幼き日の思い出
眠りに落ちたら、その夢はすぐに始まった。
『わたくしの、可愛いターシャ』
亡くなった実母のことは、おぼろげにしか覚えていない。
ただ、いつも「わたくしの、可愛い――」と、そうターシャを呼んだ。それだけしか、思い出はない。
それなのに、夢の中の母はあまりにも鮮明だった。だから、夢だとわかったのだ。
母の髪は、ターシャと同じ栗色だった。長く緩やかに顔を縁取っているその髪が、ゆらゆら揺れていた。髪色ははっきりしているのに、その顔は靄が掛かったかのように、ぼやけていた。
『ごめんなさいね、ターシャ』
声が震えていて、泣いていた。幼い時と同じ背丈になったターシャは、母に『なぜあやまるのですか?』と尋ねていた。
『わたくしの、可愛いターシャ。母は遠くに行かなければなりません』
その言葉に幼きターシャは嫌だと駄々をこねた。
いやだ。このままだと母は本当に〝行ってしまう〟!二度とターシャの前には姿を現さない。
そうわかっていた。これは、夢じゃない。はるか昔に起こった〝過去〟だ。
『これがあなたのためだと、母にはわかるのです』
いやだいやだ、とターシャが泣き続けると、母の声がますます涙声になった。
『わたくしの、可愛いターシャ。大丈夫ですよ』
何をもって、大丈夫なのか、とターシャは母に詰め寄った。
『ターシャは、遠い日のいつか、この母にきっと会えます』
だから、と母が続ける。
『わたくしは、とっても幸せです』
ホントウ?ホントウに会えるの?
『ええ。ターシャが望むのなら』
母の顔は見えないけれど、何か大きな決意の現れた顔をしていることは幼いターシャは気づいていた。
『いつ、あえるの?』
無邪気に問いかけると、顔のわからない母が微笑んだ気がした。
『それはね――』
目を覚ますと、既に朝だった。王宮に向かう日がやってきたのだ。
なぜ母のことを思い出したのだろう。まだ〝あの頃〟、ターシャは五歳だった。そして、あの日以来、母はターシャの前から姿を消し、しばらくして父から「ナタリアは死んだ」とだけ告げられた。
「ターシャが幸せになったら、会える……」
あの時、母に〝いつ会えるのか〟と尋ねて返ってきた言葉。今、考えるとあまりにも漠然としすぎていて、あれは子供に言い聞かせるための嘘だったのだろうかとさえ思える。
「ターシャ様、お目覚めですか?」
数回のノックのあと、モアナが扉を開けて入ってきた。
「……お疲れですか?あまり顔色がよろしくないようにお見受けしますが」
ターシャは微笑んだ。
「大丈夫よ。ちょっと、寝起きが良くなかっただけ」
まさかあまり記憶にない母の夢を見たとは、さすがにモアナにも言えなかった。
「王宮に向かわれる日ですもの。緊張なさっても当然だと思います」
モアナはターシャの笑みを違う風に受け取ったようだ。
そうだ。今日は王宮に向かう日。
現実に戻って、ターシャは昨日のダフネとの会話を思い出し、気を引き締めた。
懸念しているのは、ダフネだけではない。なぜか自分に好意的だったルーク殿下のこともある。
ふわり、と清涼感のある香りが漂った。モアナが「失礼します」とターシャに近づき、手首にそっと何かを吹きかけたのだ。
「モアナ、この香りは?」
「気に入られましたか?ザイクに注文した新作の香水を試してみたのですが」
「とても心地よい香りね」
自然と夢のことも、これから王宮で始まる駆け引きも、不安を全て流し去っていく香りだった。
「参りましょう、ターシャ様」
「……ええ!モアナ」
――わたしは、マーガレットと一緒に住んでいた〝あの邸にいた時〟の弱い自分を変えるために、王宮に行くのだから。




