34 わたしは彼とゴッホを見たい!仕事の速度とWデート大作戦
定時間際。オフィスに夕暮れの光が斜めに差し込む中、向かいの席から声が上がった。
「吉川さん。作ってもらった資料、大体OK。いくつかコメント書いといたから、あと少しだけ修正して完成させてくれる?」
三条先輩が画面を見つめたまま、柔らかい声で指示を出す。
「はい、わかりました!」
吉川がハキハキと返事をするのと同時に、タイミングよく定時終了を告げるチャイムが社内に鳴り響いた。
「あと少しなんで、このまま修正してファイル上げちゃいますね!」
また、進んで残業するのか、この社畜ちゃんは。
なんだか要領が悪いというか、自分の時間をわざわざ切り売りしにいくような姿勢には、やれやれと首を振りたくなる。私は内心でため息をつきながら、自身のPCを寸分の無駄もなくシャットダウンした。
鞄を手に取り、席を立とうとしたその時だった。
「いやぁ、しかし吉川さん。頼んだ資料をこうやって早い段階でちょっとずつ見せてくれるから、こっちも軌道修正が楽で本当に助かるよ」
三条先輩が、心底感心したように細い目をさらに細めて笑う。
「はい! わたし、一回ほっとかれるとどこに暴走していくか分からないですからね!」
吉川は屈託なく、闊達に笑ってみせた。
……うん?
今の会話は、少し聞き捨てならない。
あの詰めが甘くて修正だらけの吉川が、今、明確に褒められていた。三条先輩の表情を見る限り、お気に入りの部下へのおべっかや世辞を言っているようには到底見えなかった。
なんだか、酷く胸の奥がざわつく。
◇
翌日の昼食の際。食堂の喧騒に紛れ込ませるようにして、私は思い切って本質を切り出してみた。
「吉川さん。ちょっと気になったんやけど……なんで頼まれた仕事、いつもあんなに速攻で仕上げて出してしまうの? 締め切りまでまだ十分に時間があるんやから、手元に置いてじっくり推敲すれば、あんなに修正されずに済むと思うんやけど」
極力、純粋な疑問を装って、トーンを抑えて聞いてみる。
「あー、確かに。吉川さんってなんか、いかにもせっかちそうやもんなぁ」
沢田健太が横から茶々を入れてきた。お前はうるさい、黙っていろ。
自分のうどんをずずっとすすっていた吉川は、私の言葉に動きをぴたりと止めた。そして、少し照れくさそうに頭をかく。
「それな、実は受け売りなんやけど。理由は二つあってな」
吉川はお箸を置いて、指を一本立てた。
「ひとつは、まさに昨日三条先輩が言ってくれてた通り。依頼者と早い段階で頻繁にすり合わせをして、お互いの認識のズレをなくして、最後の最後でひっくり返る『特大の手戻り』を少なくするため」
経済学部出身の彼女が、まるで開発手法のイテレーションのような合理的な話を展開することに、私は少し目を見張る。
そして、吉川は今度は指を二本立て、少しだけ声を潜めた。
「で、もうひとつ。こっちの方が個人的には重要なんやけど……『早い仕事』は依頼者に普通に喜ばれるだけやけど、『早すぎる仕事』は相手に感動を与えるねん。わたし知識もないし仕事でけへんから、『スピード』に全振りにしてるねん」
「なるほど。極端やけど、悪くないやり方かもな」
宇佐美くんが、手元のご飯茶碗を持ったまま、深く納得したようにうんうんと考え深く頷いた。
…吉川遥。
何も考えていないアホな子かと思っていたけれど、その内面は実にしたたかだった。
自分の弱点を正確に把握し、それを補うための戦略を自覚的に組み立てている。
見くびっていたはずの彼女の「底」が急に見えなくなって、私は得体の知れない気圧されるような感覚を覚えた。
◇
夏も本格化してきた、うだるように暑い時期。
お昼休みの喧騒に包まれた食堂で、私たちがいつものようにテーブルを囲んでいると、おもむろに沢田が胸ポケットから何やら4枚のチケットを取り出した。
「これ、大阪中之島美術館でやってるゴッホ展のチケット。部長が『取引先の銀行から貰ったけど俺は興味ないから』って4枚くれたねん。でも、今度の日曜日指定のチケットなんや。俺、その日用事があって行かれへんからさ。誰か欲しい人おる?」
「え、私行きたい! ちょうだい。2枚! ありがとう!」
真っ先に吉川が身を乗り出して手を挙げた。
「めっちゃ食いついてきたな。何、彼氏と行くつもり? 若干シャクやけど、まぁええわ。2枚あげるわ」
「あ、俺も行ってみたい。」
続いて宇佐美くんも控えめに手を挙げる。
その瞬間、私の脳裏に鮮やかな映像が浮かび上がった。
──日曜日の昼下がり、お洒落な中之島美術館の静謐な空間。ゴッホの『夜のカフェテラス』を前に、知的で高尚な芸術論を物静かに語り合う、私と宇佐美くんの姿。
「わ、私も行きたい……!」
気が付けば、衝動的に手が上がっていた。
「お、沓沢も? ええでええで、行っといで!」
沢田は気前よく、吉川に2枚、私と宇佐美くんに1枚ずつチケットを渡してくれた。
沢田。お前、案外いい奴じゃないか。今日だけは少し見直してあげる。
しかし、トレイの上に置かれたチケットを手に取った瞬間、私はある一つの重大な問題に直面した。
吉川は、例の彼氏と2人で行くのだろう。そこは勝手にすればいい。
問題は、残された私と宇佐美くんだ。
私はどうやって宇佐美くんと一緒に行けば良いのだ?
「宇佐美くん、一緒に行こう?」なんて、恥ずかしくて口が裂けても誘えるわけがない。かといって、あの奥手でクールな宇佐美くんが「沓沢さん、一緒に行こうよ」なんて言ってくれるとも思えない。彼は放っておけば、普通にソロで静かに鑑賞するタイプだ。
詰んだ。
チケットを眺めたまま、私はしばし放心状態に陥った。
ふと、横から刺すような視線を感じた。
見ると、吉川が私の横顔をじーっと見つめている。
な、何……。私もしかしてガン飛ばされてる?
防衛本能で身構える私に、彼女の口から出たのは、あまりにも意外すぎる一言だった。
「宇佐美くん、沓沢さん。せっかくやから、一緒に行かへん? ──ダブルデートしよ?」
……なんですと?
想定外の単語の飛び出しに、私は思わず息を呑んで絶句した。
「なっ! それめっちゃええやん! うわー、なんか俺だけ留守番とか、めちゃくちゃ口惜しいわ! お前ら、今度なんか奢ってやぁ!」
沢田が案の定、騒ぎ出す。やっぱりお前はうるさい。黙っていろ。
しかし……。
しかしだ、吉川。
その提案は、冷静に考えてロジカルに極めて正しい。非常に、とても、素晴らしいアイデアだと思われる。吉川が彼氏を連れてくることで、私と宇佐美くんが「日曜日、一緒に行動する」ための完璧な大義名分ができるのだから。
「ええの? お邪魔やない?」
宇佐美くんが、吉川に気を遣って控えめに尋ねる。
「もちろんええよ! 沓沢さんはどう?」
吉川が、いつものあの屈託のない人懐っこい笑顔を向けてくる。
「……行きたい」
私は内心の激しい動揺を完璧に押し殺し、すました顔で、コクリと大きく頷いた。




