31 独占交渉の行方
奨学金の支給が正式に決定してすぐのことだ。俺は「カリブの丘」の店長に、来月からシフトの回数を減らしてほしいと相談した。
すると店長は「じゃあ、急いで代わりのバイトを募集せんとな」とさっそく求人をかけた。驚いたことに、新しいバイトはすぐに見つかった。
名前は、藤原沙織。
関大前の近くに実家があるらしく、別の大学に通う俺と同じ大学1回生だった。
「水野が責任をもって仕事を教えること」という店長のお達しもあり、俺は先輩として彼女にいろいろと仕事を教えることになった。
藤原さんはとにかく明るい子で、俺相手にも物怖じせずによく喋りかけてくる。
「水野君って、関大なんや。頭ええんやね」
「水野君、どこのひと? ええ、名古屋!? 一人暮らしなんや、すごーい。そうなんやー」
「サークルとか入ってるん? バイトが忙しくて入れんかった? そうなんやー。私、テニスのサークルに入ってるんよ。まあ、遊んでばっかりなんやけどね」
その圧倒的な人懐っこさを見ていると、もしかしてコミュ力だけで言えば遥ちゃん以上かもしれない、と思うこともあった。
そんなある日、彼女とバイトの休憩時間が重なった時のことだ。
いつもであればノンストップのマシンガントークで休憩時間を喋り尽くす彼女が、今日はパイプ椅子に浅く腰掛けたまま、明らかに元気がない。
「藤原さん、今日はちょっと元気ないみたいだね」
見かねてそう声をかけると、彼女はいつもの太陽のような表情とは違う、どこか悲しそうな笑みを浮かべた。
「昨日、彼氏に振られてしもた。なんか、他に好きな人できたんやって……」
ヘビーなの来た……!
こういう場合、恋愛偏差値ゼロの俺はなんて声をかけてよいのか、まったく分からない。気まずい沈黙が狭い休憩室を支配する。
「ちょっと、待ってて」
俺は立ち上がり、ドリンクバーのコーナーへ向かった。そしてサーバーから、湯気の立つ温かい紅茶を二つ淹れて休憩室に戻る。
「よかったら、飲んで。元気だして」
「あ……ありがと」
藤原さんは黙って頷き、差し出されたコップを両手で包み込むようにして、そっと口をつけた。「温かい。ありがとう」そう言って俺の目をじっと見た彼女の瞳の奥には、いつもとは違う、妙に熱を帯びた力がこもっている気がした。
「うん」
俺も自分の分の紅茶を口に運ぶ。
それ以上、彼女は何も話さず、静かに温かい紅茶を飲み続けた。俺も気の利いたアドバイスなんてできるはずもなく、ただ黙って紅茶を飲む。
ずずっ、と紅茶をすする音だけが静かに響く。だが、不思議と気まずさはなかった。むしろ、これまでの『バイトの先輩と新人』という目に見えない壁が、紅茶の湯気の中に溶けていくような、そんな空気が変わった気がした。二人の間に、ただ静かな時間だけがゆっくりと流れていった。
次にシフトが合った時。彼女はすっかり元気を取り戻していた。
いつものように俺に向かってよく喋る。だけど、何かが違う。気のせいか、彼女の言葉や、すれ違いざまに向ける視線から、以前よりもずっと強い『熱気』を感じた。
ある日、バイトが終わる間際、インカムを外そうとした俺の隣に、藤原さんがすっと滑り込んできた。
「律くん。……彼女、いるの?」
この不意打ちのような問いに、言葉が詰まる。俺なんかが、こんな風に女の子から真っ直ぐにプライベートな質問をされるなんて、今までの人生で想像だにしなかった。
◇
「それで、律くんはなんて答えたの?」
遥ちゃんが、目の前の赤く燃える紅葉を見つめたまま先を促した。その声色は、思いもかけず堅いものだった。
11月の終わり。
俺と遥ちゃんは、紅葉を見に万博記念公園を訪れていた。紅葉狩りデートである。
この計画を耳にした一条綾乃や田中澪からは「渋っ。熟年夫婦か!」だの「近っ」だのと、いつものごとく野次が飛んだが、もう慣れっこだ。いちいち気にしない。
広い園内は、紅葉がまさに今が見頃とばかりに燃え盛っていた。黄色や赤色の色とりどりの木々の間を巡ったのち、広場のベンチに腰掛け、温かい飲み物を飲みながら休憩している際、俺はバイトでの藤原さんとのいきさつを説明したのだ。
そう、これは『説明』であり『報告』だ。遥ちゃんとの交際を巡っての「独占交渉中」の身として、俺はこのような女性関係の出来事はきっちり報告しておく必要があると思った。大したことではないと黙っていたことが、後でとんでもない火種になることを俺は知っている。ドラマで見た。
その話の途中での、遥ちゃんからの「なんて答えたの?」という質問。
「『彼女いるよ。とても仲いいよ』って、答えたよ」
――そう。うぬぼれかもしれないが、藤原さんからは明らかな好意のような感情を感じた。だからこそ、幾分事実とは異なるが、こう答えるのが最善だと判断したのだ。申し訳ない藤原さん。気持ちがうれしいが、しかし、俺には心に決めた人がいるのだ。
「……そう」
俺の返答を聞いて、遥ちゃんは、ぽつりとそう漏らした。なぜか、その声がわずかに震えていた。
――あれ、遥ちゃん、怒った? 勝手に彼女呼ばわりしてしまって、まずかったのかな。
俺が慌てて弁解をしようと、遥ちゃんの顔を覗き込む。
遥ちゃんもまた、俺を見つめていた。だが、その綺麗な瞳からは、きらりと一筋の涙が頬を伝って流れ落ちていた。
――泣いてる!?
「あ、あの……っ」
声をかけようとする俺を遮るように、遥ちゃんは小さく手を振った。
「ごめんな。ちゃうねん。話の流れから、わたし、てっきり律くんに振られる話なんかと思ってしもうて……」
遥ちゃんは指先でそっと涙を拭う。
「でも、わたしの早とちりやったね。ちゃんと『彼女いる』って、言ってくれたんやね」
この上なく愛おしそうに、はにかむような笑顔を俺に向けた。
遥ちゃんの思わぬ涙と反応に、俺は動揺して「あの、なんか、ごめんね」と、思わず口をついて謝ってしまった。
「なんで律くんが謝るのよー」
遥ちゃんはくすくすと笑い、いつもの眩しい太陽のような笑顔に戻っていた。
「せやけど、その藤原さん、律くんのこと好きになってしもうたんやろね。律くんって、たまに不意打ちで女心をくすぐるからなぁ。しかも、無自覚に。タチ悪いねん」
「え、そうなの……?」
「そうやで。今だって、ごっつい私のハート揺さぶったんやからね。ほんま、腕上げたな、律くん」
「あ、いや、それは……ごめん」
どう答えてよいか分からず、俺はまたしても謝ってしまう。
遥ちゃんは「ふふ、また謝った」と可笑しそうに笑うと、ふと表情を柔らかくして、俺の顔をじっと覗き込んできた。
「なぁ、律くん。わたし、もうずいぶん前から気づいてたんやと思う。わたし、律くんが他の女の子を見るのは嫌やなぁって。私のことだけ見といてほしいなぁって」
遥ちゃんの綺麗な瞳に、まっすぐで、熱い光が宿る。
「せやからな、独占交渉は……『成立』っていうことに、してくれへん?」
「え、それって、つまり……」
心臓が破裂しそうなほど、ドクドクと音を立て始める。
「うん。わたしを、律くんの彼女にしてください」
時が止まった。
広場にすうっと秋の風が吹き抜け、赤く染まった紅葉の葉が、二人の周りをゆらりと鮮やかに舞う。
──世界が、優しく反転するような衝撃だった。
込み上げる愛しさに胸がいっぱいになって、俺はたまらず、遥ちゃんのその小さな肩をぎゅっと抱きしめていた。
「ありがとう。……絶対、大切にする」
胸の奥がじんじんと熱くなるのを感じながら、今の俺には、ただそう絞り出すのが精いっぱいだった。
◇
鮮やかな紅葉をバックにスマホで撮った、遥ちゃんとのツーショット写真。俺はそこに「俺たち、正式に付き合い始めました」というメッセージを添えて、一条綾乃と田中澪に送信した。
さすがに少しはしゃぎすぎかとは思ったが、どうせ放っておいても、夜には本日の報告をうるさく求められるのだ。ならばいっそ、こちらからの先制攻撃である。これでもくらえ。
スマホをポケットにしまう暇もなく、二人からは秒単位で即レスが飛んできた。
『推しカップル誕生だと!死ぬ! 萌え死ぬ! よかったな、律! 遥泣かしたら許さんぞ!!』
『なんなん、これなんなん。もう、本当におめでとう。今から私泣くわ』
画面の向こうで大騒ぎしているであろう友人たちからの賑やかな返信を一緒に覗き込んで、俺と遥ちゃんは顔を見合わせ、ふふっとほくそ笑んだ。
「しかし、この公園、ほんまに広いなぁ」
「うん。あっちのほうにも行ってみようか」
俺は、遥ちゃんの手を優しく握りしめる。
そして、
心に宿る確かな温もりを感じながら、黄色く染まったイチョウの葉がひらひらと舞う木々の間を、二人で一歩ずつ歩み出した。




