最終話 共働きペアローンの最適解と、愛しき家族の新しい一歩
「うん、二人でネットとかパンフレットでちょっと調べたんやけどね」
私はバッグから、リサーチ内容をまとめた手元のノートを広げておじちゃんの前に差し出した。
「三菱UFJ銀行とかのメガバンクだと、今の変動金利が約一%。これに対して固定金利は、三年固定でも約二.五%。三十五年の全期間固定金利にいたっては、もう四%の大台に乗ってるねん。これからの金利上昇リスクは怖いけど、やっぱり最初は変動金利にしておいた方がええんかなって思ってるねんけど……」
おじちゃんはノートの数字に視線を落とし、深く頷いた。
「そうやな、その感覚で間違いないぞ。今は長期金利が世界的にどんどん上がっている局面や。長期金利に連動する固定金利を、わざわざこの高掴みのタイミングで借りるというのは、お世辞にも賢い手の打ち方とは言えん。ここは変動金利の圧倒的な『スタートダッシュの低さ』を活かすのがセオリーや」
「やっぱりそうかぁ。うん。それでな、おじちゃん。もう一つ悩んでるのが、頭金をいくら入れるかやねん。一応、少しは貯金もあるんやけど……」
私が質問すると、おじちゃんはニヤリと不敵に笑い、迷わず人差し指を立てた。
「変動金利の安い金利で借りるんやったら、頭金は可能な限り少なく、できれば『頭金ゼロ円』のフルローンにしておいたらええ」
「えっ、ゼロ円!? でも、ネットの記事にはだいたい『頭金は一〜二割は入れましょう』とか『借入額を減らして安全運転で』って書いてあったで?」
私が思わず聞き返すと、おじちゃんは「ハハッ」と愉快そうに声をあげて笑った。
「ネットの無料記事なんてな、銀行や不動産業者が最大公約数のサラリーマン向けに書いた『無難な教科書』やからな。インフレの時代において、一%前後の『超低金利の住宅ローン』っちゅうのは、手元の現金を減らさずに大きな資産を持てる最強の『良い借金』なんや。頭金として現金を一括で払ってしまうのは、その現金を新NISAとかの堅実なインデックス運用に回して、住宅ローンの金利以上で増やすチャンスを自分でドブに捨てるようなもんなんやぞ」
「あ……! そっか、住宅ローンの金利より、新NISAの利回りの方が高ければ、差額の分だけ勝手に資産が増えていくってこと!?」
私の頭の中で、電卓の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。
「その通りや、遥。完璧に本質を理解しとるやないか。銀行がそんな安い金利で貸してくれると言うなら、借りられるだけ借りておいて、手元の現金は運用で増やす。これがインフレ期におけるレバレッジの掛け方や」
「なるほど……!」
律くんが感動したようにノートにペンを走らせる。ネットの「常識」を鮮やかにひっくり返していくおじちゃんのロジックは、聞いていて本当に気持ちがいい。
しかし、私はそこで現実的な壁を思い出して、少し声を潜めた。
「でもな、おじちゃん。全額フルローンにしたら、今の律くん一人の収入だけやったら、ちょっと審査が通らへんかもしれへんねん。五千二百万って、やっぱり普通のサラリーマン一人には大金やろ?」
おじちゃんはフッと鼻で笑い、頼もしそうに腕を組んだ。
「何を言うとる。せっかく二人ががっつり共働きしとるんやろ? やったら、迷わずペアローンにしたらええ。二人の年収を合算すれば、銀行側も大喜びで一番優遇されたトップクラスの低金利を提示してくるし、住宅ローン控除の枠も二人分フルに使えるからな。一人で組むより戻ってくる税金の総額も多くなるぞ」
「……確かに、おじちゃんの言う通りやね。せっかくの共働きなんやし、その強みを最大限に活かさなもったいないわ。――そしたら、私らもペアローンの変動金利、頭金ゼロ方針でいこうか、律くん」
「そうだね。一番効率良くメリットを活かせるし、僕たちにはこれが最適解だと思うよ」
一番頼れる人生の師匠から太鼓判を押されたことで、私たちの胸の中にあった「これでいいのかな」という微かな不安は一気に消し飛び、確固たる決意へと変わったのだった。
◇
夕方、すっかり話し込んでしまい、私たちは舞香ちゃんちをお暇することになった。
「遥、律くん、またいつでもおいでな。ローン通ったらお祝いやな!」
別れ際、少し大きくなったお腹を愛おしそうに抱えながら、玄関でパタパタと手を振る舞香ちゃん。
長男の大樹を育てながら、お腹には新しい命。彼女はもうすぐ、二児の母になる。
舞香ちゃんとは、高校から大学の長い間、一つ屋根の下で一緒に暮らし、本当に実の姉妹のようにして育ってきた。
そんな大切な舞香ちゃんと、こうして大人になっても同じ関西の地で、それぞれの家族を持ち、お互いに同じような歩幅で人生を歩めていること。
その事実が、帰り道の夕焼け空の下、なんだか無性に嬉しくて、私の胸をじんわりと温かく満たしていくのだった。
◇
おじちゃんに太鼓判を押された私たちは、迷うことなくメガバンクで変動金利を選択し、全額フルローンのペアローンを申し込んだ。
審査は無事に通り、夫婦それぞれの口座から引き落とされる毎月の支払額は、一人当たり約七万三千円。世帯合計で約十四万七千円という大きな数字が決まった。
社会人になってから返している奨学金に引き続き、今度は住宅ローンという途方もない額の「借金」を、私たちは背負ってしまったことになる。普通なら、その重圧に胃のあたりが重くなるところかもしれない。
――けれど、今の私たちの捉え方は違っていた。
おじちゃんから学んだ通り、本物の資産家は自分の財産を『BS(貸借対照表)』で考える。つまり、超低金利で引っ張ってきたこの借金も、手元にキャッシュを残してレバレッジをかけるための、立派な「資産」という考え方だ。
そう思えば、私たちの個人バランスシートの資産の部は、今この瞬間、爆発的に大きく膨らんだと言える。
「……ふふ、資産家として、また一歩成長したってことやね」
そう言って律くんと顔を見合わせると、不思議と未来へのワクワクした気持ちが胸に満ちていった。
購入の申し込みを済ませてからは、まさに怒涛のスケジュールだった。
住宅ローンの本審査に始まり、山のような書類を揃えての売買契約、並行して進める引っ越しの段取り……。共働きの容赦ない仕事の合間を縫うようにして、ふたりでタスクを分担し、なんとか必死にこなしていった。
そして二ヶ月後。私たちはついに、新しいマンションへと引っ越しを完了した。
「キャハハハハッー!」
所狭しと段ボールが積み上げられたリビングの真ん中で、紬が両手を突き上げて上機嫌で走り回っている。ここが自分たちの新しいおうちであることがちゃんと分かっているのだろう。そのはしゃぎっぷりを見ているだけで、これまでの疲れが一気に吹き飛ぶようだった。
ドタバタだったマンションでの新生活がようやく落ち着き、新居の手続きもひと段落したころ。
待ちに待った嬉しいニュースが飛び込んできた。
舞香ちゃんの赤ちゃんが、無事に生まれたのだ。
母子ともに健康。本当に、本当によかった……!
大樹くんに続く二人目の赤ちゃんは、元気な女の子。
名前は、『菜月』と名付けたそうだ。
お兄ちゃんの大樹の「木」という響きにも寄り添うような、優しくて、かわいらしくて、とてもいい名前だ。
「律くん。早く菜月ちゃんに会いに行きたいなあ」
「うん、落ち着いたら大樹くんのお祝いも持って、みんなで顔を出しに行こう」
積み上がった段ボールの向こう、新しい窓から差し込む柔らかな光のなかで、私たちはこれからの新生活に思いを馳せる。
新しい家を手に入れた私たちと、新しい命を迎えた舞香ちゃんたち。それぞれの家族が、それぞれの場所で新しい一歩を踏み出したのだ。
◇
月日は流れ、紬が保育園で過ごす二年目の秋がやってきた。
世間が少しずつ冬の支度を始めるころ、紬の幼稚園への入園手続きが始まった。
今通っているのは二歳までしか預けられない小規模保育園なので、卒園後の三歳からの預け先を確保しなければならない、いわゆる『三歳の壁』だ。けれど、あの壮絶だった一歳児のときの保育園申し込みとは違って、卒園児への加点措置もあり、過度な競争に巻き込まれることもなく手続きは驚くほどスムーズに進んだ。
「これで、来春からの進路もひと安心やね」
律くんとそう胸をなでおろしていた、まさにその矢先のことだった。
私は、自分の身体がいつもと違う、かすかな異変を敏感に察知した。
どこか熱っぽく、それでいて不思議と穏やかな体調の変化。予感に導かれるようにお医者さんに診てもらったところ――お腹の中に、新しい小さな命が宿っていることが判明したのだった。
家に帰り、実感が湧くのを待つようにして、律くんにその事実を報告した。
すると律くんは、一瞬だけ目を見開いたあと、
「遥。すごい……ありがとう」
と言って、私の身体をそっと、しかし、愛おしさを噛み締めるように力強く抱きしめてくれた。彼の胸の鼓動が、心地よい温かさとなって私の背中に伝わってくる。
「……? あう?」
突然抱き合い始めたパパとママを見て、傍らできょとんとした顔のまま見上げている紬。
律くんは愛おしそうに目を細めると、床からその小さな身体をひょいと抱き上げた。
「紬。来年、お姉さんになるんだぞ?」
パパの言葉の意味はまだ分かっていないはずなのに、紬は律くんの腕の中で、何かが嬉しくてたまらないといった様子でキャッキャと高い声を上げて笑った。
幸せそうに笑う二人の姿を見つめながら、私はそっと自分の小さなお腹に手を当てる。
(あぁ……これからまた、目が回るほどあわただしい日々が訪れそうやな)
心の中でそう呟く。だけど、その忙しさを想像する私の唇は、自然と優しい弧を描いていた。
これから先、まだまだ、新しい家族と一緒にうれしいことや楽しいこともいっぱい経験するだろう。
それと同じくらい、思い通りにいかない大変なことだって、きっとたくさんあるに違いない。
そんな日々を、ただ無我夢中に、あわただしく駆け抜けていったその先。
私は、いずれ――本当に『資産一億』の資本家になれるのだろうか。
それはまだ、誰にもわからない。
だけど、もう焦る必要なんてない。
おじちゃんから貰った確かな知恵と、隣を歩んでくれる頼もしいパートナー、そして守るべき愛しい子どもたちがいる。
だから、ただただ、一日一日を、足元をしっかり踏みしめながら歩んでいこう。
大丈夫。
私たちが愛する家族との時間を全力で積み重ねていくその裏で、私たちの資産もまた、少しずつ、だけど確実に積み上がっていくのだから。
(完)




