35 鼓動が高鳴なるゴッホ鑑賞と冴えない彼氏の極上アシスト
日曜日の朝。
真夏の強い日差しが照りつける、大阪中之島美術館のエントランス。
私は集合時間より15分も早く到着してしまった。
どうにも朝からそわそわして落ち着かない。無理もない。そもそも「ダブルデート」というものは、私の24年の人生において生まれて初めての経験なのだ。……いや、厳密に言えば、2人きりの「デート」というものすら、いまだ未経験なのだが。
スマホの画面を鏡代わりにし、今日何度目か分からない前髪のチェックをしていると、すぐ近くから声が降ってきた。
「沓沢さん、おはよう」
ハッとして顔を上げると、そこに宇佐美くんが立っていた。
ドクン、と心臓が大きく跳ね上がる。
「お、おはよう。宇佐美くん」
声が少し上ずってしまったのを、平静を装って誤魔化す。
今日の彼は、涼しげなネイビーの半袖開襟シャツに、端正な黒のスラックスを合わせていた。宇佐美くんの私服を見るのはこれが初めてだ。派手さはないが、彼の持つ知的で清潔な雰囲気が引き立っていて、とても、良い。
しかし、挨拶を交わしたきり、次の言葉が全く出てこない。
何か気の利いた世間話でも、と脳内の言語プロセッサをフル回転させるが、完全なフリーズ状態。返答に困窮して視線を泳がせていると、救いの手が差し伸べられた。
「沓沢さん、宇佐美くん!」
オフィスで聞き慣れた、あの鈴を転がすような明るい声が響く。
見ると、吉川が、彼氏と思しき男性とぴったり並んで歩いてくるところだった。
「待たせてごめん! 紹介するね。私の彼氏の水野律くん」
「律くん。こちら、私の会社の同期の沓沢さんと、宇佐美くんです」
吉川に促され、私たちは「はじめまして」とお互いに挨拶を交わした。
頭を下げながら、私は吉川の彼氏をこっそりと観察し、密かに目を見張っていた。
物静かで落ち着いた雰囲気を纏った、ごく普通の、どちらかと言えば地味な青年だ。確かに背が高くてシュッとしてはいるが、特別目を引くイケメンというわけでもない。
てっきり、沢田健太をさらに煮詰めたような、私立文系特有のチャラチャラした陽キャの塊みたいな男が来るものとばかり思っていた。
むしろ、どこか宇佐美くんに似ている気さえする。
何はともあれ、揃った4人は、時間通りに美術館へと入場した。
会場内は休日ということもあり、多くの人で賑わっていた。
私たちはなんとなく4人一塊の距離感を保ったまま、順路に従って展示を見て回る。
やがて、目の前に今回の目玉であるゴッホの『夜のカフェテラス』が現れた。
濃紺の夜空と、ガス灯に照らされた黄色いカフェの鮮烈なコントラスト。私がその美しさに見入っていると、スッと隣に宇佐美くんがやってきた。
彼は無言のまま、じっとキャンバスを見つめている。
チャンスだ。せっかくの2人きりの空間。何か気の利いた、知的な感想を言って彼と共鳴したい。
──なのに、言葉が出てこない。
思えば、いつも同期4人でいるときも、主に喋っているのは吉川と沢田の文系二人組だ。私と宇佐美くんは、常にそのラリーの後ろで静かに聞き役に徹している。2人きりになった途端、どうやって会話をドライブさせればいいのか、全く分からないのだ。
心地よいはずの静寂が、次第にチクチクとした気まずい沈黙へと変わっていく。
「この絵、教科書とかでもよく見る有名な絵だよね」
沈黙の幕を切り裂くように、ひょっこりと声が挟まれた。
見ると、いつの間にか私と宇佐美くんの間に、水野律が立っていた。
「ええと……宇佐美くんは、ゴッホとか絵画に詳しいの?」
水野くんが、宇佐美くんに向けて自然なトーンで問いかける。
「……いや。全然詳しくないなあ」
宇佐美くんは少しはにかんだように苦笑いした。
「ただ、ちょっと興味があって来てみたんやけど。君は?」
「俺も詳しくない。でも、やっぱり本物は綺麗だなって思うよ。沓沢さんはどう?」
今度は、水野くんの視線が私へと向けられる。
「あ、私も全然詳しくないんやけど……でも、こうやって綺麗な絵を眺めるのは、好き、かな」
「そうなんだ。じゃあ今日来られて良かったね」
水野くんは、押し付けがましくない穏やかな笑顔で頷いた。
図らずも、吉川の彼氏である水野律が、絶妙なパス回しで会話を繋ぐ格好となった。
2人きりだとあんなに硬直していたのに、彼が入って3人になった途端、不思議なほど場の緊張が解けていくのが分かった。
水野律。予想外のグッジョブである。
そういえば吉川は、と少し離れた場所に視線をやると、彼女は一歩引いたところから、私たち3人のやり取りをニコニコと満足そうに眺めていた。
結局、その後の鑑賞中も、終始こんな感じだった。
水野くんが緩やかに私たちに話を振り、私と宇佐美くんがそれに答える。
物静かだと思っていた「吉川の彼氏」に、私は完全に、手のひらの上で転がされるようにして助けられていたのだった。
◇
ゴッホ展を心ゆくまで堪能した後、私たちは美術館の2階にある、天井が高く開放的なカフェレストラン『ミュゼカラト』で遅めの昼食を取ることにした。
全面ガラス張りの窓から外光が優しく差し込む洗練された空間。美しく盛り付けられたランチプレートを頂くシチュエーションは、どこからどう見ても、いかにも「お洒落な休日デート」そのものだった。周りを見渡してもおめかししたカップルが多く、私は表向きはクールを装いつつも、内心ではひそかにテンションが上がっていた。
そしてここでも、水野くんがそっと置いてくれる自然な問いかけが、またしても会話の呼び水になる。
「へえ、宇佐美くんは生産技術部なんだ。工場全体のシステム最適化とかラインの制御とか、具体的にはどんなアプローチで仕事を進めてるの?」
「沓沢さんは、遥と同じ情報システム部だよね。へえ、大和化学の基幹システムって、まだ一部がCOBOLで動いてるんだ。レガシーだけど堅牢だから、リプレイスの計画とか大変そう」
彼が絶妙なパスを投げてくれるおかげで、水野くん、宇佐美くん、そして私の3人の間で、途切れることなく会話のキャッチボールが続いていく。
それにしても驚いた。彼の口から、かなり踏み込んだ技術的なキーワードがポンポンと自然に出てくるのだ。当然、その手のロジカルな話題は、私にとっても宇佐美くんにとっても大得意の領域だった。
「そうやねん。現場の制御データと基幹システムの連携が難しくて……」
「あ、それなら設計のフェーズでな──」
気が付けば、宇佐美くんがいつになく熱っぽく語り、私もそれに夢中で応じていた。入社してから今日までの数ヶ月間で、こんなに宇佐美くんと深く、楽しく話せたのは、間違いなく初めてだった。胸の奥がじんわりと温かい高揚感で満たされていく。
ふと我に返って視線を外すと、吉川はやっぱりニコニコしながら、専門的な会話に置いてきぼりにされている風でもなく、楽しそうに相槌を打っていた。
同期4人のときは、沢田相手にいつも騒いでいる吉川が、一歩引いて聞き役に回っている姿なんて初めて見た。
◇
「それにしても、意外やったよ」
食後のコーヒーを飲みながら、宇佐美くんがふと、いつもの静かなトーンで言った。
「吉川さんの彼氏っていうから、もっとこう、にぎやかな人かと思ってたんやけど、全然違ったから」
その言葉に、私は激しく同意した。
「まさにそれ。私も全く同じこと思ってた。てっきり、沢田くんみたいなタイプの人やと勝手に思い込んでたから」
「やっぱり? まさにそれやんな」
宇佐美くんが、共感を得られて嬉しそうに何度も頷く。私と宇佐美くんの意見がこんな風にぴったりシンクロするなんて、なんだか新鮮でくすぐったい。
「沢田くんって、今日のチケットを譲ってくれたっていう、もう一人の同期の人だね?」
水野くんが小首を傾げて、記憶を確かめるように尋ねる。
「そう。いつも会社で吉川さんと夫婦漫才みたいな掛け合いをしてるから、てっきり、彼氏さんもそういうノリの人なんかなって」
私が説明すると、水野くんは隣の吉川を少しだけジト目で見た。
「遥……。俺以外の男と夫婦漫才してるの?」
「もう、すぐそうやって焼きもち焼くー! 大丈夫やって、沢田くんは私の相方にするには力不足やから!」
吉川がぷっと吹き出しながら、水野くんの腕をかるく掴む。
(仲が良さそうだ)
一見するとただのバカップルの会話のはずなのに、なぜだろう、それが少しも不快ではなく、どこか微笑ましく思えてしまうから不思議だった。
水野律くん。
最初に抱いた「ごく普通の地味な青年」という感想は、ここで完全に撤回する。
吉川。あんた、ほんまに良い彼氏捕まえたわね──正直、ちょっと、羨ましい。
◇
ゆったりとした贅沢なランチの時間を終え、私たちは美術館の出口で解散することになった。
去り際、水野くんが少し照れくさそうに笑って、私たちを見つめた。
「俺、今日、新しい友達ができて本当に良かったよ。会社以外で人と知り合うことなんて滅多にないからさ」
(えっ……私たち、もう『友達』って枠組みに入っちゃってええの?)
突然のストレートな言葉に、私の理系脳がわずかに処理落ちする。
「またこの4人で、どこか遊びに行こうよ」
水野くんの自然な提案に、私の隣で、宇佐美くんが少しだけ声を弾ませた。
「うん、ぜひ行こう」
宇佐美くんの口から出た前向きな返答に、私の胸は再びドクンと音を立てて波打った。
「じゃあ、また会社でね!」「うん、また明日」
お互いに手を振り、それぞれの方向へと歩き出す。
ふと気になって振り返ると、人混みへ消えていく手前で、吉川が水野くんの髪を愛おしそうに撫で回している後ろ姿が見えた。水野くんは観念したように、小さく笑いながら彼女に頭を委ねている。
そんな二人の姿が、夕暮れの街並みに溶けていくのを見送りながら、私の心の奥はじんわりと温かい灯火がともったかのように満たされていった。




