46 高所得世帯の保活弱者と、五千万円台の奇跡の穴場
「おじさんの言うとおりだね。通勤時間に多少時間がかかるのは承知で、別の地域を検討してみようか?」
律くんが神妙な面持ちで提案する。
「そうやね。そしたら、やっぱり北摂がええなあ。うちの実家にも近いし、いざというとき助けてもらいやすいしね。……よし、JR京都線沿線で調べてみようか?」
「うん。JR京都線なら俺の会社へも乗り換え一回で済むし、アクセスとしては十分良いかもね」
「よし、きまり! そしたら、まずは高槻市を調べてみよう。舞香ちゃんも住んでるし、何より新快速が止まるのがデカい! 新快速やったら、大阪までたったの15分やしね」
「うん、大阪まで15分は好条件だね。よし、さっそくSUMOMOで検索してみるよ」
律くんがキーボードを叩く手にも、がぜん熱がこもり始めた。
律くんが手際よくキーボードを叩く。
条件は【高槻駅・徒歩5分以内】【3LDK】【築10年以内】。
パチン、とエンターキーが響く。
結果は1件ヒット。そこに表示された価格は――7,500万円。
「えっ、高槻、高い……!」
思わず絶句する。これでは、ついさっき絶望した千里中央の価格と何ら変わりはないではないか。大阪市内から離れているとはいえ、新快速が止まる北摂の代表都市。やはりその人気は凄まじく、私たちの安全予算なんて鼻で笑うようなバブルの熱気がそこには渦巻いていた。
ならば、その隣の茨木駅ではどうだろう。新快速が止まらない分、少しは安くなっているはずだ。
「じゃ、じゃあ。律くん。となりの茨木駅で検索してみて」
「わ、わかった」
律くんがさっきと全く同じ条件のまま、対象を「茨木」に変えて検索ボタンを押す。
画面が切り替わり、ヒットしたのはやはり1件。だが、そこに躍り出た数字を見た瞬間、私たちの思考は完全にフリーズした。
――7,950万円。
「高槻より、高ッ……!」
叫び声に近い声が部屋に響く。
でも、すぐに心当たりが頭をよぎった。茨木。あの辺りは、昔から大阪の超エリート文教地区として名高い。地元の名門校を擁し、教育環境を何より重視する富裕層や転勤族が、こぞって大金を積んででも家を欲しがるブランドエリアなのだ。新快速が止まるかどうか、なんていう単純な通勤利便性だけで測れる街ではなかった。
「JR京都線を、完全に甘く見てたみたいやわ」
ぽつりと、ひとりごちる。せっかく視野を広げたのに、またしても予算の壁に跳ね返され、完全に振り出しに戻ってしまった。北摂という巨大な牙城は、どこまでいってもサラリーマンの夢を打ち砕いてくる。
「もう、築浅とか駅近とか、諦めなあかんのやろか…」
重苦しい沈黙が流れる中、ふと、画面を凝視していた律くんが呟いた。
「ねえ、遥。高槻の向こう隣りに『島本』って駅があるけど……ここはどうだろう?」
島本。
正直、高槻から向こう、京都へと続く線路の途中にそんな駅があったことは知っているけれど、これまで住まいとして意識したことは一度もなかった。完全にノーマークの街。
「……試しに、調べてみる?」
「うん」
そう言って、律くんは微かな希望を託すように、条件のエリアを「島本」に変更し、エンターキーを叩いた。
画面がパッと切り替わる。
表示された検索結果は、2件。
そして、そこに並んでいたのは、目を疑うような数字だった。
――いずれも、5,000万円台。
駅徒歩2分、築2年のピカピカの築浅マンションが、私たちの絶対安全ラインである5,150万円の枠内に、奇跡のようにすっぽりと収まっている。
……嘘でしょう。
わたしと律くんは、どちらからともなくゆっくりと顔を見合わせた。
「なあ、律くん。わたしら……とんでもない穴場、見つけてしもたかも」
その一言と同時に、部屋の空気が一気に明るくなった。
もちろん、まだ物件を見たわけでもない。
街の雰囲気も知らない。
本当に自分たちに合う場所なのかも分からない。
それでも――。
何時間も出口の見えない迷路を歩き続けた末に、ようやく一筋の光を見つけたような気がした。
◇
「よし、次、保育園調べていこうか」
「うん。島本が保育園も入りやすかったらよいのだけど」
それから、私たちは手分けして「そもそも保育園ってどうやって入るのか」という、基本的なシステムから調べてみることにした。
そこから見えてきた保育園入園活動、通称「保活」の仕組みは、想像以上に冷徹で、いくつかのルールに支配されていた。
まず、保育園には国や自治体の基準をクリアした「認可保育園」と、それ以外の「認可外保育園」がある。
「ねえ、律くん。うちらの世帯年収って、合算したら1千万超えるやん?」
「うん、そうだね。それが何か関係ある?」
「大ありや。認可保育園の保育料って所得連動やから、うちらレベルの年収やと、0歳から2歳の保育料はほぼ『最高ランク』が適用されて、毎月7万から8万円近く取られることになるみたい。でも、所得に関係なく料金が一律の認可外保育園なら、月5万から6万円台で預けられるところも普通にあるんやって」
「えっ、じゃあ費用面だけ見たら、認可保育園にこだわる必要はあんまりないってこと?」
「そう。だからうちらの場合は、認可、認可外のどちらかに縛られる必要はない。両方を視野に入れて、通いやすさや保育の質、預かり時間なんかをフラットに比較して選べるのが強みやね。ただ、それでも人気のある認可保育園の選択肢は持っておきたい。その認可に入るためのハードルが、想像以上に高そうやねん」
私は画面をスクロールしながら、認可保育園の選考システムについて律くんに見せた。
認可保育園に入るためには、自治体による「点数(指数)」の審査をクリアしなければならない。
点数のつけ方は細かく定められていて、基本的には「両親がフルタイムで共働きか」といった就労状況でベースとなる「基準指数」が決まり、さらに「すでに兄弟が同じ園に通っているか」といった家庭環境で「調整指数(加算ポイント)」がプラスされていく仕組みだ。
もし最終的な点数が同じで並んだ場合は、基本的には「所得が低い世帯」の方が優先して入園を認められる。
そしておじちゃんが言っていた通り、育休明けのタイミングが重なる「1歳児枠」こそが、年間で最も競争率が高くなる最大の鬼門なのだ。
「こんなにシステム化されて点数で競わされるなんて、まるで受験だね……」
律くんがパソコンの画面を見つめたまま、がっくりと肩を落としてため息をつく。
「ほんまやなぁ。必死に受験勉強して、就活がんばって、やっと結婚できたと思ったら、今度は子どもを育てるために点数勝負やなんて。ほんま、世知辛い世の中やで……」
私も画面の点数表を睨みつけながら、ため息を重ねた。
さらに調べていくうちに、よりシビアな現実がわかってきた。
多くの認可保育園、特に人気の高い園の合格ラインは、当然のように「両親フルタイム共働き」の満点(基本点)がスタートラインになっている。
つまり、共働きというだけではアドバンテージにならず、ただの「最低条件」に過ぎないのだ。
「これ、かなりまずいで、律くん。私たちには当然まだ、兄弟が同じ園にいるっていう加算ポイント(加点)は無い。その上で満点同士の同点並びになったら、世帯年収で比較されるんやろ? 私たちの会社、二人とも給料が良い方やから、高所得の部類に入ってしまう。つまり、同点対決になったら、私たちは優先順位の最後尾に回されて、真っ先に落とされるってことやん……」
「……確かに。所得が高いことが、ここではかえって不利に働くんだね」
律くんの顔に焦りの色が浮かぶ。
認可保育園の保活において、私たちは「加点なし・所得上限で最弱」という、かなり厳しい戦いを強いられることが予想された。




