第6話 カメラが回ってない時
「それ、絶対に使わないでよ」
楽屋の隅でスマホを構えた杏奈へ言うと、彼女は画面を胸元へ隠しながら、いかにも何もしていませんという顔を作った。
「何のこと?」
「今撮ったでしょ」
「撮ってない」
「じゃあ見せて」
「プライバシーです」
「私の変顔が入ってる時点で私にも権利あるから」
「陽葵、アイドルのくせに権利関係だけ急に強い」
「アイドルだから強いんだよ!」
杏奈が逃げ、私は追う。狭い楽屋のテーブルを挟んで二周したところで、沙耶が呆れたように両手を叩いた。
「はい、そこまで。あと十分で配信始まるから、体力をそんなところで使わない」
「沙耶ちゃん聞いて。杏奈がまた勝手に写真撮った」
「聞いてる。でも陽葵も追いかけ回さない」
「ほら、両成敗」
「杏奈はまず消して」
「はい」
「両成敗じゃないじゃん!」
美月が鏡越しに笑い、琴葉は喉用のスプレーを置きながら杏奈のスマホを覗き込んだ。
「でもちょっと見たい」
「琴葉まで!?」
「どんな顔だったの」
「ライブ終わってスポーツドリンク飲んでる途中」
「最悪の瞬間じゃん!」
「目が半分しか開いてなかった」
「説明しなくていい!」
いつもの楽屋だった。
さっきまでステージに立って、汗だくで三十分歌って踊っていたのに、終われば五人でこんな話をしている。数日前の演技企画の顔合わせで奈々と火花を散らしたことも、本番では即興芝居があると聞かされて少し緊張していることも、この空間に戻ると一度だけ遠くなる。
私はこの時間が好きだった。
配信前、佐伯さんから演技企画の本番進行も届いていた。台本のある前半と、相手から何を振られるか分からない後半。そこに書かれた「即興」という二文字を見ているだけで、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「まだ見てるの?」
美月が私の肩越しに進行表を覗いた。
「だって即興なんだよ。奈々、絶対何かしてくるじゃん」
「するでしょ」
「即答しないで」
「でも陽葵、相手が何してくるか分からない方が得意じゃない?」
「何で?」
「決めてない時の方が人のこと見てるから」
意味を聞き返そうとしたところで、杏奈が「配信三分前!」と大声を出した。美月もそれ以上は説明せず、自分の前髪を確認しに鏡へ戻る。
私は進行表を閉じた。
人のことを見る。
そんなの、普段からやっているつもりだった。メンバーが喋り終わりそうなら次を拾うし、誰かが困っていれば自然に間へ入る。けれど美月が言ったのは、たぶんそれとは少し違う。
その答えを考える前に、配信開始の時間が来た。
「はい、カメラ行くよー」
杏奈が今度は正規の配信用スマホをスタンドへ固定する。
「さっきの写真は?」
「消しました」
「本当に?」
「疑い深いなあ」
「日頃の行い」
琴葉が静かに言うと、美月が吹き出した。
「琴葉、それ便利に使いすぎ」
「だいたい合ってるから」
「味方がいない!」
杏奈の抗議を無視して、沙耶が配信開始前の確認をする。ライブの感想、新しい告知、次の対バン。それから、私が出演する演技企画の話も少しだけすることになっていた。
「陽葵、どこまで話していいか分かってる?」
「本番で即興があるってところまで」
「奈々ちゃんの名前は公式に出てるから大丈夫」
「了解」
「美月は?」
「私は余計なこと言わない」
「その台詞を言う人が一番危ないんだけど」
「杏奈にだけは言われたくない」
カウントがゼロになり、LiveBoxの配信が始まった。
「こんばんはー! Lumière cinqです!」
五人で声を揃えると、コメント欄が一気に流れ始める。
ライブに来てくれた人。来られなかった人。初めて名前を見る人も少しいた。
『今日のライブよかった!』
『美月の髪かわいい』
『琴葉の最後のフェイクすごかった』
『杏奈また汗すごい』
「最後のコメントいらない!」
「拾ったの自分じゃん」
「だって見えたんだもん!」
いつも通り杏奈がコメントを拾い、美月が話を進め、沙耶が脱線しすぎないよう戻す。琴葉は歌の質問が来ると急に説明が長くなり、私はその途中で杏奈が挟んだくだらない一言を拾って笑いに変える。
五人で配信すると、誰か一人が頑張って喋らなくても会話が勝手に転がっていく。
『陽葵ちゃん演技企画出るんだよね?』
そのコメントを杏奈が見つけた。
「そう! 今度、うちの陽葵が女優になります!」
「ならないよ。一回企画出るだけだから」
「もう台本持って歩いてるじゃん」
「練習してるだけ」
「最近、楽屋で急に黙る時あるよね」
美月が言う。
「集中してるの」
「最初、怒ってるのかと思った」
「私も」
沙耶まで頷いた。
「そんな怖い顔してる?」
「芝居のこと考えてる時だけね」
琴葉がさらっと言った。
『芝居の陽葵見たい』
『今やって』
『ほんとに別人になるの?』
『MVの演技パート好きだった』
コメントが少しだけ演技の話へ寄っていく。
「今やってって」
杏奈が嬉しそうに私を見る。
「やらないよ」
「なんで?」
「なんでって、配信中に急に芝居しても変でしょ」
「でも『芝居になると違う』って最近みんな言うじゃん」
「言ってるのメンバーとスタッフさんくらいだから」
「じゃあ検証しよう」
「何を?」
杏奈が目を輝かせた時点で嫌な予感はした。
「本当に、台本なくても芝居できるのか」
「やらない」
「即答!」
「本番前なんだから変なことしないでよ」
「本番も即興なんでしょ?」
「だからってLiveBoxで練習しない」
「コメントでお題もらおうよ」
「杏奈」
沙耶が止めるかと思ったのに、声には笑いが混じっていた。
「陽葵が本気で嫌ならやめなさい」
「ほら!」
「本気で嫌?」
美月に聞かれて、私は詰まった。
本気で嫌というより、怖いのだ。
奈々との顔合わせでは台本があった。MV撮影でも設定があった。いくら即興が入るといっても、番組本番には相手役がいて、カメラがあって、仕事として用意された空気がある。
今はただの楽屋だ。
配信のコメントが流れているだけで、役になる理由が何もない。
「……ちょっとだけなら」
「やった!」
「杏奈、調子に乗らない」
「はい!」
返事だけは素直だった。
『別れ話』
『友達に嘘つかれた』
『妹が家出する』
『プリン食べられた』
「最後のやつにしよう」
杏奈が即決する。
「なんでだよ!」
「一番身近」
「芝居にならないでしょ」
「じゃあ美月が陽葵のプリン食べた」
「私?」
「センターだから」
「関係ない」
美月は笑いながらも椅子を私の方へ向けた。
「どうする?」
「……普通に怒ればいいの?」
「そこから作るのが女優なんじゃない?」
杏奈がものすごく適当なことを言う。
私は一度息を吐いた。
プリン。
そんなことで本気の芝居なんてできるわけがない。
そう思ったのに、美月が目の前で何気なくスプーンを持つ真似をした瞬間、頭の中で別の景色が勝手に立ち上がった。
冷蔵庫。
名前を書いておいた小さなカップ。
約束していた何か。
それを勝手に壊された人。
「……食べた?」
自分の声が出た瞬間、楽屋の空気が変わった。
美月の笑いが消える。
「え?」
「冷蔵庫の、一番奥」
「……ああ」
美月もすぐに乗ってきた。
「ごめん。食べた」
「名前、書いたよね」
「見てなかった」
「嘘」
「本当に」
「昨日も言ったじゃん。今日帰ったら食べるって」
台詞を考えている感じがしなかった。
美月が目を逸らしたから、その先にまだ言いたくない何かがあるように見えた。だから私は追った。
「なんで食べたの?」
「だから、知らなくて」
「違う。知らなかったなら今すぐ謝るでしょ」
美月の眉がほんの少し動く。
その動きを見た途端、私は次の言葉を飲み込んだ。
十秒もなかったと思う。
でも、その十秒だけ、配信コメントがほとんど止まった。
杏奈も何も言わない。
沙耶は時計を見る手を止め、琴葉は私と美月を交互に見ていた。
先に崩れたのは美月だった。
「……無理。プリンでそこまで来ると思わなかった」
笑いながら肩を落とす。
その瞬間、楽屋へ音が戻った。
『え』
『今の何』
『空気変わった』
『怖』
『プリンなのに』
『美月の顔も変わってた』
杏奈がようやく息を吐く。
「……ごめん。普通に怖かった」
「言い出したの杏奈だからね?」
「いや、だってプリンだよ?」
「私もプリンだと思ってた」
美月がまだ笑っている。
「途中から絶対プリンじゃなかったもん」
「私も分かんなくなった」
「陽葵って、それが怖いんだよ」
琴葉の言葉は褒めているのか分からない。
「怖いって言わないでよ」
「いい意味」
「そのフォロー雑じゃない?」
コメント欄が一気に流れ、杏奈がまた拾い始める。
「『本番楽しみ』だって」
「やめて、急にプレッシャー増えた」
「でも今できたじゃん」
「これは遊びだから」
「遊びでも空気止まったよ?」
美月に言われても、私は首を振った。
「奈々相手に、本番でできなきゃ意味ないよ」
今の芝居は、美月が相手だったからできたのかもしれない。二年間一緒にいて、目線の動きも、間の癖も知っている相手だったから。
奈々は違う。
同じ女優志望で、私よりオーディションにも慣れていて、遠慮なくぶつかってくる相手だ。
「じゃあ本番で確認だね」
沙耶が言った。
「今日ので満足しないなら、それでいいんじゃない?」
「うん」
「でも一個だけ」
「何?」
「本番でプリンのお題が来ても笑わないように」
「来ないよ!」
みんなが笑った。
◇
配信が終わった後、杏奈は自販機の前で私にチョコ菓子を差し出した。
「なに」
「お詫び」
「写真の?」
「それと無茶振り」
「二個分なら足りない」
「じゃあ半分あげる」
「最初から半分しかくれないつもりじゃん」
「食べる?」
「食べる」
袋を受け取ると、それで昼から続いていた小さな言い合いは終わった。
その時、楽屋のドアが開いた。
「まだ全員いる?」
佐伯さんだった。
「いますけど」
沙耶が答えると、佐伯さんは手にしていたスマホを私へ向けた。
「陽葵。さっきの配信、番組の演出さんが見てたって」
「え?」
「明日の演技企画の人」
杏奈が私より先に反応する。
「見てたんですか!?」
「公式アカウントで告知してたからね。たまたま入ったらしい」
「やば」
杏奈が急に小さくなる。
「私、変なこと言ってませんでした?」
「それはいつも」
「美月!」
佐伯さんは笑わず、私を見る。
「で、連絡が来た」
「何て?」
「明日の即興パート、予定より長く取るって」
今度は誰もすぐに喋らなかった。
「……長く?」
「元は短い一往復の予定だったけど、相手の返しを受けて続ける形まで見たいらしい」
「それ、さっきのせい?」
美月が聞く。
「たぶんね。『配信でやっていたような反応の変化が本番でも出るか見たい』って」
腹の奥が急に重くなる。
ほんの数分前まで、私は「こんなの遊びだから」と言っていた。
遊びだったはずの十秒が、明日の仕事を変えている。
「陽葵?」
沙耶の声で我に返る。
「……怖」
思わず本音が出た。
杏奈が即座に両手を合わせる。
「ごめん!」
「今さら謝る!?」
「だって私が振ったから!」
「でもやったの私だし」
「じゃあ半分ずつ責任」
「そういう割り方ある?」
琴葉が少しだけ笑う。
「でも、よかったんじゃない」
「何が?」
「本番でできなきゃ意味ないって、さっき言ってた」
「……言った」
「じゃあ本当に確認できる」
逃げ道を塞ぐような言い方なのに、不思議と嫌ではなかった。
美月が私の肩へ軽くぶつかる。
「プリンじゃないといいね」
「そこ?」
「プリンなら勝てるでしょ」
「何の自信」
「私が相手役だったから」
「本番、美月いないから!」
「頑張って」
「急に他人!」
四人が笑う。
さっきまで内輪の遊びだったものが、楽屋の外へ出て、明日の仕事に届いた。
それが嬉しいのか怖いのか、まだ自分でもよく分からなかった。
帰りの電車でスマホを見る。
Pingに新着が一件あった。
送り主は朝倉奈々。
『明日、負ける気ないから』
短い一文を見た瞬間、今度は番組側から変えられた即興パートのことまで一緒に浮かび、腹の奥へ本番の緊張が戻ってきた。
私は少しだけ笑って、返した。
『こっちも』
遊びだった十秒は、もう遊びではなくなっていた。
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