16 俺は好きでここにいるわけではない!孤高のぼっちと溺れる者の濁りなき瞳
5月。午後の大講義室は、おそろしくけだるい雰囲気に包まれていた。
窓から差し込む麗らかな春の日差しが、室内の温度を絶妙に上げている。教壇では講師がプロジェクターを使い、Excelで作成された散布図やグラフを表示しながら、マイク越しに淡々と説明を続けていた。
今は『統計学』の授業。
ここ関西大学経済学部の1年次における必修科目だ。確率やデータの平均、分散など、いわゆる統計学の基礎の基礎を学ぶための講義である。内容としては、講師の指示通りにExcelを操作してデータを整理し、表やグラフへと可視化していく作業が中心だ。
高校1年レベルの数学の知識と、少々のPC操作の知識さえあれば、はっきり言ってクソが付くほどたやすい内容である。少なくとも、理系崩れの文系である俺にとっては、教科書を開くまでもなく特に苦労する要素は見当たらなかった。
が、ふと周りを見回してみると、どうやら皆は猛烈に苦戦しているように見えた。
いや、「苦戦している」と言えば聞こえはいいが、実際は講師の抑揚のない声を極上の子守歌にして堂々と意識を飛ばしている奴や、机の下で熱心にスマホをいじっている奴が大半だ。
──実に、優雅というか、お気楽というか。
ぶっちゃけ呆れる。不承不承ながら関大に通う俺でさえ、一応は真面目に授業を受けて課題をこなしているというのに、こいつらは一体何のためにここにいるのだろう。
まあ、経済学部なんてみんな「とりあえず潰しがきくメジャーな学部だから」という理由で選んだだけであって、経済学をまともに学びたい、データ分析を極めたいなんて思っている奴は、この広い教室に一人もいやしないのだろう。
……俺も似たようなものだ。偉そうなことは言えない。
「では、今説明した通り、皆さん自身のPCで、配付したサンプルの統計データを使って『回帰分析』を行ってみてください。15分ほど時間を取ります」
講師がそう言ってマイクを置いた。
相変わらずたわいもない課題だ。俺は自分のノートPCに向き直り、キーボードをカタカタと叩いて静かに作業を開始した。
その時だった。
ふと、横っ面に妙な視線というか、強い気配を感じた。
キーボードを叩く手を止め、視線だけをそちらに向ける。
見ると、三席となりの席から、一人の女の子がこちらを鋭い目付きでガン見していた。ロングの黒髪を後ろでラフに一つに束ね、清潔感のある白いシャツを着ている。どこか素朴な雰囲気を残した女子学生だ。
視線が完全にぶつかった。
その瞬間、彼女は俺から視線を外さないまま、お尻をズリズリとスライドさせながら、滑り込むようにして俺のすぐ隣まで近づいてきた。
「こんにちは。あの……急にごめんな。今の課題、もしかして出来そう?」
関西弁特有のイントネーション。
なるほど、そういうことか。自力でできないから、要領よく他人のPC画面を見せてもらって課題を終わらせようというわけだ。
一番気に食わないタイプの、大学に遊びに来ている典型的な学生。俺は一気に不機嫌になり、無視してやろうか、それとも「自力でやれば?」と冷たく一言文句を言ってやろうかと思い、口を開いた。
「わるいが、俺は──」
その瞬間、彼女とバチッと目が合った。
彼女は、からかったり甘えたりするようなチャラついた様子は一切なく、ただただ真剣な、必死な顔をして真っ直ぐに俺の顔を見つめていた。まるで、溺れる者が藁をも掴むような、そんな濁りのない瞳。
…。
……。
……かわいい。
「──ああ、わかりますよ。これくらいなら」
気づけば、脳の命令を無視して、俺の口は勝手にそんな親切なセリフを吐き出していた。心の中にいる冷徹でプライドの高い自分が「おい何言ってんだ」と胸ぐらを掴んできたが、もう遅い。
すると、それまで緊張で硬かった彼女の表情が、一瞬でパッと明るく崩れた。
「ほんま!? すごい!ちょっと、教えてくれへん? 30分前から完全に置いていかれてんねん」
そう言って、彼女は白い歯を見せてにっと屈託なく笑った。
……かわいい。
「あ、ああ、いいよ。別に」
俺の口が、またしても俺の意思に関係なく勝手にしゃべる。完全に主導権を持っていかれている。
「まず、ここのA列からC列のデータ部分をマウスで選択して……」
「うんうん、選択して……」
彼女が俺の画面を覗き込むために、すっと距離を詰めてくる。髪から、微かに石鹸のような清潔な香りがした。
俺は心臓の鼓動が急に速くなるのをごまかすため、前方のPC画面を限界まで凝視したまま、なるべく冷静を装った声で、Excelの操作説明を続けた。
◇
それから、彼女は俺の隣にすっかり居座り、並んで講義を聴くことになった。
画面を覗き込まれるたびに、彼女の長い黒髪がさらりと揺れて、さっきの石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。俺は内心かなりドギマギしていたが、ポーカーフェイスを崩さないよう、必死に「親切でクールな優等生」を演じ続けた。
彼女は俺が教える手順を一つひとつ熱心にメモしながら、不器用ながらも一生懸命にExcelを操作していく。
一人で黙々と青チャートを解いているときとは全く違う、ひどく密度の濃い時間が流れ、気がつけば、あれほど長く感じられた『統計学』の授業はあっという間に終わりの時間を迎えていた。
「では、本日の講義はここまでとします。今日の課題の残りは宿題としますので、1週間後までに、大学のホームページからシステムへアップロードするようにしてください」
講師がそう言ってマイクを切ると、大教室のけだるい空気は一変し、学生たちが一斉にガタガタと席を立ち始めた。
隣の彼女もPCを閉じると、俺の方を真っ直ぐに見て、にかっと弾けるような笑顔を向けた。
「今日はほんまにありがとう!めちゃくちゃ助かりました」
「……いや、これくらいお安い御用だから」
大したことない、と澄ました顔で返そうとした、その時だった。
「はるか―! サークルいこ―!」
彼女の背後から声がする。声の主は、先ほどまで席の端っこで意識を失っていた彼女の友人のようだ。
はるか、と呼ばれた彼女は、そちらを振り返って勢いよく手を振った。
「うん、行く! ちょっと待って!」
そう応答すると、彼女はそそくさと慣れた手つきで自分のPCやノートをリュックにまとめ、俺に向かって「じゃあね!」ともう一度ぺこりと頭を下げた。そして、待たせている友達のほうへと、いそいそと軽い足取りで離れていった。
遠ざかっていく彼女の背中には、いつの間にかラケットの入った大きめのケースがぶら下がっていた。
テニスか、あるいはバドミントンか。
俺は片付けも忘れて、しばらくのあいだ、賑やかな人混みの中に消えていく彼女の背中をぼうぜんと見つめていた。
◇
翌日の午前。
俺は1年次の選択科目である『現代経済入門』の講義に出席した。
大講義室を見渡しても、集まっている学生の数はそれほど多くはない。この講義は出席をカード等で取らないし、何より午前中の早い時間帯ということもあって、大半の連中が端からサボりを決め込んでいるのだ。
俺だって同じように部屋で寝ていればいいものの、生真面目な性分が染み付いているせいか、どうしても律儀に足を運んでしまう。そんな自分が少し恨めしかった。
空いている大教室でどこに座ろうかとあたりを見回した、その時、ある後ろ姿にふと目が留まった。
見間違いではない。昨日のあの子──たしか、『はるか』と呼ばれていた女の子だ。
信じられないことに、彼女は他の学生が最も嫌がる最前列の席に、ポツンと一人で座っていた。
心臓が、少しだけドキリと跳ねた。
けれど、昨日の今日で、
「やあ、おはよう。隣、いいかな?」
なんて気安く声をかける勇気も、ナンパなスキルも、俺にはこれっぽっちも持ち合わせていない。結局、俺は彼女の後ろ姿から少し離れた、中段より後方の目立たない席に腰を下ろした。
やがて、チャイムが鳴って講義が始まった。
教壇に立った講師が、マイクを通じて淡々と説明を始める。インフレのメカニズムがどうだとか、現在の円安が日本経済に与える影響がどうだとか、ニュースの延長線上のような話が続く。
案の定、あっという間に教室全体はけだるい雰囲気に包まれていった。パラパラとしかいない学生たちは、案の定スマホを見るか突っ伏して寝ている。
まあ、それも仕方のないことだ。『現代経済入門』なんて、その名前からして退屈さが全身ににじみ出ているような授業なのだから。
だが、しかし、最前列に座る彼女だけは、講師の言葉を一言も聞き漏らすまいとするように講義に集中している。
これには正直、激しい衝撃を受けた。
(なぜだ……? )
俺の頭の中に、いくつもの疑問符が浮かんでは消えた。
だが、もっと驚かされたのは、講義が終わった直後だった。
チャイムが鳴り、学生たちが一斉に出口へと群がる中、彼女は自分の荷物をまとめるどころか、教壇へ向かって歩き出し、教卓の講師を呼び止めて何かを質問し始めたのだ。
大学に入ってから、講師にわざわざ個別に質問をしている学生なんて初めて見た。
その異質な光景に呆然としながら、俺が教室の後方から彼女の姿をじっと眺めていた、その時。
講師への質問を終えて振り返った彼女と、バチッと真っ直ぐに目が合った。
彼女は、あ、という顔をした。
盗み見していたのがバレた気がして、俺は思わずバッと気まずく視線を逸らし、そそくさとリュックに筆記用具を詰め込んだ。早くこの場を立ち去ろうと身を焦らせる俺の耳に、たったった、とこちらへ近づいてくる軽い足音が響いた。
「昨日はどうもありがとうな」
気がつけば、彼女は俺のデスクの前に立って、親しげに声をかけてきていた。
「……あ、やあ。どうも」
俺は動揺を隠すように、なるべく平然とした声を絞り出す。
「この講義、まじめに出てるんやね。えらいなぁ」
「あ、いや……それは、君もだろ」
そんな、他愛のない挨拶を二言、三言交わす。
すると彼女は、少し何かを思案するように視線を泳がせ、ふと、思いついたように俺の顔を覗き込んできた。
「なぁ、この後、少しだけ時間あったりする?」
予想外の言葉に、俺は思わず動作を止めて彼女の顔を見つめ返した。
「昨日の統計学の課題、ちょっと教えてもらえへんかなー、って……」
上目遣いで、申し訳なさそうに手を合わせる彼女。
「べつにいいよ!」
──気づいた時には、俺は我ながら引くほどのスピードで、食い気味に返事をしていた。




