47 保留児童わずか三十五人、一目惚れの街での船出
「認可保育園が厳しい競争の世界であることはよくわかったわ。そしたら、次は、島本が認可保育園に入りやすいか、調べてみよ」
「よし。他の都市とも比較して検討してみよう」
私たちは、再びWEBの広大な情報の大海へとダイブした。
各自治体のホームページを巡り、PDFの奥深くに眠る統計データを引っこ抜いていく。まず目に飛び込んできたのは、一般によくニュースで耳にする『待機児童数』の公表値だった。
「あれ? 律くん、見て。近年、江坂や千里中央がある吹田市で待機児童はたったの4人。高槻市に至っては『ゼロ』って書いてあるで」
「え……?」
「これ、全然余裕やん! おじちゃん、ちょっと脅しすぎやったんちゃう? 点数勝負とか心配する必要、そもそも最初からなかったんかも!」
私が拍子抜けして画面を指さすと、律くんは腕を組んだまま、神妙な顔つきで画面をスクロールさせた。
「……いや、遥。どうもそう簡単にはいかないみたいだ。これ、完全に『数字のマジック』に引っかかってるよ。僕たちが本当に見るべきなのは、表向きの『待機児童数』じゃなくて、その裏に隠れている『保留児童数』だ」
「ホリュウ……児童数? 何それ。待機児童とは違うの?」
「全然違う。本当の意味で『保育園を希望したのに入れなかった人の数』が保留児童数なんだ。その中から、親が育休を延長せざるを得なくなったり、特定の園しか希望しなかったりした家庭を『特定の理由があるから』って理由で強引に引き算して、極限まで削ぎ落として見栄えを良くしたのが『待機児童数』なんだよ」
「うわぁ……。またしても、お上はそうやってインチキ臭い情報操作を仕掛けてくるわけや。ほんま、ようやるわ。ある意味、その執念に感心するで」
「まさにその通りだね。で、今まで俺たちが住もうとしていたエリアの、リアルな落選者である『保留児童数』を調べてみたんだけど……。茨木市が375人。高槻市が408人。そして、江坂や千里中央のある吹田市に至っては、なんと815人!」
「桁違いやん! やっぱり、ファミリーに大人気の街は、保活地獄の超激戦区やったんや。数字にありありと出てるわ」
「しかもね、この保留児童の多さは認可保育園だけの問題じゃないみたいだ。認可外保育園の競争率も、基本的には認可の競争率に比例するんだって。認可に落ちた保留児童の多くが、今度はこぞって認可外に殺到するわけだからね」
「逃げ道、完全に塞がれてるやん!」
都会の保育戦争のすさまじさに、私が頭を抱えて唸っていると、律くんがふっとパソコンのキーボードから手を離し、私を見て小さく笑った。
「それでな、遥。問題の、島本町の保留児童数なんやけど」
「……うん」
私が唾を飲み込んで身を乗り出すと、律くんは画面を指さした。
「島本町の保留児童数は、わずか35人だって!」
「島本キタ!!」
私は椅子をガタッと鳴らして半分立ち上がり、思わずガッツポーズを作った。
「うん。他と比べたら圧倒的に少ない。俺たち、『最強の穴場』を見つけたかもしれないね」
◇
その後の私たちの動きは早かった。
「SUMOMO」で島本駅近くのめぼしい賃貸物件を見つけ、
翌日には不動産業者に連絡を入れ、翌々日には現地見学へと向かうことになった。
見事なまでに晴れ渡った、絶好の内見日和。
私たちは高槻駅で新快速から各駅停車に乗り換えた。
高槻を出発して間もなくすると、車窓の景色は一変し、のどかな田園風景が広がった。
「田舎やな」
「うん、田舎だね」
だけど、不便な遠さでは決してない。高槻を出てから5分もしないうちに、電車は島本駅に到着した。
不動産屋さんと待ち合わせている西口へと出る。
改札を抜けると、目の前には新しく再開発された低層の美しい街並みが広がっていた。スーパーやコンビニが整然と並び、何より、遮るもののない空が広い。駅前ロータリーから西に延びる道路の向こうには、青々と緑を湛えた山々がすぐ近くまで迫るように連なっている。
まるで、大自然の懐にそっと抱かれた、小さな、だけど新しく綺麗な箱庭のような街。
駅へ向かってのんびり歩く親子連れや、コンビニの前で楽しそうにおしゃべりをしている女子高生たちの姿が見える。行き交う人々には、高槻や茨木、ましてや梅田のような、周囲を押しつぶさんばかりの人波の重圧がどこにもない。
「わたし、ここに住みたい」
気がつけば、頭で考えるより先に、言葉が口からこぼれ落ちていた。
利便性がどうとか、保活の点数がどうとか、もうそんな理屈じゃなかった。完璧な一目惚れだった。
◇
「あ、すみません! もしかして水野さんですか?」
ロータリーの風景に見惚れていると、後ろからスーツ姿の爽やかなお兄さんが声をかけてきた。今回、物件を案内してくれる不動産会社の山下さんだ。
「初めまして! 本日はよろしくお願いします」
お互いに丁寧な挨拶を交わし、私たちは山下さんの案内で、さっそくお目当てのマンションへと車で向かった。
車を走らせること、わずか数分。
美しい山々に見守られるように佇む、昔ながらの落ち着いた街道沿い。そこに、その築3年の2LDKマンションは建っていた。島本駅からは歩いてたったの5分という好立地だ。
オートロックを抜けて部屋に入ると、風通しが良く、内装や水回りの設備もまだピカピカで、最新のものばかり。いつか家族が増えても、ここなら優しく迎え入れられそうだ。
◇
現地をじっくり見学した後は、不動産屋さんの事務所へと移動し、街の施設など細かい点の説明を受けることになった。
私たちが一番気にかけていたのは、将来生まれてくるかもしれない私たちの子供の生活環境だ。
「島本町はコンパクトなエリアですから、駅の周辺に認可保育園や小規模保育、幼稚園、それに公立の小学校、中学校がすべて徒歩圏内に綺麗にまとまっているんですよ」
山下さんが地図を指差しながら、丁寧に教えてくれる。
「高校も島本にありますし、電車に乗れば高槻や茨木のいろんな進学校にもすぐ通えます。もちろん大学も、関関同立をはじめ近畿圏の主要な大学はすべて自宅からの通学圏内です。若干のどかな田舎ではありますけど、そこはやっぱり、大阪と京都を直結するJR京都線沿線の強みですね」
山下さんの言葉に、深く納得する。ただ家が安いだけじゃない。子どもの未来の選択肢を狭めないだけの、確固たる交通インフラがこの各駅停車の駅にはちゃんと担保されているのだ。
「あと、このあたりは本当に自然が豊かでしてね」
山下さんは少し表情を和らげて、嬉しそうに付け加えた。
「近くの水無瀬川で水遊びもできますし、夏になれば綺麗なホタルが飛ぶんですよ。すぐそこの神社の境内では、夏休みにカブトムシだって取れます」
「それ、すごいいいですねー」
山下さんの話に律くんが目を輝かせながら共感する。
そして、山下さんは少し声のトーンを抑え、親身になって伝えるように言った。
「実は島本って、ファミリー層に人気がある一方で、こういった築浅の賃貸物件がすごく少ないんですよ。水野さんがこのタイミングでこのお部屋に巡り合えたのは、本当に運命的なタイミングだと思いますよ!」
山下さんのそんな、プロらしい「殺し文句」が、私たちの背中を優しく、力強く後押ししてくれた。
「……ここにしようか」
「うん!」
律くんと視線を合わせ、力強く頷き合う。
私たちはその場で、この光に満ちた新しい部屋を、自分たちの新たなスタートラインにすることを決めた。
◇
翌日、会社のお昼休み。
沓沢さんと二人で昼食を食べているときに、新居を決めた旨を報告した。
「え、島本?どこ?」
沓沢さんが素っ頓狂な声を上げた。
私は、当初は江坂あたりを考えていたこと。そこから、おじちゃんのアドバイスをヒントに、子供の保育園への入園と将来の不動産購入を見据えた大調査の結果、京都との県境にある奇跡のエリア・島本にたどり着いた顛末を、熱を込めて一気に話しきった。
私のノンストップのマシンガントークを、沓沢さんは驚きと納得が交互に押し寄せるような表情で聞き入っていた。
すべてを話し終えると、彼女は箸を置き、はーっと深いため息を吐いた。
「吉川さん……。ほんま、あんたの先見の明には、いまさらながら、驚かされるわー」
沓沢さんは、両手をあげて降参といった風に肩をすくめ、感心しきりといった様子で首を振った。




