44 借り上げ社宅の罠と、おじちゃんが語る『1歳の壁』
「お義父さん、遥さんを僕にください」
勢いよく頭を下げた律くんに対し、お父さんは、みるみるうちに目を泳がせながら、
「娘を幸せにしてやってくれ……」
と声を詰まらせながら言うもんだから、隣で聞いていた私は、おかしいやら、うるっとくるやら、目まぐるしい心情の変化に襲われていた。一世一代の決意を固めて顔を真っ赤にしている律くんと、まるで今生の別れかのように肩を震わせているお父さん。傍から見たらかなり滑稽な風景なんだろうなって、どこか冷めた頭で思ったりもした。
それからは、絵に描いたような怒涛の日々が始まった。
式の準備、入籍の手続き、新婚旅行の計画。何もかもが同時に押し寄せてきて、地に足がつかない浮足立った毎日。そんな慌ただしさの中で、私たちは新婚生活の拠点となる新居をどこにするか、具体的な話し合いをまだ出来ずにいた。
その答えを出す機会は、意外な形で、そしてあまりにも強烈な形で訪れることになる。
それは、律くんを篤史おじちゃんに紹介するため、石橋阪大前にあるおじちゃんのマンションを訪れた時のことだった。
おじちゃんは今、あの広いマンションで一人暮らしをしている。従妹の舞香ちゃんは去年結婚し、今は高槻にある勤務先の病院の近くのマンションで新婚生活を送っている。一人きりになってさぞ寂しがっているかと思いきや、本人は「人生最後の奉公や!」と、相変わらずエンジニアの仕事を精力的にがんばっているらしい。相変わらずタフな人だ。
おじちゃんが奮発して取ってくれた出前の特上寿司を囲み、三人での賑やかな夕食が始まった。お酒も少し入り、打ち解けた空気の中で、新居をどこにするかという話題になった。
「江坂あたりにしようかと思ってるんです。会社へ御堂筋線一本でいけるし、都会で便利ですし」
律くんがスマホの不動産アプリでいくつか目星をつけた物件を見せながら、楽しそうにおじちゃんに話しかける。
私も隣から身を乗り出して、
「そうそう、お店もいっぱいあるし、めちゃくちゃ生活しやすそうやねんなぁ」
と同意した。
さらに、律くんは少し得意げに胸を張って続けた。
「僕の会社には『借り上げ社宅制度』があるんです。家賃の上限は15万円なんですけど、最大10年間、会社が8割も補助してくれて、個人負担はたったの2割で済むんです。場所も規約内なら好きに選んでいいので、江坂の15万クラスのマンションでも、僕たちは月3万円の負担で住めちゃうんですよ」
さすがは大手企業。福利厚生 of 福利厚生といった充実っぷりは、目を見張るものがある。
これなら江坂での新生活も、かなり余裕を持ってスタートできるはず。バラ色の新婚生活を夢見て、おじちゃんからの「いい会社やなぁ」という言葉を期待していた。
しかし、おじちゃんはトロの乗った醤油皿をそっと置き、眼鏡の奥の鋭い目をきらりと光らせた。
「ちょっと待ちぃ、二人とも。その選択は、資本家への第一歩を踏み外す大失策や」
「え……?」
おじちゃんの口から飛び出した「大失策」という不穏なワードに、律くんの箸がピタッと止まった。
◇
「まず、遥、資本家になる目標は、まだ、持ってるか?」
おじちゃんは、手元のビールグラスを置くと、私をまっすぐ見つめて聞いてきた。
「もちろんやで。そのために、今までがんばってきたんやからね」
私が即答すると、おじちゃんは深く一度頷き、今度は律くんの方にも視線を向けながら言葉を続けた。
「そしたら、結婚してからも、仕事の優先度は下げるにせよ、しばらくは共働きは続けなあかん」
「うん。そのつもりやで。私も律くんも、お互い仕事を辞める選択肢は今のところ考えてへんし」
「そのうえでやけど、遥、子供は欲しいと思っているか?」
「いややわあ。おじちゃん、いきなり、そんな質問。ちょっと照れるやんか」
私は思わず頬が熱くなるのを感じて、手元のお茶をすすった。おじちゃんは悪びれもせずに、少し真面目な顔をして苦笑いする。
「ぶしつけな質問で悪いなあ。でもな、これが家を選ぶ上で一番大きい分岐点になるんや」
「そうなん……? じゃあ、まじめに答えると、子供はできれば欲しいよ。なあ、律くん」
私が隣を向くと、律くんも少し耳を赤くしながら、でもハッキリと頷いた。
「うん。子どもは欲しいね。僕も遥も、将来は賑やかな家庭にしたいって話してるんです」
「そうか。そしたらな、遥、律くん。これから探す住み家は、子供の将来のライフステージを見据えて計画せな、あかん」
「子供のライフステージ……?」
私がオウム返しに尋ねると、おじちゃんは人差し指をスッと立てた。
「そう。子どもができたらな、良くも悪くも、家族の生活はすべて子供中心で回るようになるんや。それでな、まず二人が一番に気をつけなあかんのは、『1歳の壁』や!」
「1歳の壁?」
初めて聞くその不穏な言葉に、私と律くんは思わず顔を見合わせた。
おじちゃんは特上寿司の穴子に箸を伸ばしながら、静かに、だけど重みのある声で語り出した。
「そう、『1歳の壁』。まず1歳までは、最長で育休が取れるやろ。そこまでは、ぶっちゃけ日本のどこに住んでいようと生活自体に問題はない。問題はその後や。育休が明けたら共働きが再開されるわけやから、当然、子供は保育園に預けなあかんわな」
「うん。そうなるね。私も律くんも、復職するのが前提やし」
「でもな、江坂みたいな人気の高い都会は、保育園の超激戦区や。ハッキリ言って、希望したからって入れるとは限らへんのやで」
「えっ。そうなん……?」
私は絶句した。江坂といえば、転勤族にもファミリー層にも大人気の街だ。お洒落で便利で、子育て世帯もたくさん住んでいるイメージだったから、まさかそんな過酷な現実があるなんて思いもしなかった。
「それで、もしや。保育園に子供を入れれへんかったら、何が起きると思う?」
おじちゃんから突きつけられた問いに、私の脳裏を最悪のシナリオがよぎる。
「……そんなん、私、仕事に出られへんやん!」
「そういうことや。最悪の場合、遥は仕事を辞めざるを得なくなる。せっかくここまで積み上げてきたキャリアが、そこで一瞬にして途絶えるんや」
「なるほど……。せやから、『1歳の壁』なんやね。」
深く納得する私を見て、おじちゃんは我が意を得たりと頷いた。
「そう。若いうちはな、自分たちの通勤のしやすさを第一に考えたい気持ちはようわかる。でもな、君らの勤めているような大企業なら、フレックス制度やリモートワークの制度がしっかり整備されているやろ。それらをフル活用したら、通勤時間のうんぬんなんて、工夫次第で意外とどうにでもなるねん。でもな、子供の保育園の問題だけは、個人の努力や工夫じゃもうどうにもならん」
おじちゃんの言葉が、ストンと胸に落ちていく。いくら私たちが優秀なサラリーマンであっても、行政の「保育枠」という絶対的な数だけは、力技で増やすことも買うこともできないのだ。
「つまり……多少通勤に時間がかかっても、最初から保育園に入りやすそうな地域を探して、そこに居を構えるべきってことやね。おじちゃん、ようわかったわ!」
「そういうことうや。それでな、保育園の後なんやけど」
「あ、まだ、続くんやね!」




