37 本当のワークライフバランスを勝ち取るための戦略
今日の昼食は、吉川とふたりきりだった。
社内の食堂、四人掛けのテーブルにぽつんと二人で向かい合って座る。いつもなら埋まっているはずの空いている二席の空間が、どこか少し寂しい。
沢田は客先へ直行。宇佐美くんも朝から出張に出ていた。
最近、昼食時に四人全員が揃わないことが多くなってきた。
それぞれ配属された部署が異なり、ここ最近は本格的に責任のある仕事を割り振られだしたのだから、仕方のないことなのだろう。
それでも、私たちは同期の環境としてはかなり恵まれているほうだと思う。同じ本社ビルにいて、こうやって日常的に集まれること自体、世間一般で見ればむしろ稀なのだ。
職場によっては新入社員が自分一人だけというケースも珍しくないし、リモートワークの普及のせいで会社に入った途端にずっと在宅勤務、なんていうケースもあるらしい。
ただ、そんな恵まれた私たちであっても、今後、年次を重ねるにつれてますます四人揃うことが難しくなっていくことは、想像に難くなかった。
いつもの、沢田と吉川のやかましい掛け合いに、宇佐美くんとふたりで苦笑しながら箸を動かす昼食タイム。この、今までは当たり前だと思っていた何気ない風景を、いつか猛烈に懐かしく思い出す時が来るのだろうか。
──とはいうものの、だ。今日はあの騒がしい沢田もいないことだし、以前からちょっと吉川に対して気になっていたことを、この機会に聞いてみようと思い立った。
「吉川さんって、毎日めっちゃ仕事頑張ってるやん?」
「うん。そうやね。わたし、めちゃくちゃ頑張ってると思うわ」
スパイシーな野菜カレーを嬉しそうに頬張りながら、吉川は一切謙遜することなくあっさりと答えた。
「吉川さんって、本当に仕事が好きな筋金入りのタイプなんやね?」
「ううん。別に好きやないよ」
返ってきたのは、あまりに予想外の冷めた答えだった。その一言は、彼女の普段の日々の社畜ともいえる仕事ぶりとはどう考えても辻褄が合わない。
「わたしがまだ何にも分かってへんひよっこやからかもしれへんけどね。別に会社の業務システムの複雑な仕様理解とか、その改善業務とか……そういうのが好きでやってるっていうよりかは、会社から任された仕事やから責任持って頑張ろうって思って、ただやってるだけかな」
ますます分からなくなってきた。
「そうなん? じゃあ、なんで好きでもない仕事のために、毎日あんなに残業までして頑張ってるん?」
私の純粋な疑問に、吉川は「そうやねぇ……」と少し視線を落とした。そして、お茶をゴクリと一口飲んで喉を潤すと、静かに話を続けた。
「『将来、働かなくてよくなるように、今、全力で頑張って働いている』って感じやね」
「えっ……それって、会社辞めるってこと!?」
「ううん。そこまで極端な話ではなくてね」
驚く私を見据えながら、吉川のトーンが少し真剣なものに変わる。
「たぶん、近い将来に定年は70歳まで引き上げられるやん? かたや、日本人の健康寿命って男女合わせたら74歳くらいなのね。これって冷静に考えたら、私たち労働者は『体が動かなくなる直前まで国に働かされる』ってことやん。そんなの、私は絶対に嫌や。せやから私は、せめて30代に入る頃には、人生における労働の優先度をがくっと下げたいと思っている。いや、下げるつもりで動いてるねん。大切な家族のことや子供のことに時間を割きたいと思ってるからね」
私が思わず圧倒されてコクコクと頷くのを確認して、吉川はさらに言葉を重ねる。
「『ワークライフバランスを重視する』って、最近のトレンドとしてよく言われるやん? 私、あの考え方自体は大賛成なんやけど……でもな、みんなもう一つの決定的に大事な観点が抜けてしもうてるんよね。つまり、ワークライフバランスを重視した、ライフに寄せた生活を送るためには、相応の『原資』がいるってこと。まだ何も持っていない20代の早いうちから、ワークライフバランスの心地よさばかり追い求めてぬるく生きてると、いずれ生活するためのお金が尽きて、人生が行き詰まる。ワークライフバランスって、一生ずーっと同じ比率でバランスを取り続けましょうってことではなくて、『人生の各ステージで、ワークとライフの配分を戦略的に変えていくこと』やと思うねん」
吉川の口調は、いつしかいつもの経済学部特有の、熱を帯びたトーンになっていた。
「せやから私は、将来の本当の意味でのワークライフバランスを勝ち取るために、20代のうちに泥臭く仕事頑張って市場価値のあるスキルを身に付ける。会社の偉い人にも早いうちに実力を認めてもらって、なるべく早く昇進して、給料のベースを上げてもらおうと思ってるねん」
吉川はここで一旦言葉を区切ると、まっすぐに私を見た。
「これも受け売りなんやけどね。……『20代で開いた差っていうのは、その後の人生で一生埋めることはできへん』らしいねん」
ずしん、と胸の奥に重い塊が落ちてきたような衝撃が走った。
いつも上司に良い顔をして、まるで会社の犬か社畜の如く、何かに急かされるように仕事に邁進していた吉川遥。私は彼女のことを、ただの視野の狭い仕事中毒かと思っていた。だが、現実は違った。彼女はずっと先、人生のゴールテープを見据えた緻密な計画の上で、すべてを計算して行動していたのだ。
毎日遅くまで残る彼女の仕事ぶりに内心で呆れ返り、どこかで馬鹿にしていた、私──。
ワークライフバランスという、耳に心地よい表面上の言葉の響きだけを都合よく切り取り、自分の未来のことを何一つ具体的に考えられていなかった私のほうが、よっぽど、彼女よりアホで浅はかだったのだと思い知らされた。
冷めかけた食堂のお茶を飲み干しながら、私は隣で再びカレーをおいしそうに頬張る同期の横顔を、これまでにない畏怖の念を込めて見つめ直すしかなかった。
◇
翌日。
私は、上司から頼まれていたデータ分析の資料作成を、いつものように時間をかけて進めるのをやめ、集中して一気に仕上げた。そして、あらかじめ設定されていた期日よりも、丸一日早くデスクへ提出した。
上司は受け取った資料に目を落とし、少し意外そうな顔をして顔を上げた。
「お、沓沢さん。今回の資料作成、随分と早かったね。内容もしっかりしてるし、いやぁ、次の会議の準備が早くできるから本当に助かるよ」
「いえ、これくらいは普通です」
口元を引き締めながら冷静にそう返したけれど、心の中では(まあ、私が本気を出せばこんなもんですよ)と、小さく鼻高々になっていた。
──正直に言えば、昨日の食堂での吉川の言葉に、まんまとのせられているような気がして少々癪ではある。
だけど、あのずしんと響いた言葉を無視して、今まで通りぬるく過ごすわけにはいかない。
20代で開いた差は、一生埋まらない。
その言葉の本当の意味を噛み締めながら、私は私なりの「将来の、本当の意味でのワークライフバランス」を勝ち取るために、まずは目の前の仕事を圧倒的なスピードでこなすことから始めていこうと思う。
パソコンの画面に向かい直し、キーボードを叩く私の指先は、昨日までよりも少しだけ、未来に向かって力強く進んでいるような気がした。




