第五章 遺影
第五章 遺影
母の遺骨が戻ってくるまで、もう少し時間がかかるらしい。
警察の調べが終わり次第、父へ引き渡される。それまでに葬儀の準備を進めておく必要があると、父から聞いた。
母がいなくなって八年。親戚づきあいもほとんど途絶えているため、葬儀は父と俺だけで行うという。
その日の夜、父は居間のテーブルに何冊ものアルバムを積み上げた。
「何するの?」
母が、父の手元をのぞき込む。
「遺影を選ぶんだろ」
俺が答えると、母は一瞬考えてから「あ、私のか」と言った。
忘れるな。
母は父の隣へ座った。正確には、ソファの座面へ尻を少し沈ませながら、座っている格好をした。
父が最初のアルバムを開く。
若い頃の母の写真が、何枚も並んでいた。
茶色い長髪に、細い眉。派手な化粧と、派手な服。どの写真でも、母はカメラへ向かって堂々と笑っている。
父が、花畑の前に立つ母の写真を指さした。
「これはどうだろう」
「駄目」
母は即答した。
俺が理由を尋ねると、「顔が丸い」と返ってきた。
父には母の声が聞こえない。写真をアルバムから外そうとしたため、俺は慌てて止めた。
「父さん。それはやめたほうがいい」
「なぜ?」
「母さんが嫌がりそうだから」
父はもう一度写真を見た。しばらく考えたあと、納得したように元の場所へ戻す。
「確かに、これは嫌がるかもしれないな」
母は満足そうに頷いた。
それからしばらく、父の選んだ写真を母が却下し続けた。
顔が丸い。髪の根元が黒い。目をつぶりかけている。化粧が薄い。笑い方が嘘っぽい。
虎柄のコートを着て、ピースをしている写真だけは母も気に入ったが、今度は俺が却下した。
「どうしてよ。私らしいじゃない」
「遺影の圧が強すぎる」
「死んだ途端、地味にしなくてもいいでしょ」
母が抗議している間にも、父は静かにアルバムをめくっていた。
俺にしか聞こえない母の文句を知らないはずなのに、不思議と母が本当に嫌がる写真は選ばなかった。
「お父さん、私の好みを分かってるじゃない」
母が嬉しそうに言った。
「一緒に暮らしてたんだから、当たり前だろ」
俺が答えると、父が顔を上げた。
「佑。さっきから誰と話しているんだ?」
しまった。
「独り言」
「ずいぶん長い独り言だな」
父の視線が痛い。
母は隣で笑っている。
「写真を見てたら、いろいろ思い出して」
そう答えると、父は「そうか」とだけ言い、またアルバムへ視線を戻した。
次のページには、小学校へ入学した頃の俺がいた。
真新しいランドセルを背負い、父と母に両側から手をつながれている。
「佑ちゃん、小さーい」
母が身を乗り出す。
ランドセルが歩いているみたいだ、前歯が抜けている、と母が騒ぐのを俺は無視した。
写真の中の父は若かった。今も年齢のわりには整った顔をしているが、髪には白いものが増え、目元には深いしわが刻まれている。
次のページから、母の姿はなくなった。
中学校の入学式。
高校の卒業式。
写っているのは、俺と父だけだった。
母は急に静かになった。
それでも中学時代の俺を見て、制服が似合っていないだの、髪が短すぎるだのと言う。いつもの軽い調子だったが、声は少しだけ小さかった。
「大学の入学式は?」
母に聞かれ、俺は行っていないと答えた。
父は仕事だった。写真も撮っていない。
「節目なんだから、一人でも撮りなさいよ」
母がそう言った。
俺は返事をしなかった。
母も、それ以上は何も言わなかった。
父が別のアルバムを開く。
結婚前の二人が写っていた。
教師だった父の腕へ、卒業したばかりの母がしがみついている。父は困ったような顔をしていたが、母は満面の笑みだった。
「私、若いわねえ」
母は懐かしそうに写真を見た。
「この頃、父さんを追いかけ回してたんだろ」
「私から?」
「そう聞いてる」
母は写真の中の父を眺め、「見る目あるじゃない」と満足そうに頷いた。
父はその写真を一瞬だけ見つめ、何も言わずにページをめくった。
最後のページに、写真が一枚だけ挟まっていた。
母がこちらを振り返って笑っている。
化粧も服も、いつもどおり派手だった。
けれど、カメラへ向けて作った笑顔ではない。誰かに呼ばれ、振り返った瞬間に撮られたのだろう。
髪が風に乱れ、目尻にしわを寄せ、口を開けて笑っていた。
父の手が止まった。
「これにしよう」
父は写真を取り出した。
「どこで撮ったんだ?」
俺が尋ねると、父は覚えていないと答えた。
「呼んだら、振り返ったんだ」
それだけ言って、写真の端を親指で撫でる。
母は父の横から写真をのぞき込んでいた。
「これでいい?」
俺が母へ尋ねる。
父には、写真について意見を聞かれたように見えただろう。
母は素直に頷いた。
「うん。これがいい」
そして、写真の中の自分を見て笑った。
「かわいいでしょ」
「結局、それは言うんだな」
父が不思議そうに俺を見る。
「何でもない」
母はもう一度、写真へ顔を近づけた。
「何だか、すごく楽しそう」
「父さんが撮ったからじゃないか」
俺が小声で言うと、母は父を見た。
しばらくして、静かに呟く。
「私、お父さんのこと好きだったのね」
「それも忘れたのか」
「好きだったことは分かるの。でも、どんなふうに好きだったのか、うまく出てこないのよ」
母は写真の中の笑顔を見つめた。
「だけど、この顔を見たら分かるわ」
父が写真を持って席を立った。
「葬儀社へ連絡してくる」
居間から出ていく父の背中を、母は黙って見送った。
少しして、いつもの調子に戻る。
「ねえ、佑。お棺には好きな物を入れてもらえるの?」
「たぶん」
「じゃあ、虎柄のコートとラメのバッグを入れて」
「残ってたらな」
「口紅も。あと、お煎餅」
「はいはい」
「約束よ」
母は満足そうに笑った。
自分の葬儀の準備をしているとは思えないほど、いつもどおりの顔だった。
その夜、居間を通りかかると、母が一人でアルバムを見つめていた。
自分の写真が途切れたあとも続いていく、父と俺の八年間。
母は何も言わず、ページに触れようともせず、ただ黙って見ていた。
俺は声をかけず、自分の部屋へ戻った。




