36 Wデート報告と確定拠出年金の最適解
翌日の昼食時、食堂ではとにかく沢田がうるさかった。
「なぁ、昨日のダブルデートどうやったん!?」
沢田は箸を振り回しながら、身を乗り出してデート報告を催促してきた。
「沢田。チケットありがとう。お陰様で、とても楽しかった」
宇佐美くんがいつになく素直にお礼を言った。
「うん、とても楽しかった。沢田くん、チケットありがとう」
私もそれに続いて言葉を返す。
「4人でゴッホ見て、美術館のレストランでランチして帰ってきた。ゴッホ、めっちゃ良かったわー。私の彼氏もみんなと仲良くなれたし、ほんまにありがとうな」
吉川がいつもの笑顔でそう補足した。
「お、おう……」
思いがけず、全員からストレートに感謝の意を表されて、沢田は完全に肩透かしを食らったような顔をした。
「……まぁ、みんなが喜んでくれたんなら良かったわ」
少し気恥ずかしそうに頭を掻いた沢田は、すぐに宇佐美くんの方を向いて身を乗り出す。
「それで、吉川さんの彼氏って、実際どんな人やったん?」
「めっちゃ、ええ人やったな」
宇佐美くんが迷いなく答える。
「うん、ほんまにええ人やった」
私も深く相槌を打つ。
「えへへへ。照れる」
吉川がモジモジする。
「沢田が付け入る隙はどこにもなさそうやったわ」
宇佐美くんが淡々と補足を加える。
「うん、沢田くんが敵うような相手ではなかったな」
私もすかさずトドメの相槌を打った。
「えへへへ。照れるー」
吉川はさらに嬉しそうに身をよじってモジモジしている。
「うわああ! そんな凹む情報はいらんねん! ええなぁ、みんなで楽しそうにさぁ……」
沢田がわかりやすく不貞腐れて、定食の唐揚げを口に放り込む。
「まぁまぁ。今回は沢田くんのおかげでみんな楽しめたわけやし」
吉川がニカッとほほ笑みながら、落ち込む沢田の肩をぽんぽんと叩いた。
「お礼にさ、今度、沢田くんにも私の友達紹介したげよか? フリーの可愛い子、おるで」
途端に、沢田の死んでいた眼光がギラリと蘇った。
「ほんま!? やったあ! お願いします、絶対やで!」
さっきまでの愚痴が嘘のように、一瞬で機嫌を直して拳を握りしめている。
あの沢田を一瞬で手懐けてしまうのだから、吉川の交渉術には恐れ入る。この手の世渡りの上手さばかりは私にも真似できないし、素直に「大したものだ」と認めざるを得なかった。
隣を見ると、宇佐美くんも私と同じように、呆れたような微笑ましいような顔で苦笑していた。
◇
「ところでさあ」
と、すっかり機嫌を直した沢田が、思いついたように別の話題を振ってきた。
「この前、企業型確定拠出年金ってやつの説明会あったやん? なんか、年金みたいなやつ」
「あったなあ。WEBで説明動画見させられたわ」
宇佐美くんが思い返すように頷く。
「あれ、なんか自分で運用先を設定しなさいって言ってたけど、みんな、なんかした?」
「いや、俺はそのままで放置や。なんかデフォルトでええ感じに設定されてるって言ってたし、もうそれでええかなって」
そうなのだ。資産運用を自己責任でやりなさい、と会社から丸投げされたあの制度。
つまり、もし設定を間違えたら将来もらえる年金が減るということだ。なんて不親切でひどい話だろうと私は思っていた。
「私、100%定期預金に変更したわ。定期預金なら、間違っても元本が減ることはないしな」
私が自分の選択を伝えると、沢田は「なるほどな」と感心したように首を振った。
「俺も宇佐美と一緒でそのまんまにしてるんやけど、まぁそれでええかー。吉川さんはどうしてるん?」
「わたし? わたしは100%外国株式に設定したで」
吉川がサラダを口に運びながら、事も無げに言った。
途端に、沢田が素頓狂な声を上げて驚く。
「えっ! それって、なんか説明動画で一番リスクあるって言ってたやつやんな? 吉川さんって案外ギャンブラーなん?」
吉川、なんというか……思い切りが良いというか、何も考えずに一番儲かりそうなところに全ツッコミしたということだろうか。この子、本当に何も考えてなさそうだ。
隣を見ると、宇佐美くんも少し心配そうな顔で吉川を見つめている。宇佐美くん、そんな可哀想な子を見るような目で彼女を見ないであげて。
しかし、吉川は私たちのそんな心配を意に介する様子もなかった。
彼女は箸を置くと、おもむろに、そして妙に落ち着いたトーンで語り始めた。
「まぁ、これは私個人の考えやから、聞き流してもらったらええんやけどね。説明会で言ってた『リスク』って、損する確率のことじゃなくて『価格変動の幅』のことなのね? つまり、外国株式は一番上がったり下がったりする値動きが激しいってことやねん。でも、それは短期的な話であって、10年20年の長期で見たら、アメリカを中心にした外国株式って、上がったり下がったりを繰り返しながら結局は綺麗な右肩上がりで上昇してるねん。私ら、これから60歳になるまで40年弱も運用し続けるわけやから。過去の歴史的な実績から見て、私はこれから先も上がり続けるって踏んでる」
突然始まった吉川の朗々とした解説に、私と宇佐美くん、そして沢田は完全に唖然として口を挟めなくなった。
吉川の眼光がわずかに鋭くなり、その言葉に熱が帯びていく。
「それに、今はインフレやん? 最近も毎年1.5%くらいで物価上昇が続いてるよね。それに比べて、銀行の定期預金の利率はせいぜい0.5%とかで、もう物価上昇のスピードに負けてもうてんのね。しかも、ずっと円安傾向やから、円っていう通貨そのものの価値もどんどん下がっていってる。つまり、資産を『円の現金』だけで持っているっていうのは、実質、毎年資産が勝手に目減りしていってるのと同じことやねん。せやからね、せめて確定拠出年金で拠出する毎月数万円程度くらいは外国株式にしておく方が、資産の分散という意味でも、立派な『資産防衛』になるねん」
吉川はお茶をひと飲みして、不敵にニッと笑った。
「ちなみに、説明会でもあったと思うけど、『マッチング拠出』っていう、給料から掛け金を積み増しできる制度があるやん? うちの会社、会社が出してくれてる分を差し引いたら、自分で上乗せできる上限が残り2万5千円やってん。やから私、速攻で上限いっぱいの2万5千円で設定しといたで。その上乗せした分は全額、所得税も住民税もかからへんようになるから、やらん手はないなと思って」
一気に捲し立てると、吉川はいつものおだやかな、ちょっと抜けたような表情に戻った。
「吉川さん、すごっ……」
「吉川さん、めちゃくちゃ詳しいんやね。驚いたわ……」
沢田と宇佐美くんが、完全に圧倒されて感嘆の声を漏らす。
吉川はふふんと鼻を鳴らし、「わたし、これでも経済学部卒やで?」と誇らしげに胸を張った。
私も、言葉が出ないほど驚いていた。
お気楽な私立文系ではなかったのか?
経済学部なんて、みんなサークルとバイトで遊んでばかりだと思っていたけれど、吉川は大学で、真面目に経済学を勉強していたのだろうか。
それにしても──吉川の言っていることは、ぐうの音も出ないほど的を射ている気がする。たしかに、ここ最近の物価上昇の激しさは、日々の買い物や外食のたびに身をもって感じていた。それに比べて、定期預金の金利なんて大して上がっていないことも知っていた。
けれど、それは「仕方のないこと」で、「私ら一般人には対処のしようがないもの」だと、半ば諦めて思考を放棄していたのだ。
しかし、吉川はそれに対抗する『手立て』はちゃんとあると言っている。今まで難しそうだからと目を背けていたその『手立て』に、私もちゃんと目を向ける必要があるのかもしれない。
しかし──吉川がときおり見せる、この芯の通った迫力のある眼差しは、一体何なのだろう。
実は、私が思っている以上の大局が見えているのだろうか。
(……いや、そんなわけないか。普段のあのアホっぽいノリもあるし)
私は一瞬脳裏をよぎった恐ろしい仮説を、慌てて頭を振って否定した。
とにかく──午後一番の仕事に取り掛かる前に、確定拠出年金のあの「全額定期預金」の設定だけはすぐに変更しよう。




