↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
母ちゃんが、いる。  作者: もちむぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/20

第一章 母さんが死んだ

第一章 母さんが死んだ


「なあ、佑(たすく)。実は、その……」


 ある日の午後、珍しく父から話があると言われた。


 二階の自室から居間へ降りると、父が一人でソファに座っていた。


 姿勢はいつもどおりきちんとしている。けれど顔色が悪い。膝の上で組んだ指にも、妙に力が入っていた。


 俺は向かいのソファへ腰を下ろした。


 父は何も言わない。


 壁の時計が秒を刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。


 沈黙に耐えかねた俺は、テーブルに置かれていたリモコンを取った。


 テレビの電源を入れる。


 小さな電子音が鳴り、画面から流れ出した白い光が居間を照らした。


 その光が身体にまとわりつくのと、父が口を開いたのは、ほとんど同時だった。


「母さんが……死んだ」


 カアサンガ、シンダ。


 父の口から出た短い言葉の意味を理解するまで、しばらく時間がかかった。


 俺の母親は、八年前に姿を消した。


 当時、俺は小学六年生だった。


 夜になって、「ちょっと買い物へ行ってくる」と言って家を出た。それきり帰ってこなかった。


 財布と携帯電話は持っていたが、着替えも通帳も家に置いたまま。警察にも届けたが、母の足取りは途中で途絶えていた。


 二年後、父のもとへ、母の署名が入った離婚届が郵送されてきた。


 父はそれを役所へ出さなかった。


 母と連絡を取っていたのか。なぜ離婚届を出さなかったのか。俺は何も聞かなかった。


 その頃には、俺も多少は大人の事情というものを知る年齢になっていた。両親の間に何があったのか、首を突っ込む気にはなれなかった。


 いや、知りたくなかったのだと思う。


 俺と父を捨てた人間の事情なんて、どうでもよかった。


 その母親が死んだと、今、聞かされた。


 本来なら、何か感じるべきだったのだろう。


 悲しいのか。腹が立つのか。それとも、どこかで生きていると思っていた人間に二度と会えないと知って、寂しいのか。


 俺には、分からなかった。


 父は俯いている。


 八年たっても、この人は母を忘れていなかったのだ。


 きっと、これはもっと重く、静かな場面になるはずだった。


 普通なら。


 バリッ。


 ポリポリ、バリバリ。


 父の隣から、場違いな音が聞こえた。


 顔を上げる。


 母がいた。


 父のすぐ隣に座り、座面に少しめり込みながら座って、テレビを見ながら煎餅を食べている。


 茶色い長髪に、きらきら光るアイシャドウ。肩の出たラメ入りの黒い服と、虎柄のミニスカート。


 しかも半分透けている。


 父の右肩が、母の身体を通して見えていた。


 母の手には、半透明の丸い煎餅が握られている。


 視線をテーブルへ落とす。


 蓋の開いた茶菓子入れの中に、同じ形の煎餅が何枚か放置されていた。


 一枚も減っていない。


 母が食べているのは、どうやら煎餅本体ではないらしい。


「あら、しけってるじゃない!」


 母が文句を言った。


「もったいな〜い。誰も食べないなら、ちゃんと蓋しときなさいよ」


 母は食べ終えた半透明の煎餅を飲み込むと、茶菓子入れへ手を伸ばした。


 指が実物の煎餅をすり抜ける。


 次の瞬間、母の手には、実物そっくりの半透明の煎餅がもう一枚握られていた。


 茶菓子入れの中身は減っていない。


「ブッ……!」


 駄目だった。


 吹き出した。


「ブフッ……!」


「佑?」


 父が顔を上げる。


 傷ついたような目をしていた。


 違う。


 母親が死んだことを笑ったわけではない。


 母が死んだと告げる父の隣で、その本人が半透明になって、煎餅の魂らしきものを食っているのだ。


 シュールだ。


 あまりにもシュールすぎる。


「どうしたんだ」


「いや……ごめん。違うんだ」


「何が違うんだ?」


「その……ちょっと、思い出し笑い」


 我ながら最低の言い訳だった。


「この状況で?」


「だから、ごめん」


 母は父の横で煎餅の魂をかじりながら、呆れた顔で俺を見ていた。


「お父さん、かわいそうじゃない。笑うところじゃないわよ」


 誰のせいだと思っている。


 俺は母を睨んだ。


 もちろん父には、母の姿も声も分からない。母が手を伸ばしても、茶菓子入れの中身は動かない。


 見えているのは、俺だけだった。


 事の起こりは、前日の夜。


 俺は生まれて初めて、いわゆる金縛りというものに遭っていた。


     ◇


「ねえ、ねえ、佑。起きて。佑ってば」


 起きてる。


 目は開いている。


 なのに指一本動かせない。


 胸の上に重いものが乗っているようで、息がしづらかった。


 女の声がする。


 すぐそばだ。


 どうして女が俺の部屋にいる。


 声のするほうを見ようとしても、首が動かない。


「ねえ。起きてるんでしょ?」


 だから起きてる。


 返事をしたいのに、声も出せない。


 すると女は、何かに気づいたように言った。


「あ、そーかー。金縛りね?」


 ずいぶん軽い声だった。


「ちょっと待ってて。今、どうにかするから」


 どうにかできるのか。


「ええと……こういう時って、どうするんだっけ」


 できないらしい。


「肩を揺すればいいのかしら」


 冷たいものが肩をすり抜けた。


「やだ、触れない」


 当たり前のように言うな。


「じゃあ、大きな声を出せばいいのね」


 女は一度、咳払いをした。


「佑ちゃーん」


 声が近づく。


「起きなさーい」


 耳元に、冷たい息がかかった。


「エアコン入れっぱなしは、風邪ひくわよー」


 それは金縛りを解くための言葉なのか。


 それとも、俺は今から殺されるのか。


 必死で身体を動かそうとした瞬間、右手の指先がわずかに跳ねた。


 一気に身体が軽くなる。


「うわあっ!」


 俺は叫びながら跳ね起きた。


 枕元の照明をつける。


 ベッドの脇に、女が立っていた。


 長い茶髪を顔の前へ垂らし、虎柄のミニスカートから白い脚を伸ばしている。


 黙って立っていれば、怖い。


 かなり怖い。


 ただし身体の向こう側に、勉強机が透けて見えていた。


「……誰だよ、あんた」


 女が髪をかき上げる。


 派手な化粧をした顔が現れた。


「よかったあ。起きた」


「誰だって聞いてんだよ」


「何よ、その言い方」


 女は腰に手を当てた。


「久しぶりに会った母親に向かって」


 心臓が、強く鳴った。


 改めて女の顔を見る。


 記憶の中にある顔より少し青白い。身体も透けている。それでも間違えるはずがなかった。


 茶色い髪も、細い眉も、派手な服も。


 この女は、八年前の姿のままだった。


「……母親?」


「そうよ」


「あんたが?」


「ほかに誰がいるのよ」


「知らねえよ。幽霊とか不審者とか」


「不審者じゃないわよ。失礼ね」


「じゃあ、幽霊なのかよ」


 母は自分の身体を見下ろした。


 両手を開き、裏返す。


 半透明の指の向こうに、虎柄のスカートが見えている。


「あら。本当。透けてる」


「あら、じゃねえよ!」


「ねえ、これ、下着まで見えてない?」


「そういう透け方じゃない!」


「ああ、よかった。死んでまで恥かくところだったわ」


「死んでるのかよ!」


「たぶん?」


「俺に聞くな!」


 母は困ったように首を傾げた。


 八年ぶりに現れた母親が幽霊で、しかも本人にも事情が分からない。


 ふざけているとしか思えなかった。


「何しに来たんだよ」


「何しにって……」


「八年前に勝手にいなくなって、今さら何の用だよ」


 母の表情から、笑みが消えた。


「八年?」


「そうだよ」


「私、八年もいなかったの?」


「とぼけんな」


「とぼけてないわよ。私……」


 母はこめかみに手を当てた。


「何でいなくなったのか、覚えてない」


「は?」


「今までどこにいたのかも、何でこんな姿になったのかも、全然分からない」


「都合よすぎるだろ」


「そう言われても、本当に覚えてないのよ」


「じゃあ、何なら覚えてるんだよ」


「佑のこと」


 母は迷わず答えた。


「私の大事な息子だもの」


 胸の奥で、何かが揺れた。


 けれど、それが何なのか考える前に、腹の底から怒りが湧いてきた。


「だったら、何で捨てたんだよ」


「……分からない」


「それで済むと思ってんのか」


「思ってないわよ」


 意外なほど静かな声だった。


「でも、本当に覚えてないの。だから教えて。私がいなくなってから、何があったの?」


「知るかよ」


「お父さんは?」


「あんたには関係ない」


「あるわよ。夫だもの」


「八年前に捨てた夫だろ」


 母が黙る。


 少し言いすぎたと思ったが、謝る気にはなれなかった。


 先に俺たちを捨てたのは、この人だ。


「とにかく、出ていけ」


「どこへ?」


「知らねえよ」


「私だって知らないわよ」


「あの世にでも行け」


「行き方が分からないもの」


「それも忘れたのかよ!」


「初めて死んだんだから仕方ないでしょ」


「普通はみんな初めてだよ!」


 俺の声が、深夜の家に響いた。


 廊下から足音が近づいてくる。


「佑?」


 父の声だった。


「どうした?」


「何でもない!」


「誰かと話してなかったか?」


「寝ぼけただけ!」


 少しの沈黙。


「……そうか。エアコンをつけたまま寝るなよ。風邪をひくぞ」


 足音が遠ざかっていく。


 母は、閉じたドアを見つめていた。


「今の、お父さん?」


「そうだよ」


「声、変わったね」


「八年たってるからな」


「そっか」


 母は少しだけ寂しそうに笑った。


 その顔を見るのが嫌で、俺は布団を頭までかぶった。


「消えろ」


「ひどい」


「朝になったら、絶対いなくなってろよ」


「分かった。努力する」


「努力しないと消えられないのかよ」


「おやすみ、佑ちゃん」


「ちゃん付けすんな」


「エアコンも消してね」


「うるさい」


「風邪ひくわよ」


「幽霊に言われたくない!」


 結局、母は朝になっても消えなかった。


     ◇


「それでな」


 父の声に、意識が現在へ戻る。


 隣では母が、二枚目の煎餅の魂を食べ終え、三枚目へ手を伸ばしていた。


「あんまり食うな」


 思わず口から出た。


 父が怪訝そうに眉を寄せる。


「何を?」


「……いや、こっちの話」


 母が半透明の煎餅を持ったまま、口を尖らせた。


「いいじゃない。どうせ減らないんだから」


 確かに、茶菓子入れの中身は一枚も減っていない。


「見つかったのは、山の中だそうだ」


 父の言葉に、母の手が止まった。


「造成工事の最中に、土の中から遺骨が出た。歯の治療記録とDNAで、母さんだと確認された」


 土の中。


「いつ……死んだんだよ」


「正確にはまだ分からない。ただ、警察は……」


 父が言葉を詰まらせる。


「母さんがいなくなって、それほどたたないうちに亡くなった可能性が高いと言っていた」


 俺は母を見た。


 母も俺を見ていた。


「じゃあ、二年後に届いた離婚届は?」


「分からない」


 父は青ざめた顔で首を振った。


「母さんが書いたものではなかったのかもしれない」


 母が口を挟む。


「離婚届って何?」


 俺は父から見えない位置で、母を睨んだ。


 母は小さな声で続ける。


「私、そんなもの書いたの?」


 知るか。


「警察は、母さんが事件に巻き込まれた可能性も考えている。今日、改めて話を聞きに来るそうだ」


「事件って……」


 父は膝の上で組んでいた手を、さらに強く握った。


「母さんは、殺されたのかもしれない」


 居間が静まり返った。


 テレビでは、出演者たちが楽しそうに笑っている。


 母は手にしていた半透明の煎餅を見つめ、それから俺を見た。


「私、殺されたの?」


 昨日までなら、冗談だと思っただろう。


 だが、父の顔を見れば分かる。


 これは現実だ。


 母は八年前、俺と父を捨てたのではない。


 夜、買い物へ出たまま、誰かに殺されて土の中へ埋められた。


「……誰に?」


 俺が声に出さず、口の動きだけで尋ねる。


 母は真剣な顔で考え込んだ。


 やがて、申し訳なさそうに首を傾げる。


「それが、全っ然覚えてないのよねえ」


 そう言って、手にしていた煎餅の魂をひとかじりした。


 バリッ、と景気のいい音が響く。


「あ、こっちもしけってる」


 俺は思わず天井を仰いだ。


 被害者本人が、いちばん役に立ちそうになかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。