第8話 格上が見ていた
「今日、玲奈さんいるんだよね」
「いるよ」
「本当に?」
「出演者一覧に書いてある」
「そういう意味じゃなくて!」
朝から杏奈が落ち着かない。大型対バンの会場へ入ってまだ十五分ほどなのに、さっきから三度も出演者一覧を確認している。
「昨日、陽葵の動画に反応した本人が、今日同じ建物にいるんだよ?」
「だから?」
「普通にできる?」
「できるでしょ」
「強いなあ」
「別に話しかけられるとは限らないし」
「むしろ話しかけに行こう」
「絶対やめて!」
「何で!」
「昨日一回反応してくれただけで、こっちから『あの動画の私です!』って行く方が怖いよ」
「覚えてるでしょ」
「それとこれとは別!」
今日のイベントは、普段の対バンより明らかに規模が大きい。出演グループ数も多く、同じ女性アイドルでも楽屋の場所が階ごとに分けられているほどだった。
ルミサンに割り当てられたのは、会場の奥にある六組共用の楽屋。それに対してÉclatは出演者用の個室楽屋らしい。
同じイベントに名前が載っていても、まだそれだけの差がある。こうして実際の現場へ来ると、「一段上」という言葉が数字ではなく景色として見えた。
「陽葵、こっち向いて」
美月が言う。
「何?」
「髪」
「また?」
「ここ」
自分の前髪を確認するより先に、美月が私の右側へ手を伸ばした。
「今日多くない?」
「何が」
「直される回数」
「気のせい」
「美月、自分のは?」
「終わってる」
「早」
「センターなので」
「また便利に使ってる」
「便利だから」
沙耶はその横で荷物を確認していた。
「イヤモニ」
「ある」
「タオル」
「ある」
「杏奈、モバイルバッテリー」
「ある!」
「本当に?」
「今日はある!」
「昨日は?」
「昔の話はやめよう」
「昨日だよ」
「私の中ではもう歴史」
「反省が早すぎる」
琴葉は壁際で軽く発声している。普段なら静かなのに、本番前になると喉に関することだけ異様に細かい。
「杏奈」
「何?」
「さっきから喋りすぎ」
「緊張してるんだって!」
「喉は緊張してなくても使う」
「はい」
「水飲んで」
「はい」
素直に飲む杏奈を見て、私は少し笑った。こういうところはいつも通りだ。
いつもより大きな会場でも、格上のグループが何組もいても、私たちは、私たちだった。
「陽葵」
琴葉が今度は私を見る。
「うん?」
「今日、ちょっと硬い」
「分かる?」
「分かる」
「玲奈さんいるから?」
杏奈がすぐ入ってくる。
「それもあるけど」
「他にも?」
「昨日の動画」
私は少しだけ言葉を選んだ。
「見て来る人、本当にいるのかなって」
「いるでしょ」
杏奈は迷いなく言う。
「分かんないじゃん」
「再生数だけ増えて誰も来なかったら、それはそれで怖いけど」
「それ今言う?」
「違う。だから来るって」
沙耶が間に入る。
「杏奈の励まし方、たまに不安になる」
「励ましてるよ!」
「陽葵が余計考え始めた」
「ごめん」
「いや」
私は笑った。
「でも、もし来てくれても」
「うん」
「芝居見て来たのに、ライブの私は全然違うから」
「それ昨日も言ってたよね」
美月が振り向く。
「そうだけど」
「まだ気にしてる?」
「少し」
「じゃあ、もう一回言う」
美月が私を見る。
「一人で見られてると思わない」
その言葉を聞いた瞬間、昨日より素直に入ってきた。
「ステージには五人いる」
「うん」
「陽葵だけ見に来た人がいたとしても、ライブ始まったらルミサン見せればいいじゃん」
「……そうだね」
「琴葉も歌うし」
「うん」
「杏奈もうるさいし」
「何で私だけマイナスなの!」
「沙耶もいる」
「私は?」
「全部直す」
「それ役割?」
笑いが起きる。不安が消えたわけではない。
でも、一人で抱えるほどのものでもない気がしてきた。
◇
リハーサルのため、五人で楽屋を出た。廊下には出演者とスタッフが絶えず行き交っている。
見覚えのある衣装ケース。聞いたことのあるグループ名。
普段なら同じくらいの規模の子たちが多い現場だけれど、今日は違った。私たちより明らかに動員の多いグループ。
メジャーデビュー済みのグループ。テレビ番組で何度か見たことのある人までいる。
こういう場所に来ると、自分たちがどこにいるのかがよく分かる。上には、まだたくさんいる。
「陽葵」
「ん?」
「前」
「え?」
沙耶に腕を引かれた。危うく台車にぶつかるところだった。
「ごめん」
「見すぎ」
「珍しくて」
「観光じゃないよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
そんな話をしながら角を曲がったところで。
「あ」
向こうから女性五人が歩いてきた。衣装ではない。
黒いジャージ。髪もまだ本番用に完成していない。
それでも分かる。Éclat。
普段、ステージ上で見ると完成されすぎていて少し遠い。でも今は、同じようにリハーサル前の格好をしている。
「お疲れさまです」
美月が先に頭を下げた。
「お疲れさまです」
私たちも続く。向こうからも返事が来る。
そのまますれ違う。そう思った。
「桜井陽葵ちゃん?」
「はい!?」
声が裏返った。杏奈が横で小さく息を漏らす。
笑ったな。絶対笑った。
振り返る。如月玲奈がこちらを見ていた。
「やっぱり」
「あの、昨日は」
「動画?」
「はい」
「見たよ」
「ありがとうございます」
頭を下げる。昨日Talkyでたった一言反応された時より、直接言われる方がずっと緊張した。
「面白かった」
「ありがとうございます」
「それしか言えなくなってる」
「すみません」
「謝らなくていいって」
玲奈さんが笑った。近くで見ると、華があるというより、落ち着いている。
美月にも人を引きつけるものはある。でも種類が違う。
玲奈さんはもう「自分が見られること」に慣れきっているように見えた。
「演技やってるの?」
「はい。まだ仕事はほとんどないですけど」
「レッスン?」
「レッスンと、小さい舞台を少し」
「昨日のは?」
「配信番組です」
「奈々ちゃんとやってたやつね」
「奈々知ってるんですか?」
「ビビルともよく一緒になるから」
私だけではなく、美月たちにも視線が移る。
「ルミサン、今日何番目?」
「十四時台です」
美月が答えた。
「じゃあ見られるかも」
「え」
「うち、それより後だから」
「ありがとうございます!」
今度は美月の声が少し大きくなった。たぶん私と同じくらい緊張している。
でも、表面にはあまり出ない。
「そんな固くならなくていいよ」
玲奈さんが笑う。
「対バンなんだし」
「はい」
「じゃあまた」
「お疲れさまです!」
Éclatの五人が去っていく。しばらく全員、その背中を見ていた。
姿が完全に見えなくなる。三秒、五秒。
「陽葵ぃぃぃ!」
「うるさい!」
予想通り、杏奈が私の腕を掴んだ。
「直接言われた!」
「聞いてた!」
「動画見たって!」
「私も聞いてた!」
「ライブ見るかもって!」
「それは私も緊張する!」
「ほら!」
「杏奈が騒ぐから余計緊張した!」
「私悪くないでしょ!」
「二人とも」
沙耶が笑っている。
「廊下」
「はい」
「戻るよ」
琴葉が私の顔を見る。
「赤い」
「しょうがないでしょ!」
「高瀬さんの時と全然違う」
杏奈が言う。
「何でそこで高瀬さん出すの?」
「人気男性アイドルには普通なのに、女性アイドルの格上にはこれ」
「高瀬さんには演技褒められてないもん」
「なるほど」
「何納得してるの!」
◇
本番十五分前。私はステージ袖で客席を見ていた。
普段の会場より明らかに広く、人の数も多い。
そして、ルミサンのペンライトだけではない。色もばらばら。
今日ここへ来ている大半の人は、私たちを目当てにしていない。そこがいつものライブと一番違った。
この中で、十七秒の動画を見た人は、何人いるんだろう。そもそも誰もいないかもしれない。
「陽葵」
美月が横から呼ぶ。
「うん」
「また考えてる」
「ちょっと」
「何」
「本当に見た人いるのかなって」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
「美月までそれ言う」
「でも、どっちでもライブやるでしょ」
「やる」
「なら同じ」
簡単に言う。でも、その簡単さに助けられる。
「行くよ」
美月が手を出した。沙耶。
視線の先には杏奈と琴葉がいる。
私。五人の手が重なる。
「Lumière cinq!」
「行くぞ!」
イントロ。ステージへ出る。
◇
最初の一曲。客席は思ったより反応してくれた。
知らない人が多い。だからこそ、普段の固定ファンに向けるのとは違う緊張感がある。
でも二曲目に入るころには、その感覚も少し薄れた。美月が中央に立つ。
やっぱり強い。どんな会場でも、自分の場所を作る。
琴葉の歌が入る。客席の視線が変わる。
杏奈が煽る。知らない人まで手を上げる。
沙耶は端の方までしっかり見ている。私はその間を走る。
いつものルミサン。いつもの私。
「今日初めてルミサン見る人ー!」
杏奈が叫ぶ。かなりの数の手が上がった。
「多い!」
思わず私まで声を出す。
「今日で覚えて帰ってー!」
「今日は帰っていいんだ」
「前回の反省を生かしました!」
「成長してる!」
客席が笑う。それだけで、少し安心した。
演技動画の私を求められているかどうかなんて、もう考えなくなった。今ここで笑ってもらえた。
それなら十分だ。
◇
終演後。楽屋へ戻るなり、美月が言った。
「良かった!」
「急」
「今日良かった!」
「二回言った」
沙耶が笑う。
「だって良かった!」
「琴葉、最後すごかった」
私が言う。
「今日ちょっと声出た」
「ちょっとじゃない」
「陽葵も二曲目よかった」
「本当?」
「客席見てた」
「そこ?」
「そこ大事」
杏奈はもうスマートフォンを開いていた。
「Talky、ルミサン増えてる!」
「何が?」
「投稿!」
「早いね」
「『黄色の子、昨日の演技の子だ』ってある!」
胸が跳ねる。
「本当にいたんだ」
「いるって言ったじゃん!」
「誰もいなかったらどうしようってちょっと思ってた」
「もっと自信持ちなよ!」
杏奈が画面を見せる。『昨日Clipsで流れてきた子、ルミサンだったのか』
『芝居と全然違う。普通にめっちゃ笑う』 『黄色、MC拾うのうまい』
『歌の紫も強い』 『センターのピンク華ある』
『このグループ思ったより楽しい』 最後の一文で、目が止まった。
「ルミサン褒められてる」
「そこに反応すると思った」
美月が言う。
「だって嬉しいじゃん」
「陽葵個人も褒められてる」
「それも嬉しいよ」
「順番がグループからなんだ」
「悪い?」
「悪くない」
美月は笑った。
◇
今日の物販は、いつもより新しい顔が多かった。ライブの規模が大きいから、それだけでも新規は入る。
それでも。
「初めまして」
「初めまして!」
私の前へ来た男性は、開口一番こう言った。
「昨日の動画見ました」
「ありがとうございます」
「今日イベント来る予定だったから、ルミサン見てみようかなって」
「本当にいるんですね」
「何が?」
「あ、いや」
私は慌てて笑う。
「ライブどうでした?」
「楽しかった」
即答だった。思っていた以上に、その一言が嬉しかった。
「よかった」
「芝居の時と全然違うね」
「よく言われます」
「普段の方がよく喋る」
「芝居でこんな喋ったら変ですよ」
「確かに」
二人で笑う。
「でも次も来ます」
「本当ですか?」
「ライブ見たい」
これは芝居ではなく、ライブだ。
「待ってます」
今度は迷わず言えた。
◇
物販を終えた頃には、朝から感じていた不安はかなり小さくなっていた。演技から私を知る人がいる。
その人がライブへ来る。そしてルミサンを見る。
それは、別々のことではないのかもしれない。楽屋へ戻ろうとしたところで、イベントスタッフに呼び止められた。
「桜井さん」
「はい?」
「今日のライブお疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「昨日の演技動画の件なんですけど」
「はい」
「制作会社の方から、Bright Arcさんに問い合わせが入ってるみたいです」
「問い合わせ?」
「詳しくはマネージャーさんから聞いてください」
「分かりました」
仕事。その言葉が頭をよぎる。
でもまだ期待しない。佐伯さんに何度も言われている。
話が来た。それだけで仕事が決まったわけではない。
「陽葵!」
楽屋の方から杏奈の声。
「佐伯さん来た!」
「今行く!」
戻ると、佐伯さんがタブレットを持って待っていた。
「全員いる?」
「います」
美月が答える。
「陽葵」
「はい」
「昨日の切り抜き見た制作会社から連絡来た」
「さっき聞きました」
「早いわね」
「何ですか?」
「先に言うけど、まだ仕事じゃない」
「はい」
「キャスティング担当が、陽葵の資料を一度見たいって」
「ドラマ?」
「深夜枠」
心臓が跳ねる。
「役は?」
「まだそこまでじゃない」
「はい」
「候補に入れるかどうか、その入口」
「はい」
佐伯さんが私を見る。
「期待しすぎない」
「はい」
「でも」
タブレットをこちらへ向ける。
「昨日までは、資料を見てもらう場所にもいなかった」
その言葉で、昨日、美月が言ったことを思い出した。ゼロじゃなくなった。
格上に名前を覚えられた。知らない人がライブへ来た。
制作側が資料を見ようとしている。どれも大きな成功ではない。
それでも、確実に昨日とは違っていた。
「陽葵」
「はい?」
「顔」
美月が笑う。
「また嬉しい時の顔してる」
「してる?」
「してる」
私は少しだけ笑った。
「じゃあ、今日はしてていいよね」
今度は誰も否定しなかった。
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