39 夢の国と株式投資(後編)
見れば、彼らは二人で仲良く肩を寄せ合い、一台のスマホ画面をじっと眺めながら和やかに談笑している。その姿だけを見れば、パークのどこにでもいる微笑ましいカップルそのものなのだが、いかんせん、会話の続きが微笑ましいカップルのそれとは完全にかけ離れていた。
「あぁ、オリエンタルランドを買うってことやね? 100株で1年で無料チケット1枚かぁ」
「そう。このチャート見て。最近、株価はかなり安くなってきていて、見方によってはお買い得ともいえると思うんだよね」
「でもなぁ、チャートは完全に崩れてもうてるねぇ。まだ下げ止まったとは言えへんよ」
「そうかぁ……。やっぱり今手を出すのはリスクがあるかな」
「あ、それにこれ見て。優待もらえるの『3年以上の継続保有』が条件やて。さすがに長すぎやろ。あ、律くん、ちょっと優待利回り調べてみて」
「ええと、ちょっと待ってね……。あ、100株保持の場合、配当利回りと優待利回りを合わせて4%くらいだね」
「うーん、微妙やな。PERやPBRで見てもまだ割高な気がするし、あえて今これを取りに行くこともないかなぁ」
「そうだね。オリエンタルランドを買うより、他の高配当銘柄を選ぶ方が賢明な気がするね」
二人は完全に周囲の喧騒をシャットアウトし、どっぷりと「ふたりの世界」に浸りながら、何やら私には理解できない専門用語を並べて真剣に話し合っていた。
「水野くん。オリエンタルランドって何?」
横から、宇佐美くんが興味津々に声を潜めて口を挟んだ。
ふたりは同時に顔を上げ、「あっ」と声を揃えた。
「おっとごめんな、内輪の話で盛り上がってもて」
吉川が申し訳なさそうに頭を掻く。
「オリエンタルランドっていうのはね、このディズニーリゾートを運営している会社のことだよ」
水野くんが丁寧に教えてくれた。
「へえ、そうなんや!」
宇佐美くんが素直に感心の声を上げる。
実は、それは私も知らなかった。知らないというか、ディズニーリゾートを運営している会社がどこかなんて、これまでの人生で気にしたことすら一度もなかったのだ。そうか、オリエンタルランドという名前の会社がここを動かしているのか。一つ勉強になった。
「オリエンタルランドを買うって、どういうこと?」
宇佐美くんがさらに続けて質問する。
「つまり、オリエンタルランドの会社の株を買うってことだよ。そうすると株主優待制度があって、毎年ディズニーのワンデーパスポートをプレゼントしてもらえるんだ」
「へえー! そんな制度があるんや。惹かれるなあ。それ、いくらくらいで買えるん?」
「今の株価だと、100株でだいたい24万円くらいかな」
「うわあ……めっちゃ高いやん」
「そうなんだよね。だから、ちゃんと吟味して買わないといけないんだ。結局、遥とは『今はまだ買い時ではない』って結論に達したんだけどね」
「へえー、すごいなぁ……」
宇佐美くんが完全に感嘆の声を漏らしている。
実は、私も内心で激しい衝撃を受けていた。
ディズニーランドにまで来て、アトラクションの列でリアルな株取引の相談をするカップルなんて聞いたことがない。
しかしそれ以上に、あのいつもどこかトボけた風な吉川が、PERだのPBRだのチャートだのといった株の専門用語をすらすらと使いこなしていることに驚愕した。
(いや、待てよ。……心当たりはある)
私はハッとして、以前、彼女が会社の食堂で吉川が確定拠出年金について流暢に説明していた姿を思い出した。あの時彼女は「これでも経済学部卒やで」と胸を張っていた。さすがは経済学部、大学の4年間で叩き込まれた知識の年季が違うということなのだろうか。
「水野くんって、普段から株とか買ったりしているん?」
宇佐美くんの知的好奇心に完全に火がついたようで、さらに興味津々に尋ねる。
「うん。まぁ、お小遣いの範囲で少しずつだけどね」
「へぇ! いつから始めているん?」
「最初に株取引をしたのは、大学1年の終わりくらいかな」
「学生時代から! すごいなぁ。さすが経済学部やなぁ」
宇佐美くんはひとしきり感心したあと、なるほどと大きく頷き、こう問いかけた。
「じゃあ、吉川さんも水野くんに教わって株を始めたってこと?」
その質問を聞いた瞬間、水野くんは一瞬ポカンとした表情を浮かべ、それから可笑しそうに笑った。
「あ、違うよ。僕が遥に教わったんだよ」
「「え!?」」
宇佐美くんと私の声が、見事にハモった。完全に絶句である。
水野くんの隣で、吉川が「えへへ」といつものように小さく頭をすぼめて照れている。
嘘でしょう。この、のほほんとしている吉川遥が、水野くんの株取引の先生だと……!?
「ええっ、それは完全に想定外やわ……。じゃあ、吉川さんは一体どうやって学生の身で株取引なんて始められたの?」
宇佐美くんが思わず尋ねると、吉川は人差し指で頬をチクチクと掻きながら言った。
「ええとやね、親戚の叔父さんに教えてもらって。高校2年の終わりにはじめてん」
「「高2──っ!?」」
またしても、宇佐美くんと私は同時に声を上げ、完全に言葉を失った。
吉川が時折見せる、あの経済に対する深い知識と、獲物を狙うような鋭い眼光。そのすべてのルーツが、まさか高校2年生という段階まで遡るとは。大学4年間どころの話ではない。とっくに相応のキャリアを重ねてきた、筋金入りの玄人なのだ。
それに比べて、だ。
以前、企業型確定拠出年金の説明を会社で受けた際、安全だからという理由だけで定期預金に100%全振りしていた私。途端に猛烈に恥ずかしくなってきた。
夢の国に響き渡る楽しげなBGMの裏で、私は自分のマネーリテラシーの低さを痛感し、心の中でひっそりと白旗を上げるのだった。
◇
夕食は、カリブの海賊の出発地点に隣接する「ブルーバイユー・レストラン」でとることにした。
夕暮れの入江をイメージした薄暗い店内は、周りを見渡してもカップルの姿が目立つ。そんなムード満点の贅沢な空間に身を置いているだけで、私の胸は自然と高鳴っていた。
ロマンチックな雰囲気に浸りつつ、運ばれてきたコース料理に舌鼓を打ち込んでいると、宇佐美くんがふと、昼間の話題を切り出した。
「昼間の話やけどさ、水野くんって今、株式投資に回す余力ってどれくらいあるん? 俺なんてまだ入社一年目で給料も安いから、日々の貯金すらままならへんよ。水野くんも、いくら最大手のSIerに勤めてるとはいっても、俺たちと同じ新入社員やん? 懐事情は俺なんかとおんなじくらいなのかなって、勝手に想像してるんやけど……」
そうなのだ。以前のダブルデートのときに、水野くんの勤め先は聞いていた。業界でも指折りの、最大手SIer企業。かつて吉川の彼氏だと知ったばかりの頃、「どうせ中小のIT企業あたりに勤めているのだろう」と勝手に格下に見なして決めつけていた自分が、今となっては本当に申し訳ない。この水野くんを見れば、その超優良企業勤務という肩書きにも十二分に納得がいく。私は心の中で、当時の無礼を全面的に訂正し、深くお詫びした。
「いや、まさに宇佐美くんの言う通りだよ。株の話で遥と盛り上がってはいたけど、実際、今はほとんど投資に回せていないんだ。投資よりも遥との時間にお金を使いたいし、それに、奨学金も返していかないといけないからね」
「そうかぁ、やっぱりそうやんな。……あ、水野くんも奨学金借りてたんや。実は俺も借りてたねん、第一種奨学金。この先ずっと返済が続いていくんかって思ったら、なんか気が重いわ」
そうなのか。世間では何かとマイナスに語られがちな奨学金制度だけれど、結局のところ、みんな当たり前のように利用しているのだ。
かくいう私も、その一人である。
「あ、私も借りてた。第一種奨学金」
私が小さく手を挙げると、なぜか隣で焦ったように吉川もパッと手を挙げた。
「あ、私も! 私も第一種奨学金借りてたで!」
「なんだ、結局みんな一緒なんだね。じゃあこれからはみんなで励まし合って、頑張って返していこう」
水野くんが、いつもの穏やかな笑みを浮かべて私たちを見渡す。
それにしても──水野くんも吉川も、二人して奨学金を借りて大学に通っていたというのは、私にとって少し意外な事実だった。私たちのように実家から国立大学に通っていた身からすると、「私立大学に通う子=実家が裕福」という、一種の先入観がどうしてもあったのだ。どうやらこの二人の家庭は、決してそういうわけでもないらしい。しかも無利子の第一種を借りるとなれば、在学中もそれなりの優秀な成績をキープし続ける必要がある。
二人は、想像以上の努力を重ねてあの大学を卒業したのだ。かつて心の中で彼らをどこか気楽な私立文系と一括りにして考えていたことを、私はここで深く反省し、その認識を完全に改めることにした。
「俺さ、奨学金はできるだけ踏ん張って、どんどん繰り上げ返済していこうと思ってるねん。借金は一刻も早く返して、すっきりしたいしな」
宇佐美くんの言葉に、私は深く同意した。借金なんていう後ろ暗いものはとっとと完済して、一刻も早く綺麗な体になりたいと思うのが普通の感覚だ。
「私も、繰り上げ返済を最優先に頑張ろうと思ってる」
私はすかさず宇佐美くんに賛同の意を示した。
すると、水野くんは私たちの反応を見ながら、小さく苦笑した。
「うん、二人の言うことはすごく全うな考え方だと思う。でも、僕と遥は、少しだけアプローチが違うんだよね」




