30 俺は君についていく!株価大暴落と彼女の最終目標
秋も深まったある日の午前。
『金融論基礎』の講義の時間。
大講義室に入ると、遥ちゃんはいつものように、迷わず最前列の席に陣取った。俺も自然な動作を装いながら、そのすぐ隣に教科書を広げて座る。
この講義は、遥ちゃんの一番のお気に入りだ。いつもなら教授の一挙手一投足を見逃さないほどの凄い集中力で臨むのだが、どうも今日は朝から様子がおかしかった。どこかそわそわして落ち着かない様子を見せている。
(どうしたのかな……)
声をかけて理由を聞こうと思った、まさにその矢先、マイクのハウリング音と共に講師が話し始めてしまい、質問のタイミングを聞きそびれてしまった。
それでも、講義が始まると遥ちゃんはノートをきっちり取り、熱心に耳を傾けていた。ただ、その横顔には普段以上の、どこか張り詰めたような熱が帯びているように見えた。
やがてチャイムが鳴り、講義が終わった瞬間。遥ちゃんは弾かれたように立ち上がった。
「律くん、わたし、ちょっと先生に質問してくる!」
遥ちゃんが講師に質問すること自体は珍しいことではない。しかし、今日の勢いはちょっと普通ではなかった。俺は胸を騒がせ、慌てて遥ちゃんの後を追った。
教壇の前で、プロジェクターの電源を切り、片付けをしている講師に遥ちゃんが声をかける。
「山中先生!」
「お、君か」
金融論基礎を担当する山中先生と遥ちゃんは、質問の常連ということもあってもうすっかり顔見知りだ。
挨拶もそこそこに、遥ちゃんは身を乗り出して質問をぶつけた。
しかし、その口から飛び出した内容は、俺が想像していた今日の授業(中央銀行の役割)についてでは全くなかった。
「先生、昨晩のダウの大暴落ですが」
「ああ、君も気にしているやろうと思ったよ」
「先生、どう見られます? まだまだ、下がりそうですか?」
なぜか、遥ちゃんの瞳はキラキラと生き生き輝いている。
しかし──ダウ? 暴落? 一体何の話だ?
「今回の引き金は中東情勢の悪化だからね、ここ数日は下がるやろうな。昨日の下げが4%やから、まだ入り口やろ。……ところで、君の叔父さんはどう見ている?」
山中先生も、なぜか遥ちゃんと同じように楽しげに目を細め、いきいきと話している。
「最低10%はいくんちゃうかって。でも、『遠くの戦争は買い』やとも、言うてました」
「ええ読みや。私も同意見やな。どうや、君はここから買い向かうんか?」
先生と遥ちゃんのテンションが、一般の大学生の会話とは思えないベクトルでどんどん上がっていく。
「10%を超えたあたりから、S&P500を打診買いしようかな、と!」
「悪くないな。けど欲かいたら買いそびれるからな。『頭と尻尾はくれてやれ』やで」
「ありがとうございます! 先生の意見が聞けて、めちゃくちゃ心強くなりました」
「はは、あくまで投資は自己責任、やで。健闘を祈るわ」
「ありがとうございました!」と頭を下げ、遥ちゃんはすっかり晴れやかな、満面の笑みで自分の席へと戻っていく。
その横で俺は、完全に置いてけぼりを食らったまま、二人の異次元な会話をポカンと口を開けて聞いていることしかできなかった。
投資? S&P500? 打診買い? ──頭と尻尾って、魚の話じゃないよな?
席に戻り、バッグを肩にかけた遥ちゃんの顔を覗き込む。
「遥ちゃん、今のは……一体何の話?」
遥ちゃんは、目を輝かせて、俺を見つめ、静かに言った。
「うん。平たく言えば、株取引の話。株のバーゲンセールが始まったねん」
「バーゲンセール?」
「そう、バーゲンセール。律くん、ええ機会やから、詳しく説明するわ。大事な話やから、しっかり聞いてな」
◇
食堂。
コーヒーをすすりながら、遥ちゃんは先ほどの山中先生とのやり取りについて、俺にも分かるように丁寧に説明してくれた。
アメリカを代表する超優良企業たちの平均株価である『ニューヨークダウ』や『S&P500』という指標のこと。
世界の経済が崖から転げ落ちるように急落した、昨晩の大暴落のこと。
そして、今の時代はスマホ一台で簡単に証券口座を開き、個人でもアメリカの株を売買できるということ。さらに、国が作った『NISA』という制度を使えば、本来なら約20%も引かれる税金が丸ごと非課税になるということ――。
いずれも、俺にとっては生まれて初めて耳にすることばかりだった。
経済学部の学生でありながら、情けない話ではあるが。
株取引なんて、一部の金持ちの大人がやるものというイメージしかない。もちろん、うちの両親がそんなものをやっているところなんか見たこともないし、もし相談でもしようものなら「株なんてギャンブルだ、真面目に働きなさい」と一蹴されるのがオチだろう。
「わたしな、このバーゲンセールで、お年玉の残りを全額使おう思てるねん」
遥ちゃんは、まるでショッピングモールで新作の洋服でも買うかのような軽いノリで楽しそうに話す。
まさか、俺と同じ19歳の女の子が、すでにそんな大人の世界の中心に片足を突っ込んでいただなんて。
ただ者じゃない、凄い子だとは出会った時から思っていたけれど、まさかこれほどとは。
聞けば、これらはすべて親戚の叔父さんから伝授された知識らしい。なるほど、これまでの遥ちゃんの普通の女子大生とは思えない経済センスや、あの山神優斗さえも一目置く知識の数々には、ちゃんと師匠がいたわけだ。
これだけの情報量でも、一般的な大学生である俺の脳みそはすでにキャパオーバーでお腹いっぱいだったのだが、遥ちゃんはさらに、俺の常識を根底からひっくり返すような凄いことを言い出した。
「こうやってな、若いうちから複利の力を味方につけて資産形成してたら、いずれ『資産的自由』を手に入れることができるんやで。……平たく言えば、お金のために働かなくてもよくなる、ってこと」
息を呑む俺を真っ直ぐに見つめながら、遥ちゃんは悪戯っぽくニッと白い歯を見せて笑った。
「資産一億円。これが、私の最終目標やねん」
圧倒される俺を置き去りにして、遥ちゃんはさらに熱を帯びた声で続けた。
「大企業に入るのも、そのための就活やボランティアをがんばるのも、そのための時間を確保するためにあえて奨学金を借りるのも……ぜんぶ、この最終目標に繋がっているねん」
今まで謎だった遥ちゃんのストイックな行動のパズルが、一つの巨大な絵として脳内でカチリとはまっていく。
ボランティアも、就活も、奨学金すらも、彼女にとっては「資産一億円」というゴールへ至るための緻密な戦略の一部に過ぎなかったのだ。
そこまで一気に話すと、遥ちゃんはふーっと小さく息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
そして、悪戯っぽく、だけど俺の反応をじっと確かめるような、真剣な瞳を向けてくる。
「どう? 律くん。こんな私に、ついてこれそう?」
正直、青天の霹靂だった。話のスケールが大きすぎて、俺の脳みそは完全に消化不良を起こしている。
しかし、だ。
これまでずっと遥ちゃんを一番近くで見つめて、そのストイックな背中を追いかけてきたのは、この俺だという自負がある。
ついてこれるか、だなんて。
そんなの、聞くだけ野暮な質問だよ、遥ちゃん。
俺はコーヒーカップをテーブルに置き、彼女の真っ直ぐな視線を受け止め返した。
「とりあえず……俺も、そのNISA口座ってやつを開設するところから始めようかな?」
遥ちゃんは一瞬、目を丸くして驚いた顔をした。けれど、すぐに目の前の霧が晴れたような、この上なく満足そうな笑みを浮かべた。
「律くん。えらい男前になったなぁ」




