18 俺にそんなスキルはない! 漢気お嬢様のアシストと夏休み前の完全包囲網
7月、定期テスト最終日の夜。
阪急関大前駅から大学へと続く『関大前通り』にある、とある大衆居酒屋。
サークルのコールや大学生のバカ騒ぎが激しく飛び交うガヤガヤとした店内で、経済学部の有志によるテストの打ち上げが開かれていた。総勢30名程度。広い座敷をいくつか繋げた、かなりの大人数だ。
吉川さんも参加すると聞いていたし、たまたま今日はバイトが休みだったこともあって、俺も思い切って参加することにしたのだ。
「かんぱーい! テストお疲れぇぇ!」
誰かの威勢のいい掛け声を合図に、一斉にジョッキがぶつかり合う。あちこちのテーブルで、一気に解放感に満ちた会話が爆発するように盛り上がり始めた。
しかし──勢いで参加してみたものの、どうも俺はこういう賑やかというか、いわゆる「陽キャ」のノリが致命的に苦手だった。喧騒から少し外れた席で、ぽつねんとひとりウーロン茶のグラスを傾ける。
手持ち無沙汰な視線で、自然と吉川さんの姿を探していた。
吉川さんは少し離れた席の真ん中で、数名の男女たちに囲まれながら、身振り手振りを交えて何やら大爆笑をさらっていた。
さすがである。あの臆することなく、誰とでも一瞬で打ち解けてしまう明るさは、本当に一種の才能だと思う。ぼっちを拗らせかけていた俺からすれば、正直なところ、少し羨ましくもあった。
そんなことをぼんやりと考えながら、ただじっと吉川さんの動きを目で追っていると。
「……遥が気になる?」
突然、すぐ横から声を掛けられ、危うく手に持つウーロン茶を床にぶちまけそうになった。
心臓をバクバクさせながら声のほうに目を向けると、いつの間にか移動してきた一条さんが、俺の隣のスペースによいしょと腰を下ろしたところだった。
「いや、そ、そんなこと、ないけど……」
あからさまにニヤついている一条さんの視線に耐えかねて、俺は慌ててそっぽを向く。
一条さんは俺の動揺などお構いなしに、テーブルの皿から唐揚げをひょいとつまみ、「遥ってな」と口をもぐもぐさせながら話し出した。
「一見、あんな感じで陽気でノー天気に見えるやん? でも、じつは、めっちゃ真面目やねん。今回の定期テストも、裏で死ぬほど頑張ってたしな」
その言葉に、俺は『現代経済入門』の広い講義室で、いつも最前列に座って熱心にノートを取っている彼女の小さな背中を思い出した。
「……確かに。最近の大学生にしちゃ、珍しいくらい真面目だよな。」
「言い方おっさんか!」
一条さんは楽しそうに肩を揺らしてツッコミを入れた後、少し声を落として言った。
「なんかさ、奨学金借りてるねんて。利子のかからん一番ええやつ。だから、大学で絶対にいい成績をキープし続けなあかんらしいわ」
──奨学金。第一種、無利子のやつか。
そうだったのか。俺が必死にバイトを詰め込んで、少しでも実家の親の負担を減らそうともがいているように、彼女もまた、親に迷惑をかけないために自分の力で学費を背負い、その条件を死守するために必死に勉強していたのだ。
しかし、俺は奨学金は借りていない。
テレビのニュースやYouTubeなんかで、「奨学金という名の数百万の借金は、社会に出てからの大きな足枷になる」という批判的な意見をよく耳にしていたし、名古屋の俺の親も「借金だけは絶対にダメだ」という古い考えの人間だったからだ。
そう思うと、向こうの席で楽し気にはしゃいでいる吉川さんの小さな背中に、本人には見えない、ひどく重そうな十字架が乗っかっているような気がして胸が痛んだ。
「……なんか、すごいね。吉川さん」
「そう。遥は明るくて、人当たりがよくて、実はものすごい努力家」
「うん」
「しかも、可愛い」
「……うん」
「せやからさぁ、遥って、めっちゃモテんねん」
「──え?」
不意の一言に、俺は思わず一条さんの顔を凝視した。
一条さんはこちらの反応を見透かしたようにニヤッと笑みを深める。
「もうすでに、サークルとか学部の男、二、三人から告られてんねんで」
「っ……!」
俺はおそらく、自分で自覚できるほど酷い有り様の顔をしていたのだろう。
一条さんはそれを見て「ハハッ!」と愉快そうに笑い声をあげた。
「安心して! ぜんぶ綺麗に断ってるようやからさ」
心臓が大きな音を立てて、一気に体温が下がるような感覚。俺があからさまにホッと安堵の息を漏らすと、一条さんはそれを見てさらに大爆笑した。お嬢様っぽい綺麗な顔を崩してひとしきり笑った後、ふと、彼女は真面目な顔つきに戻って俺を見つめた。
「せやけど……うかうかしてられへんで、みずのん?」
「いや、でも、俺なんかじゃ……」
「『俺なんか』やあらへん」
一条さんは俺の言葉をぴしゃりと遮った。
「当たって砕けて後悔するか、なーんもせんうちに他の男に取られて後悔するか。どっちを選ぶ? って話やん」
重みのある言葉が、ストンと胸に落ちてきた。まさに、その通りだ。
俺の覚悟を決めたような表情を見て満足したのか、一条さんは立ち上がりながら言った。
「みずのん。気張りや」
そう言って、俺の背中をまた看守のようにパンと力強くはたいた。
そして、「骨は拾たる」と言い残し、別の賑やかな席へと戻っていく。
一条さん。一見おっとりしたお嬢様に見えて、めちゃくちゃ漢気のあるいい人だ。
俺は、本当に良い友達を持ったらしい。
◇
定期テストがすべて終わり、キャンパスはいよいよ夏休み、という解放感に包まれていた。だが、俺たちの統計学だけは、最後の課題の提出締め切りが今日の17時に迫っていた。
吉川さんからSOSを受けとった俺は、待ち合わせの時間に『凛風館』一階のコモンズに向かう。
テーブル席で待ち構えていたのは、吉川さんと一条さん。そしてもう一人、彼女たちの友達の田中澪さんだった。
挨拶もそこそこに席を勧められ、俺がノートPCを開く。気づけば、左右を吉川さんと一条さんに挟まれ、さらに真後ろから田中さんが身を乗り出してくるという、完璧な包囲網が完成していた。
三方から容赦なく、彼女たちが俺のPCの画面を覗き込んでくる。距離が、あまりにも近すぎる。たまったものではなかった。色んなシャンプーや柔軟剤が混ざり合った甘い匂いに脳が侵され、気絶寸前になりながらも、俺は必死に理性を保って「えっと、ここの数式はExcelのこの関数を使って……」と丁寧に説明を始めた。
必死の講義から、小一時間。
「あ、できた!」
「私もグラフ入った!」
ようやく全員が課題の期末レポートを完成させ、大学指定のLMSサイトへのアップロードを完了した。
「おわったぁぁぁーー!」
「これでほんまに夏休みが始まるーー!」
「水野くん、ほんまに、ほんまにありがとう!」
三人そろってバンザイをして歓喜の声をあげる。
そうなのだ。これで、本当に俺たちの夏休みが始まる。関西大学の夏休みは、8月1日から9月20日まで、約2ヶ月間もある。高校までと比べて長すぎだろ、と心の中で思わず突っ込む。まあ、文句を言う奴は一人もいないし、俺自身もこれだけまとまった時間があれば、心置きなくレストランのバイトにシフトを入れることができる。もちろん、文句はない。
ただ──。
この長い期間、俺は吉川さんと会う口実を完全に失うことになる。
勉強を教えるという建前がなくなって、何の意味もないのに「遊ぼう」と女の子を誘えるほど、俺の対人スキルは高くなかった。バイトに明け暮れるだけの俺の夏。その一方で、吉川さんの周りには、サークルの男たちがいくらでも群がるだろう。
『うかうかしてられへんで?』
先日の一条さんの言葉が頭をよぎる。
俺の心は一気に暗澹たる気持ちに満たされていった。
そのときだった。
「あ、わたし、みんなに冷たい飲み物買ってきてあげる!」
一条さんが、明るい声で手を挙げた。
「あ、わたしも行くで!」
吉川さんが即座に名乗りを上げると、
「いや、遥はここで待ってて」
一条さんはぴしゃりとそれを遮った。そして、
「澪、ちょっとついてきて」
と、隣にいた田中さんの腕を強引に引っ張る。
「え、なんで私ww」と笑う田中さんを連れ立って、一条さんは去っていった。
その去り際──一条さんが、皆に気づかれないように俺に向けてパチンとウインクをしてみせた。
……そういうことか。
いや、一条さん。いくらなんでも、ちょっと強引すぎます。心の準備が。
「なぁ、水野くん。なんやろあのふたり。なんか内緒話でもあるんやろうか?」
ふたりが消えた通路を不思議そうに見つめながら、吉川さんが首を傾げた。
隣には、吉川さんと俺のふたりきり。
途端に、俺の心臓の鼓動がうるさいほど激しくなり始めた。完全に目が泳ぐ。冷や汗が背中を伝う。
吉川さんは俺の明らかな挙動不審に気づき、「うん? 水野くんどうしたん? 」と、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。大きな瞳が、すぐ近くで俺を真っ直ぐに見つめている。
『最後のチャンスやで?』
ざわつくコモンズの雑音の向こうから、一条さんの声が聞こえた気がした。
気づけば、俺は頭で考えるより先に、言葉を喉から絞り出していた。
「好きです。俺と、付き合ってくれませんか?」
言い終えた瞬間、世界から音が消えた。




