第二章 離婚届
警察が来たのは、父から母の死を聞かされて一時間ほどたった頃だった。
やって来たのは二人。
一人は五十代くらいの男で、いかにも刑事らしいくたびれた灰色のスーツを着ていた。もう一人は三十代くらいの女で、黒いジャケットに髪を一つに束ねている。
二人が玄関で警察手帳を見せると、父は居間へ案内した。
母も当然のようについてきた。
「ちょっと、佑」
「何だよ」
「あの女の人、きれいねえ」
「今それ言う?」
「男の人は普通」
灰色のスーツの刑事が、俺を見た。
「何か?」
「……何でもありません」
母は俺にしか見えない。
分かってはいるが、この女がいると、つい普段どおりに返事をしてしまう。
二人の刑事は、先ほど父が座っていたソファへ並んで腰を下ろした。
母は迷わず、女刑事の隣に座る。
「近いんじゃないか」
「だって、ここしか空いてないもの」
空いている。
母の身体ごと、何の問題もなく空いている。
女刑事が一瞬だけ身震いをした。
「寒いですか」
父が尋ねる。
「いえ。少し冷えただけです」
「この人、私の上に座りかけたのよ。失礼しちゃう」
「見えてないんだから仕方ないだろ」
「佑?」
父が俺を見る。
「何でもない」
「先ほどから、誰と話しているんですか」
灰色のスーツの刑事が尋ねた。
「独り言です」
「ずいぶん会話らしい独り言ですね」
「考えを整理する癖があるんです」
「そうですか」
刑事は納得していない顔で手帳を開いた。
俺は母を睨み、口元へ指を当てた。
母も真似をして、自分の口元へ人差し指を立てる。
黙っていろ、という意味でやったのだが、母には伝わっていないらしい。
「柏木さん、先ほどもお伝えしましたが、発見されたご遺骨は、DNA鑑定の結果、奥様のものと確認されました」
刑事が父に向かって言った。
父は黙って頷いた。
「発見場所は、隣県の山中です。長く使われていなかった建物を取り壊し、土地を造成している最中に見つかりました」
「どういう状態だったんですか」
父の声は掠れていた。
刑事は一瞬、隣の女刑事と目を合わせた。
「土の中に埋められていました」
母が自分の身体を見下ろす。
「私、埋められてたの?」
俺に聞くな。
「所持品は?」
「今のところ、奥様のものと確認できたのは、衣類と身につけていた装飾品の一部です。携帯電話や財布、鞄などは見つかっていません」
「あら、盗られたのね。お気に入りのバッグだったら許せないわ」
殺されて埋められたことより、鞄の心配か。
「死亡した時期は分かるんですか」
父が尋ねた。
「ご遺骨の状態から、失踪された時期と大きな隔たりはないと考えています。ただ、八年前のことですので、詳細な時期や死因については、慎重に調べる必要があります」
「事故ではないんですね」
「現段階で断定はできません。ただ、ご自身で土の中へ入ることは考えられません」
父の顔がさらに青ざめた。
母は父を見つめている。
「老けたわねえ」
その声は、さっきまでとは違っていた。
「前はもっと格好よかったのに」
それは本人に言ってやれ。
俺に言われても困る。
「それでは、八年前のことを改めて確認させてください」
刑事が手帳へ視線を落とした。
「奥様が自宅を出たのは、午後十時頃で間違いありませんか」
「はい」
「何とおっしゃっていましたか」
「買い物へ行ってくると」
「どちらへ?」
「近所のコンビニだと思いました。何を買うのかまでは聞いていません」
「普段から、その時間に買い物へ?」
「時々は。急に甘いものが食べたいと言って出かけるようなことはありました」
「分かる。夜中って甘いもの食べたくなるのよねえ」
母が何度も頷く。
お前の話をしている。
「奥様の様子に、変わったところはありませんでしたか」
「……ありません」
父の返事が、わずかに遅れた。
刑事はそれを聞き逃さなかった。
「何かありましたか」
「その日の夜、少し言い争いをしました」
胸の奥で、小さく何かが引っかかった。
そうだ。
あの夜、二階の自室にいた俺は、階下から父と母の声を聞いている。
何を言い争っていたのかは覚えていない。
ただ、母の声がいつもより大きかった。
「どのような内容ですか」
「息子のことで、意見が合わなかっただけです」
「僕の?」
思わず口を挟んだ。
父がこちらを見る。
「今は関係ない」
「関係があるかどうかを決めるのは、こちらです」
女刑事が初めて口を開いた。
落ち着いた声だった。
「覚えている範囲で構いません。お話しいただけますか」
父はしばらく黙ったあと、首を横に振った。
「申し訳ありません。今は、まだ」
刑事二人の表情がわずかに変わる。
父を疑っている。
そう思った途端、腹の底が熱くなった。
「父が母を殺したとでも思ってるんですか」
「佑」
父が制止する。
「だって、そういう聞き方だろ」
「ご家族だから疑っているわけではありません」
灰色のスーツの刑事は表情を変えなかった。
「失踪直前の状況を、一つずつ確認しているだけです」
「この人にそんなことできるわけないでしょ」
母も俺の隣で声を上げた。
「ゴキブリ一匹殺せない人なのよ。退治するのはいつも私だったんだから」
「分かってるよ」
「佑?」
父と刑事二人が、一斉に俺を見る。
「……父がそんなことをする人じゃないのは、俺が分かってます」
「そうですか」
刑事は何かを手帳へ書き込んだ。
たぶん、息子は少し様子がおかしい、とでも書いている。
「失踪から二年後に届いたという離婚届を、見せていただけますか」
「はい」
父は立ち上がり、居間を出た。
母がその背中を目で追う。
「まだ持ってるの?」
「父さんは、そういう人なんだよ」
「どういう人?」
「何でもきちんと保管する人」
「昔から真面目だったものねえ」
それから父が戻ってくるまで、母は何も言わなかった。
父が手にしていたのは、古い茶封筒だった。
中から一枚の離婚届を取り出し、テーブルの上へ置く。
用紙には、父と母の名前が並んでいる。
ただし、父の署名欄は空白だった。
母が立ち上がり、テーブルをのぞき込む。
「これが、失踪から二年後に届いたものですか」
女刑事が尋ねた。
「はい」
「消印は?」
「県外でした。妻の居場所につながるかもしれないと思い、当時、警察にも相談しました。ただ、それ以上のことは分かりませんでした」
「提出しなかった理由を伺っても?」
父は離婚届を見つめた。
「本人から、何も聞いていませんでしたから」
「それでも、奥様の署名があった」
「はい」
「これは、奥様が書いたものですか?」
父はすぐには答えなかった。
何度も見返したはずの署名を、初めて見るもののように見つめている。
「似ています」
「似ている?」
「妻の字によく似ています。けれど……妻が書いたものだとは、どうしても思えなかった」
「筆跡に違いがあったんですか」
「いえ。そういうことではありません」
父は困ったように首を振った。
「うまく説明できないんです。字だけを見れば、妻のものに見えます。ただ、妻が何も言わずに離婚届だけを送ってくるとは思えなかった」
母が離婚届を凝視している。
「どうした」
俺が小さな声で尋ねると、母は首を傾げた。
「私、こんなの書いたかなあ」
「覚えてないのかよ」
「覚えてたら苦労しないわよ」
母は自分の署名へ顔を近づけたり、離れたりしている。
「字は私の字っぽいのよねえ」
「じゃあ、あんたが書いたんじゃないのか」
「でも、離婚したかったのかしら、私」
「俺に聞くな」
「お父さん、格好いいし、頭もいいし、真面目だし。ちょっと抜けてるけど、離婚するほどじゃないと思うのよねえ」
「知らねえよ」
「それに、佑ちゃんを置いていく?」
母が俺を見た。
俺は目を逸らした。
「実際、置いていっただろ」
「そうなのよねえ」
母は珍しく言い返さなかった。
女刑事は手袋をつけ、離婚届を慎重に確認した。
「こちらをお預かりしてもよろしいですか。改めて筆跡などを調べたいと思います」
「はい」
父は頷いた。
刑事が離婚届を透明な袋へ入れる。
母はそれをじっと見ていた。
「ねえ、佑」
「何だよ」
「もし、これを私が書いたんだったら」
母は不安そうに眉を寄せた。
「私、本当にあんたたちを捨てるつもりだったのかな」
答えられなかった。
俺が八年間、母に聞きたかったことだった。
どうして俺と父を捨てたのか。
どこで暮らしていたのか。
なぜ離婚届だけを送りつけてきたのか。
ようやく本人が目の前に現れたというのに、その本人も何一つ知らない。
「奥様が出かける前、電話やメールはありませんでしたか」
灰色のスーツの刑事が父へ尋ねた。
「私が見ている範囲では、ありませんでした」
「奥様は携帯電話を持って出た?」
「はい。財布も持っていました」
「買い物以外の目的があった可能性は?」
「分かりません」
「会う予定の相手について、何か聞いていませんでしたか」
「何も」
刑事は一つずつ質問を重ねた。
母の交友関係。よく行っていた場所。悩み事。失踪前に連絡を取っていた人物。
父は覚えている限り答えた。
母も隣で一緒になって考えていたが、ほとんどの質問に首を傾げるばかりだった。
「私って、友達多かった?」
知らない。
「よく行ってた店は?」
知らない。
「悩み事、あったのかしら」
それを聞きたいのはこっちだ。
二人の刑事は一時間ほどで聞き取りを終えた。
「またお話を伺うことがあると思います」
灰色のスーツの刑事が立ち上がる。
「思い出したことがあれば、どんな些細なことでも構いません。ご連絡ください」
玄関で二人を見送り、居間へ戻る。
父は刑事が座っていたソファに腰を下ろした。
急に十歳くらい老けたように見えた。
母は父の前に立った。
「ねえ。私、本当に離婚したかったの?」
父には聞こえない。
「どうして出さなかったの?」
父には届かない。
「私が帰ってくると思ってた?」
父は両手で顔を覆った。
母がそっと手を伸ばす。
半透明の指は父の髪をすり抜けた。
「……ごめんね」
母が呟く。
俺は聞こえないふりをした。
父はしばらくそのまま動かなかった。
やがて顔を上げ、俺を見る。
「佑。母さんが出かけた夜のことを、何か覚えていないか」
「俺が?」
「あの日、お前はまだ起きていたはずだ」
胸の奥で、何かがざわついた。
階下から聞こえた父と母の声。
いつもより強い口調。
――今さら。
――佑のためには。
そこから先が思い出せない。
「……何も覚えてない」
そう答えると、母が俺を見た。
父も、じっと俺を見ていた。
嘘をついたことは、たぶん二人とも気づいていた。




