11 わたし太った!?残酷な健康寿命と河川敷ランニング
7月末。
学校はいよいよ夏休みに入った。
夏休みは、大学受験において「天王山」と呼ばれる。1年の中でもっともまとまった勉強時間が確保できる、最大のチャンスであるからだ。
そして何より、8月末には『河合塾 第2回 全統記述模試』が控えている。1回目のD判定から、この夏の成果をぶつけて巻き返しを図らねばならない。まさにここが勝負どころであり、今まで以上に気合を入れて臨む必要があった。
そんな受験生として一番ピリピリしていなければならない大切な時期に──
わたしは、自分の『体重』という名のチャートが、右肩上がりに爆伸びしているという驚愕の事実に気づいてしまった。
……。
…………。
ちょっと待って。嘘やろ。
たしかに、去年の夏に部活を辞めてからというもの、大して運動らしい運動はしていない。
おまけに受験勉強のストレスから、塾帰りにコンビニで甘いものに手を伸ばす頻度も、確実に増えていた。
心当たりはある。めちゃくちゃある。
あるけど、この数字の増え具合は、ちょっとやりすぎというか、わたしの許容キャパシティを完全にオーバーしている。
あかんやん。これガチであかんやつやん。
具体的に何キロ増えたかなんて、どうか聞かないでください。武士の情けです。
受験生たるもの、なりふり構っている場合ではないことは重々わかっている。でも、これはさすがに女を捨てすぎている。
あ、もしかして……わたし、このまんまるの風貌で卒業アルバムの個人写真に載ることになるん?
一生残るアルバムにこの姿。黒歴史の誕生やん?
これはある意味、受験どころではない。早急になんとかせねばならぬ。
すっかり途方に暮れたわたしは、人生のコンサルタントである舞香ちゃんに、再び助けを求めることにした。
例によって、何の前触れもなく舞香ちゃんの部屋のドアを勢いよくぶち開ける。
「舞香ちゃん、大変や! わたし、取り返しのつかんくらい太ってもたぁ!」
突然のクソデカ大声での乱入にもかかわらず、舞香ちゃんはペンを置き、のんびりとした調子で優しく微笑んだ。
「ああ、そうやねえ。ちょっと、ぽっちゃりしてきたねえ」
「ええっ!? 気づいてたん!? 気づいてたんやったら、もっと早く言ってよお!」
「いや、それも全部覚悟のうえで、今はなりふり構わず受験勉強に全力を注いでるんやと思って……。やから、わたしも触れんように気を使ってたんやけど……」
「うん! 1ミリも覚悟してません! これは女子高生として大いに困るんです!」
わたしはベッドのヘリに腰掛け、眉を八の字にして困り顔の舞香ちゃんをすがるように見つめた。
あらためて観察してみて、さらに絶望する。
舞香ちゃんはというと、以前からそのスマートな体型を微塵も崩さず、完璧に維持しているのだ。
彼女は医学部の2年生。大学の勉強はわたしなんかより何十倍も大変そうなのに、どうして舞香ちゃんは1ミリも太らへんの?
その素朴な疑問をそのまま口にしてみると、舞香ちゃんはあっさりと答えた。
「わたし、日頃から結構運動してるしね。なんせ、バスケ部やし」
そうなのだ。舞香ちゃんは、大学でバスケットボール部に所属している。
「大学にまで行って部活?」と最初に聞いた時はすごく意外に思ったけれど、舞香ちゃん曰く、医学部というのは基本、みんな何かしらの部活に入るらしい。医学部のあまりにも厳しすぎる勉強や試験を乗り切るには、過去問を回し合ったり情報を共有したりできる、先輩や友達との縦と横のつながりが絶対に重要なのだそうだ。
そんな大人の事情もあって、舞香ちゃんは中高と続けてきた大好きなバスケを、大学でも続けている。
「ゆうても、中高のときみたいなガチの部活やないから、体型維持にはちょうどええ感じなんやけどね」
舞香ちゃんはそう言い、さらに追い打ちをかけるように付け加えた。
「あと、やっぱり食べ物にもそれなりに気をつけてるしね」
そうなのだ。舞香ちゃんは、あの悪魔的魅力を持つマクドナルド断ちを平然とやってのけているのだ。恐るべき強靭な精神力の持ち主である。
塾帰りのご褒美として、スタバで何の後悔もなく期間限定の新作フラペチーノをカスタム付きで頼んでいるわたしとは、根本的な心の持ちようが違いすぎる。
「ううっ……」
あまりにもデキる人間を目の当たりにして、自分の意志の弱さにうなだれるわたし。
そんな哀れな姿を見て、舞香ちゃんはクスッと笑いながらアドバイスをくれた。
「遥も、ちょっと運動したらええねん。そういえばお父ちゃん、よく近所を走ってるから、一緒に連れてってもらえば?」
その言葉を聞いて、わたしは、時折スポーツウェア姿でいそいそと出かけていくおじちゃんの姿を思い出した。
ランニングか。受験勉強の気分転換にもなるし、何よりこの丸まってきたわがままボディを引き締めるには、ちょうど良いかもしれない。
ただ、一つ問題がある。
この季節、昼間の殺人的な暑さの中で走るのは流石に熱中症で命の危機を感じるし、かといって日が落ちてから女の子が一人で夜道を走るのはちょっと怖い。
でも、大人の男の人であるおじちゃんが一緒なら、防犯面でもこれ以上なく安心だ。
さっそく部屋を出て、リビングにいたおじちゃんに「わたしも一緒に走らせてほしい」とお伺いを立ててみると、おじちゃんは新聞から顔を上げて、「もちろん、ええぞ」と快諾してくれた。
◇
その次の休日。
そんなわけで、わたしは夕食後の涼しくなった時間帯に、おじちゃんと一緒にランニングをすることになった。
スポーツウェアに身を包み、ふたり並んで意気揚々とマンションを出発する。
「最初やからな。遥のペースに合わせるから、軽めにいこか」
そう言って、おじちゃんは気を使ってかなりペースを落として走ってくれた。
二人並んで、目指した先は猪名川の河川敷。川沿いにきれいに整備された道は信号が一切なく、夜風が心地よく吹き抜けて、自分のペースで快適に走ることができる。
「おじちゃんって、ランニングが好きなんやね?」
並走しながら、わたしは弾む息を整えつつ聞いてみた。
「いや、そんなに好きってわけではないかなあ」
「え、そうなん?」
「俺くらいの年齢になると、なあんもせんかったら本当にすぐ太るからなあ。体型と体力を維持するための、最低限の努力やな」
おじちゃんほどの大人でも、あのスマートな体型を維持するために裏で地道な努力を続けているとは。さすがというか、やっぱりただ者ではない。
「遥。日本人の平均寿命っていくらか知ってるか?」
前を見据えてトコトコと走りながら、おじちゃんが不意に尋ねてきた。
「うーん……85歳くらい?」
「大体あってる。たしか、男が約81歳、女が約87歳や。じゃあ、『健康寿命』って言葉は知ってるか?」
「健康寿命? 聞いたことあるような、ないような……」
「心身ともに健康で、誰の手も借りずに活動的に暮らせる期間のことや。たしか、男が約72歳、女が約75歳なんや」
「えっ、そんなに短いん!? なんか、日本人は長寿って手放しで喜んでられへんなあ」
「そうや。平均で計算すると、俺なんか自由に動ける時間はあと20年くらいしかあらへんことになる」
「あ……わかった。それで、おじちゃんはその健康寿命を少しでも延ばすために、こうやって走ってるんやね?」
「その通り。健康寿命を延ばすには運動が絶対に重要。あとはバランスのええ食事と、社会参加やな」
「なるほどなあ。あ、どうりで! おじちゃん、マクドナルドの優待券とか自分で使わんと、いつもわたしにくれるわけやね?」
「ハハ、そうや。無邪気に好きなもんを好きなだけ食べられるんは、若いうちだけの特権やからな」
「う……その結果が、いまのこの、まるまるしたわたし……」
「まあ、物事には何でも『限度』があるいうこっちゃな」
ぐうの音も出ない、至極ごもっともなご意見である。身に染みすぎて胸が痛い。
「この年になったら痛感するねんけど、人間、やっぱり健康第一や。いくら資産があっても、不健康でしんどかったら、どうにもならん」
ハハッと軽快に笑うおじちゃんの横顔を見ながら、わたしはハッと大切なことに気づいた。
おじちゃんは、常に10年先、20年先という「少し先の未来」を見据えて行動しているのだ。後から悔いが残らないように、その時々に何をすべきかを自分で調べ、考え、そして実践している。それが今の仕事であったり、これまでの資産形成であったり、こうして夜に走るランニングであったりするのだろう。
そう思うと、なんだか急に身の引き締まる思いがした。
去年の今頃まで、自分の若さに甘えまくって、なあんにも考えずにその日暮らしで生きていたわたし。あのまま「働きたくない」なんて言いながらダラダラ過ごしていたらどうなっていたか、今考えるとゾッとする。
おじちゃんに引っ張ってもらいながら30分ほど走り、わたしたちは心地よい汗をかいてマンションに戻ってきた。
よし、シャワーを浴びてスッキリしたら、気合を入れて明日の予習に取り掛かろう。
まずは目前の8月末の模試、そしてその先にある大学合格。わたしも、おじちゃんのように少し先の未来をちゃんと見据えて、一歩一歩進んでいければと思った。




