第三章 親切な先生
第三章 親切な先生
二人の刑事が帰ったあと、父はしばらく居間のソファから動かなかった。
俺は何となくそこにいづらくなり、二階へ戻った。
母も当然のようについてくる。
「何でついてくるんだよ」
「だって、あなたにしか私が見えないんでしょ」
「だから?」
「一人にされたら、独り言を言ってるただの幽霊になっちゃうじゃない」
「今も似たようなもんだろ」
「失礼ね。会話のできる幽霊よ」
俺が部屋へ入ると、母も続いて入ろうとした。
ところが半透明の肩が閉まりかけたドアに引っかかり、母の身体が途中で止まった。
「ちょっと、待って。挟まった」
「通り抜けろよ」
「怖いのよ」
「幽霊が何を怖がってるんだ」
「身体が半分になったらどうするの?」
「もう半分透けてるだろ」
仕方なくドアを開け直すと、母は何事もなかったような顔で入ってきた。
「それで?」
母がベッドへ腰を下ろす。
身体が半分ほど布団へ沈み、慌てて立ち上がった。
「何だよ」
「さっき、お父さんに嘘ついたでしょ」
「何のことだ」
「私たちが喧嘩してたの、覚えてるんじゃない?」
母はこういうところだけ妙に鋭い。
「少しだけだ」
「何て言ってた?」
「覚えてない」
「嘘」
「本当に覚えてないんだよ。声が聞こえただけだ」
――今さら。
――佑のためには。
頭に残っているのは、その二つだけ。
けれど、それを母に教える気にはなれなかった。
警察にも、父にも言えなかった。
あの夜の喧嘩が母の失踪と関係していたら、父が疑われるかもしれない。
「父さんがあんたを殺すわけない」
母が目を丸くした。
「誰もそんなこと言ってないじゃない」
「警察は疑ってた」
「そりゃ疑うわよ。最後に一緒にいた夫なんだから」
「あんたは平気なのかよ」
「何が?」
「父さんが疑われてるんだぞ」
母は少し考えた。
「でも、お父さんはやってないんでしょ?」
「当たり前だ」
「じゃあ大丈夫よ。調べたら分かるもの」
「簡単に言うな」
「難しく言っても同じでしょ」
母はあっさり答えた。
八年前と何も変わらない。
深く考えているのか、何も考えていないのか、そばにいる人間には分からない。
「それより、私のこと教えてよ」
「嫌だ」
「何で?」
「あんたの話なんかしたくない」
「私が聞きたいのは、私の話じゃなくて、あんたの話」
母が俺を見る。
「八年分もあるのよ。小学校を卒業して、中学に行って、高校に行って、大学生になったんでしょ?」
「そうだけど」
「部活は? 彼女は? 受験は大変だった? お父さんと二人で、どうやって暮らしてたの?」
「一度に聞くな」
「じゃあ、彼女から」
「何でそこからなんだよ」
「いるの?」
「いない」
「あら」
「その残念そうな顔やめろ」
「顔はお父さんに似たのにねえ」
「余計なお世話だ」
母が笑った。
その笑い方も、昔と同じだった。
腹が立つ。
八年間いなかったくせに、昨日までずっと一緒に暮らしていたような顔で話しかけてくる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
階下で父が応対する声が聞こえる。
続いて、女の声がした。
「あら。お客さん?」
母がドアへ近づく。
「壁から顔を出せば見えるんじゃない?」
「嫌よ、そんな怖いこと」
「幽霊らしいこと何もできないな」
「普通に見に行けばいいじゃない」
母はドアを開けようとして、取っ手をつかめずに何度も手をすり抜けさせた。
「佑、開けて」
「面倒くさい幽霊だな」
階段を降りると、玄関に見覚えのある女性が立っていた。
肩の辺りで切り揃えた黒髪。淡い色のブラウスに、膝丈のスカート。両手に大きな紙袋を提げている。
「小宮先生」
「久しぶりね、佑君」
小宮先生は柔らかく笑った。
俺が小学五年生の時から通っていた塾で、国語を教わった先生だ。
その後、塾を辞めて教員になり、今は父と同じ私立高校に勤めている。
「学校で、お母さまのことを聞いたの」
小宮先生の表情が曇る。
「何と言ったらいいか……。本当に残念です」
「ありがとうございます」
父が頭を下げた。
「何か食べられるものをと思って。作りすぎただけだから、気にしないで」
「いつも申し訳ありません」
「こういう時くらい、頼ってください」
小宮先生は家へ上がり、慣れた様子で台所へ向かった。
母が俺の隣へ並ぶ。
「あの人、誰?」
「今、聞いてただろ。小宮先生。俺が昔通ってた塾の先生で、今は父さんの同僚」
「へえ」
母は小宮先生の後ろ姿を眺めた。
「きれいな人ね」
「そうか?」
「派手さはないけど、品があるわ。料理もするのねえ」
「よく持ってきてくれる」
「よく?」
「父さんが体調を崩した時とか、仕事が忙しい時とか」
「ふうん」
母は台所へ移動し、小宮先生が保存容器を並べる様子をのぞき込んだ。
「煮物に、炊き込みご飯に、きんぴら。地味ねえ」
「お前が派手すぎるんだよ」
小宮先生が振り返る。
「何か言った?」
「いえ。独り言です」
「佑君、昔から独り言なんて言ったかしら」
「最近の趣味です」
「変わった趣味ね」
小宮先生は笑った。
母が保存容器へ顔を近づける。
「ちょっと味見してみようかしら」
「やめろ」
「減らないんだからいいじゃない」
母が煮物へ手を伸ばす。
指先で大根に触れると、実物から半透明の大根がするりと抜け出した。
母が一口かじる。
「あ、おいしい」
「食えるのかよ」
「少し味が濃いけど、ご飯には合いそう」
「佑君?」
小宮先生が俺を見る。
「今度は何?」
「何でもないです」
「さっきから本当に変ね。大丈夫?」
小宮先生が俺の額へ手を伸ばす。
その手より先に、母の手が動いた。
母は小宮先生の手を払いのけようとした。
当然、触れることはできない。
二人の手が重なるようにすり抜ける。
小宮先生がわずかに指を止めた。
「……寒い」
「え?」
「今、急に冷たい風が」
「玄関が開いてるからじゃないですか」
「そうね」
小宮先生は手を引っ込めた。
母は自分の手を見つめている。
「どうした」
「別に」
「今、何で止めたんだよ」
「分かんない。何となく」
「何だそれ」
「大事な息子に、女の人が急に触ろうとしたからじゃない?」
「小学生じゃねえんだぞ」
「私の中では小学生なのよ」
母は笑った。
特に気にしている様子はない。
小宮先生も、すぐにいつもの表情へ戻っていた。
「先生」
父が居間から声をかけた。
「本当にありがとうございます。ただ、これ以上はお気遣いなく」
「こんな時まで遠慮しないでください」
「いえ。十分助けていただきましたから」
「でも、お二人だけでは何かと大変でしょう」
「佑も、もう大学生です。家のことは二人でできます」
小宮先生は一瞬だけ黙った。
すぐに微笑む。
「そうですね。佑君も、もう大人ですものね」
その目が俺へ向けられた。
「大学はどう? 楽しい?」
「まあ、それなりに」
「帰りは遅いの?」
「日によります」
「サークルもあるものね」
「入ってませんけど」
「あら、そうだったの」
昔の教え子との何げない会話。
その時の俺には、それ以上の意味などないように思えた。
小宮先生は三十分ほどで帰っていった。
父と二人で玄関まで見送る。
「いい人ねえ」
母が俺の隣で言った。
「昔から、ああやって父さんと俺を助けてくれた」
「私がいなかったから?」
「そうだよ」
「そっか」
母は閉じた玄関のドアを見つめた。
「じゃあ、ちゃんとお礼言わなきゃね」
「向こうには聞こえないけどな」
「お父さん、あの人と一緒になればよかったのに」
思わず母を見る。
「あんた、何言ってんだ」
「だって、きれいで料理も上手で、お父さんのことも分かってるんでしょ?」
「父さんは、ずっとあんたを待ってたんだよ」
「でも私は死んでるのよ」
「あんたがそれ言うな」
「死んだ妻がいつまでも縛るのは、よくないじゃない」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
答えられなかった。
小宮先生は親切な人だ。
母がいなくなったあと、壊れかけた父を支え、何もできなかった俺を助けてくれた。
もし父が小宮先生を選んだとしても、俺に反対する理由はない。
それでも、母の口から言われると腹が立った。
「戻るぞ」
「どこに?」
「二階」
「ねえ。さっきの話の続きしてよ。彼女はいないとして、好きな子は?」
「しつこい」
「大学にきれいな子いないの?」
「知らない」
「ちゃんと周り見なさいよ。お父さんなんて昔から、女の人に言い寄られても全然気づかないんだから」
「その息子だから仕方ないだろ」
「あら、顔がお父さん似なのは認めるのね」
「うるさい」
母は楽しそうについてくる。
八年間も放っておいた息子の恋愛事情を、当然のように聞き出そうとしている。
階段の途中で、母が振り返った。
「そういえば、あの人」
「小宮先生?」
「私、生きてた頃にも会ったことある?」
「知らない。俺の塾の先生だったんだから、面談か何かで会ってるんじゃないか」
「そうよねえ」
「思い出したのか?」
「ううん。全然」
母はあっけらかんと答えた。
「でも、いい人ならいいわ」
そう言って、また階段を上り始める。
俺も、その時は何も疑わなかった。
小宮先生は、昔から俺たち親子を助けてくれた、親切な人だった。




