第一章 母さんが死んだ
第一章 母さんが死んだ
「なあ、佑。実は、その……」
ある日の午後、珍しく父から話があると言われた。
二階の自室から居間へ降りると、父が一人でソファに座っていた。
姿勢はいつもどおりきちんとしている。けれど顔色が悪い。膝の上で組んだ指にも、妙に力が入っていた。
俺は向かいのソファへ腰を下ろした。
父は何も言わない。
壁の時計が秒を刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。
沈黙に耐えかねた俺は、テーブルに置かれていたリモコンを取った。
テレビの電源を入れる。
小さな電子音が鳴り、画面から流れ出した白い光が居間を照らした。
その光が身体にまとわりつくのと、父が口を開いたのは、ほとんど同時だった。
「母さんが……死んだ」
カアサンガ、シンダ。
父の口から出た短い言葉の意味を理解するまで、しばらく時間がかかった。
俺の母親は、八年前に姿を消した。
当時、俺は小学六年生だった。
夜になって、「ちょっと買い物へ行ってくる」と言って家を出た。それきり帰ってこなかった。
財布と携帯電話は持っていたが、着替えも通帳も家に置いたまま。警察にも届けたが、母の足取りは途中で途絶えていた。
二年後、父のもとへ、母の署名が入った離婚届が郵送されてきた。
父はそれを役所へ出さなかった。
母と連絡を取っていたのか。なぜ離婚届を出さなかったのか。俺は何も聞かなかった。
その頃には、俺も多少は大人の事情というものを知る年齢になっていた。両親の間に何があったのか、首を突っ込む気にはなれなかった。
いや、知りたくなかったのだと思う。
俺と父を捨てた人間の事情なんて、どうでもよかった。
その母親が死んだと、今、聞かされた。
本来なら、何か感じるべきだったのだろう。
悲しいのか。腹が立つのか。それとも、どこかで生きていると思っていた人間に二度と会えないと知って、寂しいのか。
俺には、分からなかった。
父は俯いている。
八年たっても、この人は母を忘れていなかったのだ。
きっと、これはもっと重く、静かな場面になるはずだった。
普通なら。
バリッ。
ポリポリ、バリバリ。
父の隣から、場違いな音が聞こえた。
顔を上げる。
母がいた。
父のすぐ隣に座り、座面に少しめり込みながら座って、テレビを見ながら煎餅を食べている。
茶色い長髪に、きらきら光るアイシャドウ。肩の出たラメ入りの黒い服と、虎柄のミニスカート。
しかも半分透けている。
父の右肩が、母の身体を通して見えていた。
母の手には、半透明の丸い煎餅が握られている。
視線をテーブルへ落とす。
蓋の開いた茶菓子入れの中に、同じ形の煎餅が何枚か放置されていた。
一枚も減っていない。
母が食べているのは、どうやら煎餅本体ではないらしい。
「あら、しけってるじゃない!」
母が文句を言った。
「もったいな〜い。誰も食べないなら、ちゃんと蓋しときなさいよ」
母は食べ終えた半透明の煎餅を飲み込むと、茶菓子入れへ手を伸ばした。
指が実物の煎餅をすり抜ける。
次の瞬間、母の手には、実物そっくりの半透明の煎餅がもう一枚握られていた。
茶菓子入れの中身は減っていない。
「ブッ……!」
駄目だった。
吹き出した。
「ブフッ……!」
「佑?」
父が顔を上げる。
傷ついたような目をしていた。
違う。
母親が死んだことを笑ったわけではない。
母が死んだと告げる父の隣で、その本人が半透明になって、煎餅の魂らしきものを食っているのだ。
シュールだ。
あまりにもシュールすぎる。
「どうしたんだ」
「いや……ごめん。違うんだ」
「何が違うんだ?」
「その……ちょっと、思い出し笑い」
我ながら最低の言い訳だった。
「この状況で?」
「だから、ごめん」
母は父の横で煎餅の魂をかじりながら、呆れた顔で俺を見ていた。
「お父さん、かわいそうじゃない。笑うところじゃないわよ」
誰のせいだと思っている。
俺は母を睨んだ。
もちろん父には、母の姿も声も分からない。母が手を伸ばしても、茶菓子入れの中身は動かない。
見えているのは、俺だけだった。
事の起こりは、前日の夜。
俺は生まれて初めて、いわゆる金縛りというものに遭っていた。
◇
「ねえ、ねえ、佑。起きて。佑ってば」
起きてる。
目は開いている。
なのに指一本動かせない。
胸の上に重いものが乗っているようで、息がしづらかった。
女の声がする。
すぐそばだ。
どうして女が俺の部屋にいる。
声のするほうを見ようとしても、首が動かない。
「ねえ。起きてるんでしょ?」
だから起きてる。
返事をしたいのに、声も出せない。
すると女は、何かに気づいたように言った。
「あ、そーかー。金縛りね?」
ずいぶん軽い声だった。
「ちょっと待ってて。今、どうにかするから」
どうにかできるのか。
「ええと……こういう時って、どうするんだっけ」
できないらしい。
「肩を揺すればいいのかしら」
冷たいものが肩をすり抜けた。
「やだ、触れない」
当たり前のように言うな。
「じゃあ、大きな声を出せばいいのね」
女は一度、咳払いをした。
「佑ちゃーん」
声が近づく。
「起きなさーい」
耳元に、冷たい息がかかった。
「エアコン入れっぱなしは、風邪ひくわよー」
それは金縛りを解くための言葉なのか。
それとも、俺は今から殺されるのか。
必死で身体を動かそうとした瞬間、右手の指先がわずかに跳ねた。
一気に身体が軽くなる。
「うわあっ!」
俺は叫びながら跳ね起きた。
枕元の照明をつける。
ベッドの脇に、女が立っていた。
長い茶髪を顔の前へ垂らし、虎柄のミニスカートから白い脚を伸ばしている。
黙って立っていれば、怖い。
かなり怖い。
ただし身体の向こう側に、勉強机が透けて見えていた。
「……誰だよ、あんた」
女が髪をかき上げる。
派手な化粧をした顔が現れた。
「よかったあ。起きた」
「誰だって聞いてんだよ」
「何よ、その言い方」
女は腰に手を当てた。
「久しぶりに会った母親に向かって」
心臓が、強く鳴った。
改めて女の顔を見る。
記憶の中にある顔より少し青白い。身体も透けている。それでも間違えるはずがなかった。
茶色い髪も、細い眉も、派手な服も。
この女は、八年前の姿のままだった。
「……母親?」
「そうよ」
「あんたが?」
「ほかに誰がいるのよ」
「知らねえよ。幽霊とか不審者とか」
「不審者じゃないわよ。失礼ね」
「じゃあ、幽霊なのかよ」
母は自分の身体を見下ろした。
両手を開き、裏返す。
半透明の指の向こうに、虎柄のスカートが見えている。
「あら。本当。透けてる」
「あら、じゃねえよ!」
「ねえ、これ、下着まで見えてない?」
「そういう透け方じゃない!」
「ああ、よかった。死んでまで恥かくところだったわ」
「死んでるのかよ!」
「たぶん?」
「俺に聞くな!」
母は困ったように首を傾げた。
八年ぶりに現れた母親が幽霊で、しかも本人にも事情が分からない。
ふざけているとしか思えなかった。
「何しに来たんだよ」
「何しにって……」
「八年前に勝手にいなくなって、今さら何の用だよ」
母の表情から、笑みが消えた。
「八年?」
「そうだよ」
「私、八年もいなかったの?」
「とぼけんな」
「とぼけてないわよ。私……」
母はこめかみに手を当てた。
「何でいなくなったのか、覚えてない」
「は?」
「今までどこにいたのかも、何でこんな姿になったのかも、全然分からない」
「都合よすぎるだろ」
「そう言われても、本当に覚えてないのよ」
「じゃあ、何なら覚えてるんだよ」
「佑のこと」
母は迷わず答えた。
「私の大事な息子だもの」
胸の奥で、何かが揺れた。
けれど、それが何なのか考える前に、腹の底から怒りが湧いてきた。
「だったら、何で捨てたんだよ」
「……分からない」
「それで済むと思ってんのか」
「思ってないわよ」
意外なほど静かな声だった。
「でも、本当に覚えてないの。だから教えて。私がいなくなってから、何があったの?」
「知るかよ」
「お父さんは?」
「あんたには関係ない」
「あるわよ。夫だもの」
「八年前に捨てた夫だろ」
母が黙る。
少し言いすぎたと思ったが、謝る気にはなれなかった。
先に俺たちを捨てたのは、この人だ。
「とにかく、出ていけ」
「どこへ?」
「知らねえよ」
「私だって知らないわよ」
「あの世にでも行け」
「行き方が分からないもの」
「それも忘れたのかよ!」
「初めて死んだんだから仕方ないでしょ」
「普通はみんな初めてだよ!」
俺の声が、深夜の家に響いた。
廊下から足音が近づいてくる。
「佑?」
父の声だった。
「どうした?」
「何でもない!」
「誰かと話してなかったか?」
「寝ぼけただけ!」
少しの沈黙。
「……そうか。エアコンをつけたまま寝るなよ。風邪をひくぞ」
足音が遠ざかっていく。
母は、閉じたドアを見つめていた。
「今の、お父さん?」
「そうだよ」
「声、変わったね」
「八年たってるからな」
「そっか」
母は少しだけ寂しそうに笑った。
その顔を見るのが嫌で、俺は布団を頭までかぶった。
「消えろ」
「ひどい」
「朝になったら、絶対いなくなってろよ」
「分かった。努力する」
「努力しないと消えられないのかよ」
「おやすみ、佑ちゃん」
「ちゃん付けすんな」
「エアコンも消してね」
「うるさい」
「風邪ひくわよ」
「幽霊に言われたくない!」
結局、母は朝になっても消えなかった。
◇
「それでな」
父の声に、意識が現在へ戻る。
隣では母が、二枚目の煎餅の魂を食べ終え、三枚目へ手を伸ばしていた。
「あんまり食うな」
思わず口から出た。
父が怪訝そうに眉を寄せる。
「何を?」
「……いや、こっちの話」
母が半透明の煎餅を持ったまま、口を尖らせた。
「いいじゃない。どうせ減らないんだから」
確かに、茶菓子入れの中身は一枚も減っていない。
「見つかったのは、山の中だそうだ」
父の言葉に、母の手が止まった。
「造成工事の最中に、土の中から遺骨が出た。歯の治療記録とDNAで、母さんだと確認された」
土の中。
「いつ……死んだんだよ」
「正確にはまだ分からない。ただ、警察は……」
父が言葉を詰まらせる。
「母さんがいなくなって、それほどたたないうちに亡くなった可能性が高いと言っていた」
俺は母を見た。
母も俺を見ていた。
「じゃあ、二年後に届いた離婚届は?」
「分からない」
父は青ざめた顔で首を振った。
「母さんが書いたものではなかったのかもしれない」
母が口を挟む。
「離婚届って何?」
俺は父から見えない位置で、母を睨んだ。
母は小さな声で続ける。
「私、そんなもの書いたの?」
知るか。
「警察は、母さんが事件に巻き込まれた可能性も考えている。今日、改めて話を聞きに来るそうだ」
「事件って……」
父は膝の上で組んでいた手を、さらに強く握った。
「母さんは、殺されたのかもしれない」
居間が静まり返った。
テレビでは、出演者たちが楽しそうに笑っている。
母は手にしていた半透明の煎餅を見つめ、それから俺を見た。
「私、殺されたの?」
昨日までなら、冗談だと思っただろう。
だが、父の顔を見れば分かる。
これは現実だ。
母は八年前、俺と父を捨てたのではない。
夜、買い物へ出たまま、誰かに殺されて土の中へ埋められた。
「……誰に?」
俺が声に出さず、口の動きだけで尋ねる。
母は真剣な顔で考え込んだ。
やがて、申し訳なさそうに首を傾げる。
「それが、全っ然覚えてないのよねえ」
そう言って、手にしていた煎餅の魂をひとかじりした。
バリッ、と景気のいい音が響く。
「あ、こっちもしけってる」
俺は思わず天井を仰いだ。
被害者本人が、いちばん役に立ちそうになかった。




