。俺と父さんを捨てて、どこかで勝手に暮らしてるんだと思ってた」
「うん」
「死んでるなんて、思いたくなかった」
「うん」
「でも、母ちゃんは俺を捨てたんじゃなかった」
母親の目から涙が落ちた。
床へ届く前に消える。
「俺を守ろうとしてくれたんだろ」
「守れなかったけどね」
「守ってたよ」
「え?」
「八年前も、今も、ずっと守ろうとしてくれてた」
母親は口元を押さえた。
「今度は、ちゃんと守れたし」
「……そうね」
「格好悪かったけど」
「一言多いのよ!」
母親は泣きながら笑った。
「でも、格好なんかどうでもいい」
俺は言った。
「母ちゃんがいてくれたから、俺は助かった」
「うん」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
母親は何度も頷いた。
「こちらこそ」
父は俺たちの会話を黙って聞いていた。
母親の姿は見えない。
父の声は母親へ届くが、母親の返事は父には聞こえない。
母親の言葉だけは、俺が伝えなければならなかった。
「母さん」
父が呼んだ。
「何?」
母親はすぐに答えた。
「探し出せなくて、すまなかった」
母親の顔が歪んだ。
「あなたが謝ることじゃない」
「父さんが謝ることじゃないって」
俺が伝えた。
「それでも、謝りたい」
父は続けた。
「君がいなくなって、何があったのか分からないまま、時間だけが過ぎていった。佑にも、つらい思いをさせた」
「あなたは悪くない。佑を育ててくれた」
俺は母親の言葉を、そのまま父へ伝えた。
「ちゃんと食べさせて、大きくしてくれた。まあ、料理の種類は少なかったみたいだけど」
「最後にそれ言う?」
俺が母親を見ると、母親は少し笑った。
「大事なことでしょ」
「料理の種類は少なかったけど、って」
俺が伝えると、父も笑った。
「母さんらしいな」
「何よ、それ」
母親が父を睨んだ。
「褒め言葉よね?」
「褒め言葉かって」
「ああ。褒めてる」
「なら、いいわ」
「いいって」
「そこまで全部伝えなくていいのよ」
「俺が伝えないと父さんに聞こえないだろ」
父の目から涙が落ちた。
「ずっと、君に会いたかった」
母親は、もう笑わなかった。
「私も」
「母ちゃんも会いたかったって」
俺の声も震えた。
「もう一度、三人で暮らしたかった」
「私もよ」
「母ちゃんも、三人で暮らしたかったって」
「佑が大人になったところを、一緒に見たかった」
「私も見たかった」
母親は泣きながら父の前へ歩いた。
「あなた、老けたわね」
「それ、今言う?」
俺が尋ねると、母親は父の顔を見つめた。
「でも、すぐ分かった」
「八年たっても、すぐに父さんだって分かったって」
父は顔を覆った。
母親が両腕を広げる。
「最後くらい、三人で抱き締め合いましょう」
「触れないだろ」
「気持ちの問題よ」
俺は父を見た。
「最後に、三人で抱き締め合おうって」
父は立ち上がり、俺の隣へ来た。
母親は、俺と父を包むように腕を伸ばした。
透明な腕が、二人の身体をすり抜ける。
俺も腕を伸ばした。
父が俺の背中へ腕を回す。
触れることはできない。
温度もない。
それでも、三人で抱き締め合っていると思った。
「元気でね、佑」
「うん」
「ご飯、ちゃんと食べなさいよ」
「父さんにも言って」
「あなたもよ」
母親が父へ言った。
「母ちゃんが、父さんもちゃんと食べろって」
「分かった」
「夜更かししすぎないこと」
「母ちゃんに言われたくない」
「大学も、ちゃんと行くのよ」
「分かってる」
「それから——」
「多いよ」
「だって、もう言えないかもしれないでしょ」
母親の輪郭が、さらに薄くなった。
向こう側の壁が透けている。
「父さん」
俺が呼ぶと、父は母親がいる場所へ顔を向けた。
「母さん、もう消えそうだ」
父は唇を噛んだ。
「ありがとう」
父が言った。
「私と一緒になってくれて、ありがとう。佑を産んでくれて、ありがとう」
母親は、涙でぐしゃぐしゃになりながら笑った。
「こちらこそ」
「こちらこそだって」
俺が伝えた。
「さようなら」
母親が言った。
「母ちゃんが、さようならって」
父は目を閉じた。
「さようなら」
父の声は、母親へ直接届いている。
俺も言った。
「さようなら、母ちゃん」
母親の姿が、光に溶けるように薄くなった。
顔が見えなくなる。
伸ばしていた腕も消えていく。
最後まで残っていた笑顔も、やがて見えなくなった。
リビングが静かになった。
父は俺を抱き締めたまま、声を押し殺して泣いていた。
俺も父の肩へ顔を伏せた。
もう、母親の声は聞こえない。
そう思った。
「ねえ」
声がした。
俺は顔を上げた。
「……母ちゃん?」
「うん」
さっきより薄いけれど、母親が同じ場所に立っていた。
「いるのか?」
「いるみたい」
「何で?」
「私が聞きたいわよ」
母親は自分の身体を見下ろした。
消えかけていた輪郭が、少しずつ元へ戻っている。
「どうした、佑」
父が尋ねた。
俺は涙を拭った。
「母ちゃん、まだいる」
「……何?」
「だから、消えてない」
父は、母親がいるはずの場所へ顔を向けた。
「さようならと言ったのに、まだいるのか」
「私だって消えると思ったのよ!」
「母ちゃんも、消えると思ったんだって」
「そんな報告しなくていい!」
父が、泣きながら笑い始めた。
俺も笑った。
母親だけが納得できない顔をしている。
「何よ。二人して」
「いや、あれだけ言っておいて」
「仕方ないでしょ! 初めての成仏に失敗したんだから!」
「失敗だったのかよ」
「他に何て言えばいいのよ」
母親は腕を組んだ。
すっかり元の濃さへ戻っている。
「もう一回、お別れする?」
俺が聞くと、母親は勢いよく首を横に振った。
「嫌よ。同じこと二回も言うの、恥ずかしいでしょ」
「じゃあ、どうするんだ」
「決まってるじゃない」
母親はソファへ座った。
「私、八年も損してるのよ」
「死んでたんだから仕方ないだろ」
「仕方なくないわよ。八年分、ここに居座るから」
「家賃払えよ」
「幽霊からお金取る気?」
父が俺を見る。
「母さんは、何て?」
「八年分、ここにいるって」
父は母親が座っている場所へ顔を向けた。
「そうか」
母親は父の声を聞き、黙って次の言葉を待った。
「いてくれ」
父が言った。
母親は少しだけ泣きそうな顔をして、それを隠すように胸を張った。
「言われなくても、そのつもりよ」
「言われなくても、そのつもりだって」
俺が伝えると、父は笑った。




