42 イブのお誘いと策士の策略
一世一代のお願いを無事に終え、張り詰めていた緊張が解けて一安心した私は、以前から聞くに聞けなかった疑問を、この機会に思い切ってぶつけてみることにした。
「吉川さん。たぶんやけど……ずっと前、そう、あのゴッホ展のときから、私と宇佐美くんのこと、応援してくれてたよね? それは、なんでなん?」
「なんでって。そりゃあ、沓沢さんが宇佐美くんのこと好きなん、傍から見ててバレバレやったしね」
吉川はカクテルをストローで混ぜながら、事も無げに言った。
「え、嘘っ……!? なんで、そんなん分かるの!?」
自分では完璧にポーカーフェイスを貫いていたつもりだっただけに、私は本気でうろたえてしまった。
「それにね、沓沢さんと宇佐美くんって、私の『推し』やねん」
「お、推し……っ!?」
バーの静かな空間に、私の素っ頓狂な声が少しだけ響いた。
「そう。ふたりとも、めっちゃ真面目で、物静かで……なんか変なたとえやけど、男の律くんと女の律くんが二人並んでるみたいに見えるんよね。見てて純粋に微笑ましいし、なんか無性に応援したくなるんよ」
「そ、そうなんや……。でも、たったそれだけの理由で、いつもWデートに誘ってくれたり、この前はディズニーにまで連れてってくれたん?」
驚きを隠せなかった。彼女にとっては何気ない動機だったとしても、ただの同僚に過ぎない私のために、そこまで膨大な時間と労力を割いてくれていたなんて。
しかし、私のその言葉を聞いた吉川は、今度は逆に不思議そうな顔をして私を見つめてきた。
「なに言うてるの? 私ら、友達やん?」
その言葉が耳に届いた瞬間、視界が急激に熱くなり、目の前がじわりと潤んでいくのが分かった。
──私は、あの当時、ひとりで勝手に彼女との間に壁を作り、どこか冷めた目で見つめてしまっていたというのに。
彼女はそんな私の不器用なプライドなんて最初から気にも留めず、ただただ一人の大切な「友人」として、私のことを見て、真っ直ぐに向き合ってくれていたのだ。
彼女の、打算も気取りもなく、真っ直ぐに人の懐へ入ってくる無邪気な優しさ。──その圧倒的な器の大きさを、私はこの期に及んで、改めて思い知らされた。カウンターの薄暗い灯りの中で、私は涙をこらえるように、ただ小さく何度も頷くことしかできなかった。
◇
うちに帰り、シャワーを浴びて出てくると、ベッドの上に置いていたスマホが短く震えた。画面を見ると、吉川からのLINEが届いていた。
『宇佐美くんに探りを入れといた! イブは今のところ予定無しとのこと。勝機ありやで!』
──ああ。まさか、こんなことまで、しかもこんなに早く動いてくれるなんて。
バーで別れてから、まだ数時間しか経っていない。あまりにも鮮やかすぎるそのスピード感に、私はただただ圧倒されていた。
同時に、ずいぶん前に彼女が何気なく口にしていた言葉が、不意に脳裏をよぎる。
──「早すぎる仕事はな、それだけで相手を感動させるんよ」
その通りだ、と私は思った。
私は、もう、吉川遥という人間に、完全に心臓をわしづかみにされていた。
驚きと、気恥ずかしさと、それを優に超える愛おしさが胸に満ちていく。私は濡れた髪のままベッドに倒れ込み、小さく息を吐きながら、誇らしく頼もしい彼女のLINEに「ありがとう。わたし、がんばってみる」と精一杯の感謝を打ち込んだ。
◇
それは、あまりにも突如として訪れた。
吉川さんに相談した夜の、まさに翌日の昼食時のことだった。
社内の食堂。その日は本当に久しぶりに、私たち同期四人全員がいつものテーブルに揃っていた。
お互いの部署の近況を報告し合い、他愛のないお喋りに花を咲かせながら、食事が終わりに差し掛かったその時。
吉川さんが不意にスッと立ち上がった。
「わたし、お茶おかわりしてくるわ。ついでにみんなの分も汲んできてあげる」
そして、まだ箸を動かしていた沢田の肩をポンと叩く。
「沢田くん、ちょっと重いから手伝って」
「え? 俺? 別にええけど……」
急に指名された沢田が、怪訝そうな顔をしながらものそのそと立ち上がる。
二人が席を外すその去り際、吉川さんは沢田の死角から、私に向かってそっとウインクを送ってきた。
(え、今──!?)
あまりの展開に、私は危うく声を上げそうになった。
二、三日中にチャンスを作るとは言われていたけれど、まさかこの賑やかな食堂のド真ん中、しかもこんな抜き打ちのようなタイミングだなんて、完全に意表を突かれた。
引き止めようにも、吉川さんはすでに沢田の背中を押して給茶機の方へと歩き去ってしまっている。
急激に静かになったテーブル。動揺を隠せないまま、私がふと視線を戻すと──不意に、宇佐美くんと目が合った。
宇佐美くんはいつもと違って、何やら真っ直ぐに私を凝視している。その瞳は、まるでこちらの出方をじっと待っているかのように、何かを訴えかけているように見えた。
ドクン、と心臓が跳ね、口から飛び出しそうになる。冷や汗が背中を伝う。
逃げ出したい。また頭の中で、日本の未婚率のデータを引っ張り出して現実逃避を始めそうになる。
『今やで、沓沢さん』
耳の奥で、確かにあの頼もしい同期の声が聞こえた気がした。
私はぐっと拳を握りしめ、逃げ道を塞ぐように、震える声を絞り出した。
「宇佐美くん。……今月の24日、ふたりで会えへんかな?」
言ってしまった。
宇佐美くんは驚いたように、一瞬、動きを止めて私を見つめた。
食堂の喧騒が遠のき、数秒の沈黙が永遠のようにつづく。
やがて、宇佐美くんの口元が、ゆっくりと優しい形に緩んだ。
「ええよ。もちろん」
彼はそう言って、柔らかく微笑んでくれたのだ。
「誘ってくれて、ありがとう」
じんと、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
あまりの安堵と喜びに、私は宇佐美くんの端正な顔から目を離すことができなくなっていた。世界に二人きりになってしまったかのような錯覚さえ覚える。
そこに。
「はい、お待たせー。熱いから気ぃつけてな」
トレイにお茶の湯呑みを載せた吉川さんと沢田が、何事もなかったかのように戻ってきた。
席につくなり、沢田が私の顔をじろじろと覗き込んできた。
「あれ? どうしたん? めっちゃ嬉しそうな顔しとるけど」
「別に、なんでもないよ」
私は慌ててお茶をすすり、平静を装った。チラリと吉川さんの方を見ると、彼女は、何食わぬ顔で「ふぅ」と満足げにお茶をすすっていた。
◇
食堂から職場のフロアへと戻るなり、私は自分の席へ滑り込み、隣の吉川さんがデスクに腰を下ろす瞬間に、その両手を引っ掴むようにギュッと握り締めた。
「……宇佐美くん、オッケーしてくれた」
声を潜め、けれど興奮を隠しきれないトーンでそっと伝えると、吉川さんはパッと目を見開いた。
「ほんまに!? よかったやん、沓沢さん! ほんまによかったなぁ……!」
吉川さんは自分のことのように顔をほころばせ、私の手を握り返して大喜びしてくれた。
「実はな、昨晩、宇佐美くんに探り入れたときに、ちょっとだけ煽っといたねん」
吉川さんが自席の椅子を少しこちらに寄せ、悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いてきた。
「……へ!?」
「沓沢さん、職場で結構人気あるんやで。宇佐美くん、うかうかしてられへんよ?──ってね」
それを聞いた瞬間、私の脳裏にさっきの食堂での光景がフラッシュバックした。
お茶を汲みに行った二人を待つ間、妙に真っ直ぐに私を凝視していた、あの宇佐美くんの視線。
「ちょっ、吉川さん! それ、いくらなんでも言いすぎやて……っ!」
昼休みの職場に、私の声が響いた。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
次回「新入社員編」最終回となります。
本作を応援してもいいよという方は、ぜひページ下部にある【ブックマークに追加】や【いいね】、★★★★★評価を押していただけると執筆のめちゃくちゃ励みになります!よろしくお願いします。




