第二十章 ただいま
第二十章 ただいま
小宮が逮捕されてから、三か月が過ぎた。
佑への殺人未遂については起訴された。
母親を殺害した件について、小宮は今も何も話していない。
警察は、車の記録や当時の塾関係者を調べ続けている。離婚届の筆跡鑑定も続いていた。
まだ、すべてが終わったわけではない。
それでも、俺たちの生活は少しずつ元へ戻っていた。
「ただいま」
大学から帰り、玄関のドアを開ける。
「おかえり」
母親の声が、リビングから聞こえた。
部屋へ入ると、掃除機が床の真ん中に転がっていた。
母親はその前に立ち、持ち手を両手で握ろうとしている。
透明な指は何度やっても持ち手をすり抜けた。
「何してんの」
「見たら分かるでしょ。掃除よ」
「全然できてないけど」
「今からできるの!」
母親は両手を擦り合わせた。
「幽霊だって、気合いを入れれば少しくらい物を持てるかもしれないじゃない」
「どこ情報だよ」
「私の勘」
「一番信用できないやつだな」
「うるさい。集中するから黙ってて」
母親は腰を落とし、両手を掃除機の持ち手へ添えた。
「ぬぬぬぬぬ……!」
掃除機は動かなかった。
母親の手だけが持ち手の中へ沈んでいく。
「何でよ!」
「幽霊だからだろ」
「幽霊差別よ」
「物理法則だよ」
母親は悔しそうに掃除機を睨んだ。
「掃除くらい手伝おうと思ったのに」
「その気持ちだけもらっとくよ」
「そう言われると、余計に腹が立つわね」
台所から、包丁の音が聞こえてきた。
父は学校へ復帰していた。
帰宅時間は以前より少し早くなった。
母親が戻ってきてから、父の料理の種類も少しだけ増えた。
正確には、母親が俺へ作り方を言い、俺が父へ伝えている。
「佑」
台所から父が呼んだ。
「母さんに、醤油はどれくらいか聞いてくれ」
「母ちゃん。醤油は?」
「大さじ二杯」
「大さじ二杯だって」
「砂糖は?」
「母ちゃん、砂糖」
「大さじ一杯。味を見て足して」
「一杯。味を見て足せって」
母親は掃除機を諦め、台所へ向かった。
父の隣から鍋を覗き込む。
「ちょっと、煮すぎじゃない?」
「母ちゃんが煮すぎだって」
「火を弱めたほうがいいか?」
「弱火にして」
「弱火」
父が火を弱める。
母親は満足そうに頷いた。
「そうそう。いい感じ」
「母ちゃんが褒めてる」
「それは、わざわざ伝えなくてもいい」
「何よ。褒めてるんだから素直に喜びなさいよ」
「今、怒ってる?」
「褒めたのに喜ばないって怒ってる」
「忙しいな」
父が笑った。
俺も笑った。
母親は不満そうだったが、口元は少し緩んでいた。
夕食は肉じゃがになった。
ジャガイモは少し崩れていたが、父が普段作るものよりずっと味が濃かった。
「おいしい」
俺が言うと、父は安心したように息を吐いた。
「母さんのおかげだな」
「まあね」
母親は得意げに胸を張った。
「まあね、だって」
「母さんは食べられないのが残念だな」
「味見はしたわよ」
「いつ?」
「煮込んでるとき」
俺は箸を止めた。
「魂、食ったの?」
「ちょっとだけよ」
「それで味が濃いのか」
「失礼ね。あなたのお父さんが醤油を入れすぎたのよ」
「母ちゃんは父さんのせいにしてる」
「そこまで報告するな」
父が苦笑した。
食事を終えると、父が食器を重ねた。
母親が勢いよく立ち上がる。
「洗い物? 私がやるわよ」
そのまま台所へ向かおうとしたので、俺は呼び止めた。
「皿、持てないだろうが」
母親が止まる。
自分の両手を見る。
「あ」
「掃除機も持てなかっただろ」
「お皿なら軽いから、いけるかもしれないじゃない」
「重さの問題じゃないんだよ」
「やってみないと分からないでしょ」
母親は父が持っている皿へ手を伸ばした。
指が皿をすり抜け、そのまま父の腕まで突き抜ける。
「ほら」
「今日は調子が悪いだけよ」
「幽霊に調子とかあるのか?」
「あるわよ、多分」
父が俺を見る。
「母さんは何をしてるんだ」
「洗い物を代わろうとしてる」
父は自分の横へ顔を向けた。
「ありがとう。でも、私がやるよ」
母親は父の声を聞き、少し寂しそうに自分の手を見た。
「何よ。せっかく私も家事しようと思ったのに」
「いるだけでいいって」
俺が言うと、母親は顔を上げた。
「そういうことを平気で言うようになったわね」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど」
母親は父の隣へ立った。
「じゃあ、私が見ててあげる」
「邪魔するなよ」
「見守るの!」
父が食器を洗い、母親がその隣で手順を確認する。
「そこ、まだ泡がついてる」
「父さん、泡が残ってるって」
「母さん、見守るだけじゃなかったのか」
「ちゃんと落とさないと駄目でしょ」
「やっぱり口は出すんだな」
俺が言うと、母親は当然のように頷いた。
「口しか出せないんだから、仕方ないじゃない」
洗い物が終わると、父が戸棚から煎餅の袋を取り出した。
小袋を一つ、母親の席の前へ置く。
父には母親のいる場所が見えていない。
それでも最近は、ほとんど間違えずに煎餅を置けるようになった。
「気が利くじゃない」
「気が利くって」
俺が伝えると、父は笑った。
「食べすぎるなよ」
「幽霊は太らないから大丈夫」
「幽霊は太らないって」
「そういう問題じゃない」
父の声は、母親へ直接聞こえている。
「細かいこと言わないの」
「細かいことを言うなって」
「それくらいは伝えなくても分かる」
「じゃあ、俺を通さず二人で会話してくれよ」
「それができたら苦労しないわよ」
母親は煎餅へ手を伸ばした。
透明な指が小袋をすり抜ける。
それでも母親が食べる真似をすると、袋の中の煎餅から味だけが消えた。
俺は袋を開け、一枚かじった。
「やっぱり味しない」
「勝手に食べるからでしょ」
「形は残るんだから、食べてもいいだろ」
「それ、私の食べかすみたいなものよ」
俺は口の中の煎餅を見た。
「先に言えよ!」
父が笑った。
「母さんは何て?」
「これは母ちゃんの食べかすだって」
父の笑い声が、さらに大きくなった。
「二人とも失礼ね」
母親は怒っていた。
でも、少し嬉しそうだった。
父が食器を片づけ、俺はソファへ座った。
母親も隣へ来る。
テレビでは、明日の天気予報が流れていた。
父は明日の朝も早い。
俺には一限目から講義がある。
何も特別なことのない夜だった。
「ねえ、佑」
母親が呼んだ。
「何?」
「私、あんたが危ないと思って戻ってきたのよね」
「多分」
「小宮からあんたを守ったら、消えかけた」
「うん」
「でも、まだここにいる」
母親は自分の両手を見た。
指の向こうに、もうソファの模様は透けていない。
「八年分、いるんだろ」
「そう思ってたんだけどね」
「違うのか?」
「分からない。ただ……」
母親は俺を見た。
それから、台所で布巾を干している父へ顔を向けた。
「私がまだここにいるってことは、また誰かが危ないんじゃない?」
「え?」
母親は、もう一度俺を見た。
「今度は、どっち?」




