第八章 三人分の夕食
母の遺骨が見つかったと知らされてから、父は学校を休んでいた。
校長からは、しばらく休んでいいと言われたらしい。
それでも父は、毎朝いつもどおりの時間に起きた。髭を剃り、シャツに着替え、学校へ行く支度をする。
そして最後になって、今日は行かなくていいのだと思い出したように、居間のソファへ座る。
テレビはついているが、見てはいない。
母はそんな父の周りをうろうろしていた。
「少しくらい寝坊すればいいのに」
「習慣なんだろ」
「真面目ねえ。昔からそうだったけど」
自分の遺骨が見つかったせいで父が休んでいるというのに、母はどこか他人事だった。
夕方、玄関の呼び鈴が鳴った。
父が立ち上がろうとしたので、俺が先に玄関へ向かった。
扉を開けると、小宮先生が立っていた。
「こんばんは、佑君」
淡い色のブラウスに紺色のスカート。肩までの髪はきれいに整えられ、化粧も薄い。
片手には学校名の入った封筒。もう片方には、食材の詰まった買い物袋を提げていた。
「父ならいます」
「急にごめんなさい。学校の書類を預かってきたの」
小宮先生は封筒を少し持ち上げてみせた。
俺の後ろから、母が顔を出す。
「あら、この人」
「知ってるのか」
「小宮先生でしょ。前にも家へ来たことがあるもの」
小声で尋ねたつもりだったが、小宮先生が首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ。どうぞ」
小宮先生を居間へ案内すると、父は慌てて立ち上がった。
「小宮先生。わざわざすみません」
「いいえ。ちょうど帰るところでしたから」
小宮先生は父へ封筒を差し出した。
「急ぎのものだけお持ちしました。こちらに目を通していただければ、あとは学校で対応できます」
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑だなんて。授業も皆で分担していますから、何も心配なさらないでください」
静かで、優しい声だった。
父を気遣いながらも、必要以上に同情するようなことは言わない。
小宮先生は、父が気を遣わなくて済む距離を心得ていた。
父が封筒を受け取ると、小宮先生は足元の買い物袋へ目を向けた。
「お二人とも、夕食はまだですよね?」
「ええ、まあ」
「簡単なものですけど、作りますね」
父が目を丸くした。
「いや、書類を届けていただいただけでも申し訳ないのに、そこまでしていただくわけには」
「帰りにスーパーへ寄りましたから。自分の分を作るのも、三人分作るのも、それほど変わりません」
「ですが」
「柏木先生、きちんと召し上がっていますか?」
父は答えなかった。
図星だったらしい。
「こんなときくらい、周りを頼ってください」
小宮先生は柔らかく笑い、買い物袋を持って台所へ向かった。
母もその後を追う。
「何よ。初めから夕飯を作る気満々じゃない」
「親切で来てくれたんだろ」
「書類を届けに来た人が、あんなに食材を買ってくる?」
「ついでに買ったって言ってたじゃないか」
「ついでにしては量が多いのよ」
小宮先生は慣れた様子で買ってきたものを調理台へ並べた。
肉、野菜、豆腐。それに調味料まで入っている。
母は買い物袋を覗き込み、腕を組んだ。
「ほら。完全に作る気で来てるじゃない」
「だから何だよ」
「いくら男所帯で大変だからって、ただの同僚が家に上がり込んで夕飯まで作る?」
「前にも差し入れを持ってきてくれただろ。父さんのことを心配してくれてるんだよ」
「そうかしらねえ」
小宮先生はブラウスの袖を折り、流しのそばに掛けてあったエプロンを手に取った。
母の眉が上がる。
「ちょっと。それ、私のなんだけど」
「今は誰も使ってないだろ」
「そういう問題じゃないのよ」
「じゃあ、どういう問題だよ」
「人のエプロンを勝手に使う神経の問題」
「本人には許可を取れないんだから仕方ないだろ」
「持ち主ならここにいるわよ」
「見えないし、聞こえないだろ」
小宮先生がこちらを振り返った。
「佑君、何か言った?」
「いえ。独り言です」
「お腹が空いてる?」
「少し」
「もうすぐできるから待っていてね」
大学生にもなって、子どものように言われた。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
小宮先生は手際よく食材を切り、鍋に火をかけた。
母はその隣に立ち、いちいち手元を覗き込んでいる。
「切り方が大きい」
「食べれば同じだろ」
「火の通りが違うのよ」
「聞こえないんだから黙ってろ」
「あ、今それ入れる? 早くない?」
「姑みたいなこと言うなよ」
「姑じゃありません。前の妻です」
「余計にたちが悪いだろ」
母は俺を睨んでから、鍋を覗き込んだ。
「前にも思ったけど、小宮先生の料理って味付けがしょっぱいのよねえ」
「まだ食べてもないだろ」
「匂いで分かるの」
「分かるわけないだろ」
「若いうちはいいけどね。こういう味付けを続けてたら、あの人、血圧高くなるわよ」
「小宮先生は、俺たちのために作ってくれてるんだぞ」
「はいはい。小宮先生は気が利いて、お料理も上手で、身なりもきれいな、よくできた女ですよ」
「何でそんな言い方になるんだよ」
「別に。褒めてるだけよ」
どう聞いても褒めてはいなかった。
八年間、父と俺を放っていたのは母のほうだ。
それなのに、ずっと父を気遣ってくれていた小宮先生へ、今さら文句を言う資格があるのか。
「親切でやってくれてるんだ。ケチつけるのやめろよ」
俺がそう言うと、母は口を閉じた。
小宮先生は料理をしながら、ときどき父へ話しかけた。
学校のこと。
担当している生徒たちのこと。
父が休んでいる間の授業のこと。
どれも父が心配しないよう、問題なく進んでいると伝えるための話だった。
料理が出来上がると、小宮先生は三人分の食事を食卓へ並べた。
「小宮先生も食べていくんですか」
「あら。私が作ったのに、私だけ帰るの?」
「いや、そういう意味じゃないです」
小宮先生が笑い、父も久しぶりに少しだけ笑った。
三人で食卓を囲む。
母は少し離れたところに座り、黙ってこちらを見ていた。
料理をしている間は、切り方が大きいだの、味付けが濃いだの、散々文句を言っていたくせに、食事が始まってからは何も言わない。
「うん。おいしい」
父が言った。
「本当ですか?」
「ええ。とても」
「よかった。佑君は?」
「おいしいです」
「しょっぱくない?」
一瞬、母のほうを見た。
「ちょうどいいです」
「ちょっと、何でこっち見るのよ」
母が小さな声で言った。
それきり、また黙る。
「何だよ。妙におとなしいじゃん」
「別に」
母はそう答えたが、いつものように口を尖らせることも、言い返すこともしなかった。
食卓を囲む俺たちを、珍しく神妙な顔で見つめている。
「佑君、大学はどう?」
小宮先生が尋ねた。
「普通です」
「普通って。もう少し何かあるでしょう」
「講義に出て、課題やって、たまにバイトして。それくらいです」
「大学生なんて、そんなものですよ」
父が言う。
「柏木先生は、大学時代も真面目だったんでしょうね」
「どうでしょう。自分では普通だったと思いますが」
「お父さんの普通は、普通じゃないのよ」
母が呟いた。
小宮先生は、学校であったことを父へ話した。
父が受け持っていた授業のこと。職員室のこと。生徒たちが父の不在を心配していたこと。
「二年の生徒が一人、最近、塾にも行けていないそうなんです」
小宮先生が言った。
母の顔が動いた。
「塾……」
ほんの小さな声だった。
父は気づかず、小宮先生へ尋ねた。
「何かあったんですか」
「保護者からは、いじめではないかと相談がありました。ただ、本人は何も話してくれなくて」
「いじめ……」
母がもう一度呟いた。
その顔から、さっきまでの軽い調子が消えていた。
「どうした?」
「え?」
「今、何か言っただろ」
「別に」
母は首を横に振った。
けれど、何かを思い出そうとするように眉を寄せている。
「学校へ戻ったら、私からも本人と話します」
父が言った。
「今は休んでいてください。その件はこちらで対応しますから」
小宮先生はそう言って、話題を変えた。
母はそのあとも静かだった。
楽しく話す父と小宮先生を見ているのか、それとも、もっと遠くにある何かを見ているのか、俺には分からなかった。
食事を終えると、小宮先生は食器を洗い、使った調理器具まできれいに片づけた。
「私がやります」
父が立ち上がろうとする。
「座っていてください。これくらい、すぐですから」
「本当に、何から何まですみません」
「いいんです。私がしたくてしていることですから」
小宮先生は流しの水滴まで拭き取り、エプロンを元の場所へ戻した。
母は黙ってそれを見ていた。
帰り支度を整えた小宮先生を、父と俺で玄関まで見送った。
小宮先生は靴を履きながら、何でもないことのように言った。
「今度は、もう少し多めに作りますね。冷凍しておけば、しばらく持つものもありますから」
「いえ、大丈夫です、小宮先生」
父は穏やかに答えた。
「家のことは、妻がいた頃から私もやっていましたから。これからは佑と二人で、何とかやっていきます」
小宮先生の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
靴を履き終えて顔を上げたときには、いつものきれいな笑顔に戻っていた。
「そうですか。では、何かあればいつでもおっしゃってくださいね」
「お気遣いありがとうございます」
「柏木先生も、佑君も、無理をしないでください」
小宮先生は丁寧に頭を下げた。
その手の中で、空になった買い物袋が強く握られていた。
*
家を出た小宮は、背筋を伸ばしたまま歩いた。
柏木家から姿が見えなくなる角まで来ると、一度だけ足を止める。
笑顔は消えていた。
「時間がないわね」
誰もいない道で、小宮は呟いた。
「急がなきゃ」




