第四章 母ちゃんがついてくる
第四章 母ちゃんがついてくる
翌朝、目を覚ますと、母が俺の机の前にいた。
椅子へ座ったつもりなのだろうが、腰から下が座面を突き抜け、空中で中途半端に止まっている。
本人は気づかず、机に置いてあった俺のスマートフォンをのぞき込んでいた。
「勝手に見るな」
「あら、起きた」
「何見てたんだよ」
「何も見えないわよ。真っ黒だもの」
「電源入ってないからな」
「どうやってつけるの?」
「教えるわけないだろ」
「彼女との写真とか入ってる?」
「いないって言っただろ」
「八年もあったのに、一人も?」
「朝から喧嘩売ってんのか」
母が椅子から立ち上がる。
いや、浮き上がると言ったほうが正しい。
「今日、大学は?」
「ある」
「じゃあ、私はお父さんと留守番してるわ」
「好きにしろ」
父は今日も学校を休み、警察署へ行くことになっていた。
母の遺体が見つかった場所や、今後の捜査について、改めて詳しい説明を受けるらしい。
母が父のそばにいたところで、父には見えないし、声も届かない。
それでも、八年ぶりなのだ。
同じ家で留守番くらいしたいのだろう。
「お父さん、朝ご飯食べた?」
「食べてた」
「何を?」
「トースト」
「それだけ?」
「コーヒーも」
「野菜は?」
「俺に言うな」
「相変わらず放っておくと適当なんだから」
「あんたが放っておいたんだろ」
母が口を閉じた。
朝から空気を悪くした。
悪いとは思ったが、謝る気にはなれなかった。
「行ってくる」
鞄を持ち、部屋を出る。
母はその場に残っていた。
一階へ降りると、父はもう出かけたあとだった。
玄関で靴を履き、外へ出る。
門を抜けて、角を曲がった。
その時、背後から母の悲鳴が聞こえた。
「ちょ、ちょっと、佑!」
振り返る。
母がものすごい勢いで、家の壁から飛び出してきた。
いや、飛び出したというより、引きずり出された。
上半身から壁を突き抜け、最後に脚が抜ける。勢いを止められず、道路を滑るように俺のところまで飛んできた。
「何してんだよ」
「私が聞きたいわよ!」
母は乱れた髪を整えながら、家を指さした。
「急に身体が引っ張られて、壁を突き抜けたの!」
「壁抜けできたじゃないか」
「今のは自分でやったんじゃないわよ!」
「でも無事だろ」
「怖かったの! 心の準備ってものがあるでしょ!」
「幽霊が壁を抜けるのに、何の準備がいるんだよ」
母は文句を言いながら家へ戻ろうとした。
十歩ほど進んだところで、動きが止まる。
「何よ、これ」
母の身体が、見えない綱で引かれたように後ろへのけぞった。
踏ん張ろうとしているが、足が少しずつ俺のほうへ滑ってくる。
「ちょっと佑、そっち行かないで!」
「俺、動いてないぞ」
「引っ張られる!」
母は道路へ爪を立てようとした。当然、半透明の指はアスファルトをすり抜ける。
「ああもう、止まらない!」
そのまま俺のところまで戻ってきた。
「どういうこと?」
「俺から離れられないんじゃないか」
「どうして?」
「知らない」
「お父さんと留守番するつもりだったのに」
「父さん、もう出かけたぞ」
「じゃあ、帰ってくるまで家で待つ」
「無理みたいだな」
「嫌よ。大学なんて行ったことないもの」
「俺だって幽霊連れて行ったことないよ」
試しに俺が数歩、家から離れてみる。
母も嫌そうな顔で、同じだけ引っ張られた。
「本当についてくるのかよ」
「私が好きでついていくみたいに言わないで」
「昨日、俺の部屋に出たんだから、あんたのせいだろ」
「佑が呼んだんじゃない?」
「呼んでない」
「心の中で、お母さんに会いたいって」
「一度も思ってない」
「またまたあ」
「だったら、あの世に帰れよ」
「道が分かったら帰るわよ!」
近所の家から出てきた女性が、怪訝そうに俺を見た。
朝の住宅街で、一人で大声を出している大学生。
どう見ても危ない。
俺は母を無視して駅へ向かった。
「ちょっと、歩くの速い!」
「勝手についてくるんだろ」
「八年ぶりの母親に、もう少し優しくできないの?」
「あんたが消えた時、俺は十二歳だったんだぞ。今の歩幅についてこい」
「そういうところ、お父さんに似たわねえ。口では文句言いながら、絶対に待ってくれないの」
「父さんはもっと優しい」
「そうね。顔もお父さんのほうが格好いいし」
「そこは否定しろよ!」
◇
母は初めて見るものでもないのに、電車の中で落ち着きがなかった。
吊り広告を読み、乗客のスマートフォンをのぞき込み、若い女性の服を見ては首を傾げる。
「みんな地味ねえ」
「声がでかい」
「聞こえないんでしょ?」
「俺には聞こえる」
「あの子のスカート、かわいい」
「人の服をじろじろ見るな」
「佑は、ああいう子が好き?」
「黙ってろ」
「こっちの子?」
「黙れ」
「年上は?」
「頼むから黙ってくれ」
正面に座っていた会社員が、ゆっくり俺から目を逸らした。
大学へ着いても、母はついてきた。
講義中は教室の後ろをうろうろし、教授の板書を眺め、十分もしないうちに俺の隣へ戻ってくる。
「何の話してるか、全然分からない」
「俺も分からない」
「授業料もったいないじゃない」
「ほっとけ」
「ねえ、あの子、さっきから佑のこと見てるわよ」
「見てない」
「目が合ったもの」
「それ、あんたとだろ」
「私のことは見えないんでしょ?」
「じゃあ、後ろでふらふらするな。俺を見てると思われる」
前の席の学生が振り返った。
俺は口を閉じる。
母は楽しそうに笑っていた。
昼休み、食堂へ向かう。
母は並んだ料理を見て目を輝かせた。
「今の大学って、こんなにいろいろあるのねえ」
「触るなよ」
「味見だけ」
「人の昼飯から魂抜くな」
「魂を抜いたら、味がなくなるのかしら」
「知らない。試すな」
母が近くの学生のカレーへ手を伸ばす。
俺は反射的に、その前へ立ちはだかった。
「やめろ」
「ちょっとくらいいいじゃない」
「それでカレーが味しなくなったら、あの人がかわいそうだろ」
「じゃあ佑のをちょうだい」
「嫌だ」
「減らないわよ」
「魂抜かれた飯なんか食えるか」
結局、俺はカレーを母から守りながら食べた。
「一口くらい」
「駄目」
「けち」
「死者にたかられる大学生の身にもなれ」
◇
講義が終わると、母が言った。
「ねえ。帰りに、あのコンビニへ行かない?」
「あのコンビニ?」
「私が買い物へ行くって言って、出ていったんでしょ」
「何も覚えてないんじゃなかったのか」
「お父さんが言ってたじゃない。行ってみたら思い出すかもしれないでしょ」
正直、気は進まなかった。
けれど警察が帰ったあとから、俺もずっと考えていた。
夜の十時に、母は何を買おうとしていたのか。
本当に買い物だったのか。
八年前、母が向かったはずのコンビニは、自宅から歩いて十分ほどの場所にあった。
今も同じ場所で営業している。
自動ドアを抜けると、母が店内を見回した。
「どうだ」
「きれいになった?」
「改装したからな」
「じゃあ、分からないわよ」
「何か思い出さないか」
「おでん、おいしそう」
「真面目にやれ」
「真面目よ。おでんの魂も食べられるのかなと思って」
「鍋に手を突っ込むなよ」
母は弁当売り場、飲み物の棚、菓子売り場を順番に見て回った。
俺もあとを追う。
店員は何度かこちらを見た。
買い物もせず、店内をぐるぐる歩きながら独り言を言っているのだから当然だ。
「何か買うつもりだったんだろ」
「たぶん」
「いつも夜に何を買ってた」
「甘いもの?」
「父さんも言ってたな」
「プリンとか」
「ほかには?」
「アイス?」
「全部甘いものじゃねえか」
「疲れてたのよ、きっと」
母は冷蔵棚の前で腕を組んだ。
しばらく考えていたが、やがてあっさり首を振る。
「駄目。何にも出てこない」
「役に立たないな」
「八年前の買い物なんて、生きてたって覚えてないわよ」
「最後の買い物だぞ」
「最後になるって知ってたら、もう少し豪華なもの買うわよ」
「そういう話じゃない」
仕方なくプリンを二つ買い、店を出た。
母が袋をのぞき込む。
「二つ?」
「父さんの分」
「私のは?」
「食えるか分からないだろ」
「煎餅は食べられた」
「じゃあ、その魂でも抜けば」
「本当にいいの?」
「……父さんに味見させてからな」
「毒見みたいに言わないでよ」
夕方の道を、二人で家へ向かう。
結局、何の手がかりも得られなかった。
それでも母は、どこか楽しそうだった。
「ねえ、佑」
「何だよ」
「私があんたから離れられないのって、やっぱり意味があるのかしら」
「さあな」
「八年ぶりだから?」
「そっちが子離れできてないだけじゃないか」
「あら。八年分なら仕方ないわね」
「一気に取り戻そうとするな」
「大学も見られたし、帰り道も歩けたし。今日は結構よかったわ」
「俺は最悪だった」
「明日は友達も紹介してね」
「連れていかない」
「勝手についていくわよ」
「勘弁してくれ」
母が声を立てて笑う。
その姿は半透明で、道を歩く人たちは誰も振り返らない。
八年前、母は同じ道を夜に出ていった。
けれど、コンビニにはたどり着かなかったのかもしれない。
なぜなら母には、店へ来た記憶だけでなく、買おうとした物の記憶さえなかった。
そして今、母は家ではなく、俺につながれている。
その理由を、この時の俺はまだ考えようともしなかった。




