第七章 探し方
第七章 探し方
事情聴取を終えた日の夕方、岡崎は八年前の捜索資料を机の上へ広げていた。
行方不明者届。
家族からの聴取記録。
近隣への聞き込み結果。
本人の写真、身体的特徴、失踪時の服装。親族や友人の連絡先。通院歴や、よく利用していた店。
紙の端は変色し、何度もめくられた跡が残っている。
当時の警察も、何もしなかったわけではない。
夫は、妻が帰ってこなかった翌朝に行方不明者届を出している。
前日の午後十時頃、妻は「買い物へ行ってくる」と言って家を出た。財布と携帯電話は持っていたが、着替えや通帳は残されていた。
捜査員は、夫と当時十二歳だった息子から事情を聞いた。
自宅からコンビニまでの道を歩き、周辺住民へ写真を見せた。
親族、友人、病院、事故の記録、身元不明者の情報にも当たっている。
銀行口座やカードが使われた形跡はなく、携帯電話も失踪した夜からつながらなくなっていた。
当時残っていた防犯カメラにも、本人らしい姿は確認されていない。
家の中に争った形跡はなかった。
夫婦喧嘩はあった。
だが、それだけだった。
女性が誰かに襲われたことを示す物は、何一つ出ていない。
成人女性が、自分の財布と携帯電話を持って外出したまま戻らない。
事件や事故の可能性は捨てられない。同時に、自分の意思で家を出た可能性も否定できなかった。
岡崎は一枚ずつ、古い記録を読み進めた。
二年後、捜索資料に新たな書類が加えられている。
夫のもとへ郵送された離婚届。
署名は妻の筆跡とよく似ていた。
消印は県外。
差出人につながる情報は得られなかった。
当時の記録には、こう記されている。
――本人が自発的に所在を明らかにせず、家族との連絡を断っている可能性が高まった。
その一文以降、記録の枚数は急に減っていた。
警察が捜索をやめたわけではない。
ただ、探し方が変わった。
犯罪に巻き込まれたかもしれない女性ではなく、自ら家族を捨てた女性として扱われるようになった。
岡崎は離婚届の写しを取り出した。
妻の署名。
よく似せて書かれた偽物なのか。
それとも、本人が何らかの理由で書いたものなのか。
筆跡鑑定の結果は、まだ出ていない。
岡崎は写しを机へ戻し、現在の司法解剖報告書を開いた。
遺体は白骨化していた。
死亡時期は、失踪した八年前と大きく矛盾しない。
頭蓋骨や肋骨、手足の骨に、交通事故や高所からの転落を疑わせるような大きな損傷は確認されていない。
ただし、舌骨の片側に骨折があった。
死亡前後に、首へ強い圧迫を受けた可能性があるという。
遺体は山中へ埋められていた。
携帯電話も財布も鞄も見つかっていない。
八年前の警察は、消えた女性を探した。
今度は、女性を消した人間を探さなければならない。
岡崎は古い聞き込み記録を読み直した。
当時の質問は、女性を見なかったか、一人で歩いていなかったか、どこかへ行くという話を聞いていなかったか、というものだった。
だが今、聞くべきことは違う。
女性のそばに誰かいなかったか。
道路に停車していた車はなかったか。
誰かと待ち合わせているように見えなかったか。
同じ場所を調べても、探すものが違えば、見える景色も変わる。
「まだ残ってたんですか」
声をかけられ、岡崎は顔を上げた。
野上が立っていた。
黒いスーツの上着を脱ぎ、片腕にかけている。事情聴取の時から、表情は固いままだった。
「お前こそ、聞き込みは終わったのか」
「今日の分は」
野上は手にしていたファイルを机へ置いた。
「目撃者は見つかりませんでした」
「そうか」
「それだけですか?」
「ほかに何か言ってほしいのか」
野上は返事をしなかった。
自宅からコンビニまでの道。
失踪した女性の写真を見せ、事件当時から住んでいる人間を一軒ずつ訪ねた。
だが、八年前の夜に見た人間の姿を覚えている者はいなかった。
派手な服装は目を引く。
それでも、時間は午後十時を過ぎていた。人通りは少なく、八年という年月は長すぎた。
野上は岡崎の机に広げられた資料へ目を向けた。
「昔の捜索資料ですか」
「ああ」
「何かありました?」
「今のところは」
岡崎は司法解剖報告書へ手を伸ばした。
野上の視線も、その動きを追う。
「解剖結果が出たんですね」
「舌骨が折れていた。死亡する前後に首を圧迫された可能性がある」
「絞殺ですか」
「可能性はある。断定はできん」
野上は少し考えてから言った。
「舌骨が折れるほどの力で首を圧迫したなら、犯人は男ではありませんか」
「なぜそう思う」
「相当な腕力が必要です」
「素手ならな」
岡崎は報告書を野上の前へ置いた。
「紐や帯のような物を使ったかもしれん。後ろから体重をかけた可能性もある。被害者が眠っていた、酔っていた、薬を飲まされていた可能性も捨てられない」
「ですが、男性の可能性が高いことに変わりは――」
「性別は分からん」
岡崎は野上の言葉を遮った。
「分からないものを、分かったことにするな」
「私は可能性を言っているだけです」
「夫を犯人だと決めてから、都合のいい可能性を拾っているように見える」
野上の顔が強張った。
「夫にはアリバイがありません。失踪直前に口論もしている。最も疑うべき人物です」
「調べるべき人物だ。犯人ではない」
「同じことです」
「違う」
岡崎の声は静かだった。
「犯人だと思って調べれば、犯人に見える材料ばかり集める。違う材料が出ても、都合よく見落とすようになる」
「私は見落としていません」
「今日、息子に何と言った」
野上は答えなかった。
「夫に夜間のアリバイがない。最後に口論した相手だ。そこまでは事実だ」
岡崎は、野上が抱えていたノートパソコンを指した。
「だが、お前は証拠をつかめていないと、参考人の前で自分から明かした。夫を追い詰めることに夢中になって、何を話していい相手かも分からなくなった」
「それは……」
「男でも同じだ」
岡崎は野上をまっすぐ見た。
「お前が、自分を女だから認めてもらえないと思っているうちは、一人前の刑事にはなれん」
野上の目が揺れた。
「私が女で苦労してきたことを、岡崎さんに分かるんですか」
「分からん」
岡崎は即答した。
「だが、今のお前に事情聴取を任せられない理由は分かる」
野上が唇を噛む。
彼女には、岡崎が何も教える気のない人間に見えていた。
長年勤め、刑事としての情熱を失った男。
面倒なことや危険なことは若い刑事へ押しつけ、自分は安全な署内で古い書類を眺めている。定年まで大きな失敗をせず、そのあとは気楽な年金生活。
野上の目に映る岡崎は、そんな刑事だった。
「私は、早く事件を解決したいだけです」
「俺もだ」
「そうは見えません」
「そうか」
岡崎は否定しなかった。
その態度が、野上をさらに苛立たせた。
「では、私は聞き込みへ戻ります」
「もう夜だぞ」
「だからです」
野上は上着をつかんだ。
「被害者が家を出たのは、午後十時頃でした。昼間とは、道を歩いている人も、開いている店も違います」
岡崎は何も言わなかった。
「目撃者を探してきます」
「八年前だぞ」
「分かっています」
野上は捜査室を出ていった。
扉が閉まる。
近くの机にいた刑事が、呆れたように岡崎を見る。
「止めなくていいんですか」
「聞くと思うか?」
「思いませんね」
岡崎は古い捜索資料へ視線を戻した。
焦りは刑事の目を曇らせる。
だが、誰も覚えていない八年前の夜を、それでも歩き回れる人間も必要だった。
◇
午後十時を過ぎても、野上は住宅街を歩いていた。
被害者の自宅から、買い物へ向かったとされるコンビニまでの道。
事件当時から残っている家を一軒ずつ訪ね、八年前とは違う質問を繰り返す。
派手な服を着た女性のそばに、誰かいなかったか。
道路脇に止まっていた車はなかったか。
誰かと待ち合わせているようには見えなかったか。
返ってくる答えは、どれも同じだった。
覚えていない。
知らない。
見ていない。
当然だった。
八年前の、何でもない夜だったのだ。
その夜に人が一人消えたことを、当時は誰も知らなかった。
野上はコンビニの前で立ち止まった。
八年前の捜査員も、この場所に立ったはずだ。
だが彼らが探したのは、買い物へ向かった女性の姿だった。
野上が今探しているのは、その女性を途中で連れ去った人間だ。
同じ道でも、探しているものは違う。
野上は周囲を見回した。
街灯の光が届かない場所に、細い脇道があった。
その先には、古い住宅が並んでいる。
野上は上着を着直し、脇道へ入った。




