第4話 名前を呼ばれたあとで
「じゃあ、始めます」
佐伯さんの声が、昨日より少しだけ広く感じるレッスン室に響いた。今日ここにいるのは、審査側のスタッフ四人と、美月と私だけだった。
昨日の内部選考で七人から二人まで絞られ、今日、深夜配信番組の演技企画へ出る一人が決まる。昨日と同じ台本ではない。
朝ここへ来てから、新しい一枚を渡された。今度は友人同士の会話。
待ち合わせに遅れてきた相手に腹を立てているのに、本当は来てくれたことに安心している場面だった。
「順番どうします?」
スタッフの一人が聞く。
「どっちでも」
美月が答える。
「陽葵は?」
「私も」
「そういうのが一番困るのよ」
佐伯さんが呆れた顔をする。
「じゃんけんでいいじゃん」
美月が私を見る。
「仕事の最終選考をじゃんけんで決める人いる?」
「順番だけじゃん」
「まあそうだけど」
「最初はグー」
「やるんだ」
結局、負けた私が先になった。
「じゃ、陽葵から」
「はい」
椅子を一つ置き、向かいに相手役の女性スタッフが座る。私は一度だけ台本を見る。
昨日、美月に言った。負けないから、あんなことを口にしたのは、たぶん初めてだった。
ルミサンでは、美月がセンターなのが当たり前だったし、それに不満を持ったこともない。ライブで美月に勝ちたいと思ったことも、ほとんどない。
でも今日は、一人しか選ばれない。欲しい仕事だった。
「準備いい?」
「はい」
「じゃあ、お願いします」
相手役が私を見る。『ごめん! 本当にごめん!』
駆け込んできた設定だ。『……四十分』
『分かってる』 『三十分超えたあたりから、もう帰ろうかなって思ってた』
『電車止まってて』 『連絡くらいできたでしょ』
『スマホの充電切れてて』 『全部言い訳じゃん』
怒っている。でも、ここで怒鳴りたいわけじゃない。
美月は待っていて、先に帰らなかった。
来ると信じていたから、『ごめん』 相手役が俯く。
私はその顔を見た。台本では次に『もういい』と言う。
けれど、その言葉をすぐには出さなかった。一度、横を向く。
本当に帰ろうとしていたなら、こんなところで四十分も待っていない。その矛盾を、自分でも持て余すように息を吐く。
『……もういい』 『怒ってる?』
『怒ってる』 『だよね』
『でも』 相手が顔を上げる。
そこで初めて目を合わせる。『来たから、いい』
相手役が少しだけ笑った。私も、それにつられるように笑いかける。
そこで場面は終わった。
「はい、ありがとう」
「ありがとうございました」
頭を下げて、美月と入れ替わる。美月は私の横を通るとき、小さく言った。
「良かった」
「これからやる人が言わないでよ」
「事実だし」
「緊張するじゃん」
「じゃあもっと緊張しといて」
「性格悪い」
美月が笑った。
◇
美月の芝居は、私とはかなり違った。やっぱり上手い。
何より、カメラに映える。少し頬を膨らませるだけで、怒っているのが可愛く見える。
目線の作り方も綺麗だ。美月が二年間センターなのは、こういうところなのだと思う。
どこを切り取っても、ちゃんと白石美月になる。『……来たから、いい』
最後の台詞。美月は相手を見て、少し照れたように笑った。
「はい、ありがとう」
「ありがとうございました」
戻ってきた美月が、私の隣へ座る。
「どう?」
「うまい」
「知ってる」
「なんで聞いたの?」
「陽葵に言わせたかった」
「嫌な人だなあ」
「でも陽葵も良かった」
「それもさっき聞いた」
そこから審査員同士の話し合いになった。私たちは少し離れたところで待つ。
声は聞こえない。美月が足をぶらぶらさせている。
「緊張してる?」
気になって、私から聞いた。
「してるよ」
「見えない」
「センターなので」
「またそれ使う」
「便利だから」
しばらくして、佐伯さんがこちらを見た。
「二人とも、前来て」
立ち上がる。急に喉が乾いた。
美月が一歩先に進み、私も隣へ並ぶ。
「結果から言うね」
「はい」
「今回、番組に出るのは――」
ほんの一拍だけ、間が空いた。
「陽葵」
呼吸が止まった。
「……はい」
「桜井陽葵で行きます」
「はい!」
今度はちゃんと返事が出た。嬉しい。
そのはずなのに、最初に横を見た。美月と目が合う。
美月は一瞬だけ何も言わなかった。
「何その顔」
「え」
「選ばれた人が、なんで私の顔見てんの」
「いや」
「昨日言ったよね?」
「言われた」
「じゃあ喜びなよ」
そう言って、美月が私の肩を叩いた。
「おめでとう」
笑っていたけれど、美月の手元を見ると、さっきまで持っていた台本の端が少しだけ折れていた。たぶん、本当に悔しいのだと思う。
だから私は「ごめん」とは言わなかった。勝ちたかったのは私も同じだったから、ようやく正面から笑う。
「ありがとう」
「悔しいけどね」
「言うんだ」
「そりゃ言うでしょ」
「そっか」
「次は勝つ」
「まだ何の次か分からないよ」
「何かあるでしょ、この業界」
美月は本当に悔しそうだった。でも、それ以上に普通だった。
私が勝ったから、急に距離ができるわけでもない。それが少し嬉しかった。
◇
「陽葵ぃぃぃ!」
レッスン室へ戻るなり、杏奈が突進してきた。
「ちょ、何!」
「おめでとー!」
「苦しい!」
「選ばれたんでしょ!」
「誰から聞いたの!?」
「美月!」
「早!」
美月は先に戻って、もう結果を伝えていたらしい。
「はい、おめでとう」
沙耶がペットボトルを一本渡してくる。
「ありがとう」
「水だけ?」
「何がほしいの」
「ケーキとか」
「買ってない」
「ですよね」
「夜なら買ってあげる」
「本当?」
「コンビニの」
「十分です」
琴葉が私を見る。
「良かったね」
「うん」
「美月も良かった?」
「何その聞き方」
「二人とも見たかった」
「琴葉は審査員じゃないから」
「じゃあ後で再現して」
「嫌だよ!」
「配信でやろう」
杏奈が即座に乗ってくる。
「絶対やらない!」
「企画になるって!」
「選考台本を勝手に配信するな!」
騒いでいると、佐伯さんが手を叩いた。
「はいはい、喜ぶのはいいけど、今日はこの後合同イベントだから。移動するよ」
「あ」
忘れかけていた。今日は午後から別会場で対バンイベントがある。
出演者には女性アイドルだけでなく、男性グループも何組か入っている。
「衣装、全部持った?」
沙耶が衣装を確認しながら聞く。
「持った」
「杏奈、充電器」
「ある!」
「昨日私のバッグに入ってたけど」
「あ」
「ほら」
「沙耶ちゃんほんと好き」
「返して」
「愛を?」
「充電器を」
◇
イベント会場は、昨日までのライブハウスより少し広かった。控室も男女別ではあるが、廊下は出演者でごった返している。
「ルミサンさん、十五分後リハお願いしまーす!」
「はい!」
美月が返事をする。
「陽葵、こっち」
沙耶が私の衣装の肩を直す。
「さっき直したよ?」
「移動でずれた」
「ありがとう」
「あと髪」
「それも?」
「一本出てる」
美月も横から確認する。
「右側」
「二人がかり?」
「今日選ばれた人なので」
「関係ないでしょ!」
「記念に綺麗にしとこう」
「何の記念写真撮る気?」
杏奈がスマートフォンを構えた。
「はい、演技企画選抜様、一言!」
「撮らないで!」
「お願いします!」
「嫌!」
「ファンの皆さんに!」
「まだ発表してないから!」
「危なっ」
杏奈が慌ててスマートフォンを下げる。
「それ先に言ってよ!」
「普通分かるでしょ!」
「陽葵、スタッフ確認前に情報出したら怒られるよ」
琴葉が淡々と言う。
「私が出そうとしたわけじゃない!」
「杏奈だから」
「私の信用!」
そのとき、廊下の向こうから男性数人の笑い声が聞こえた。黒を基調にした衣装。
どこかで見たことがある。
「ASTERだ」
杏奈が小声で言う。
「ああ、昨日言ってた」
「陽葵、本当に知らないの?」
「グループ名は知ってる」
「一番左、高瀬湊」
「へえ」
「へえ、じゃない」
「どう反応すればいいの?」
「人気上位」
「だから?」
「顔がいい」
「それは見れば分かる」
「陽葵が珍しく正しい評価をした」
「何それ」
そんな話をしていたら、その本人たちが近づいてきた。
「お疲れさまです」
美月が先に挨拶する。
「お疲れさまです」
相手側も返す。そのまますれ違うと思った。
ところが、一番後ろを歩いていた男性が止まった。
「すみません」
私たちが振り返る。
「あれ、落ちました」
「え?」
彼が指差した先。床に、私の衣装用の小さな飾りが落ちていた。
「あっ」
拾おうとすると、先に彼が屈んだ。
「これですよね?」
「はい。ありがとうございます」
「どこか取れた?」
私は衣装を確認する。
「たぶん肩」
「陽葵、見せて」
沙耶がすぐに寄ってきた。
「あ、本当だ。金具緩んでる」
「直る?」
「ピンあるから大丈夫」
「さすが」
私たちのやり取りを見ていた男性が笑った。
「すごいっすね。何でも出てくる」
「この人のバッグ、たぶん救急箱より物入ってるんで」
私は素直にそう答えた。
「陽葵」
「褒めてるよ」
「そう?」
「絶対褒めてない」
男性がまた笑った。
「じゃ、頑張ってください」
「ありがとうございます」
去っていく背中を見て、杏奈が私の腕を掴んだ。
「今の!」
「何」
「高瀬湊!」
「ああ」
「ああ、じゃない!」
「だからどうすればいいの!」
「普通すぎるでしょ!」
「落とし物拾ってくれたからお礼言ったよ?」
「そういう意味じゃない!」
琴葉がぼそっと言う。
「普通の人だったね」
「琴葉まで!」
「何想像してたの」
「ステージの上だともっとキラキラしてるじゃん!」
「今廊下だから」
「そういう話じゃない!」
私は笑っていた。確かに、人気アイドルと聞いて少し構えていたけれど、本人は拍子抜けするほど普通だった。
それどころか、数十分後。リハーサルを終えて共用スペースの前を通ったとき、その高瀬湊は壁際の椅子に座ってコンビニのおにぎりを食べていた。
「鮭だ」
琴葉が言った。
「そこ見る?」
「朝私も鮭だったから」
「謎の親近感」
「見ないであげなよ」
沙耶に促され、私たちは楽屋へ戻った。
◇
イベント本番は問題なく終わった。今日の私は、朝の内部選考のせいか妙に気持ちが軽かった。
ライブではいつも通り五人で歌って、笑って、杏奈の予定外の煽りを拾う。演技企画に選ばれたからといって、急に何かが変わるわけではない。
それが心地よかった。終演後。
スタッフエリアで飲み物を取りに行ったとき、また高瀬湊と会った。
「あ」
向こうが先に気づいた。
「さっきの飾り、大丈夫でした?」
「大丈夫でした。無事最後までついてました」
「よかった」
「ありがとうございました」
「いやいや」
そこで会話は終わると思った。でも彼は、私が持っている台本らしき紙に気づいた。
「ドラマ?」
「え?」
「それ」
「あ、違います。配信番組の演技企画で」
「へえ」
私は少し迷ってから言った。
「今日、事務所の選考通ったんです」
「じゃあおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「演技やりたいんですか?」
「やりたいです」
「俳優?」
「女優です」
「そりゃそうか」
「今の聞き方だとそうなりますよね」
「すみません」
顔を見合わせると、どちらからともなく笑ってしまった。
「でもアイドルもやってます」
「見れば分かります」
「そうじゃなくて」
「ん?」
「女優になりたいけど、ルミサンでも売れたいんです」
どうして初対面に近い人へこんな話をしたのか、自分でも分からない。たぶん今日、美月たちと同じ話をしたからだ。
高瀬さんは少しだけ考えた。
「別に」
「はい?」
「アイドルやってたら女優やっちゃダメってこともないでしょ」
あまりにも普通に言われた。
「……そうですよね」
「うん」
「もっと難しいこと言われるかと思いました」
「なんで俺が?」
「分かりません」
「俺も分かんないです」
また笑ってしまう。
「湊ー、行くぞー!」
廊下の向こうから呼ばれる。
「あ、はい!」
彼はそちらへ返事をしてから、私を見る。
「じゃ、演技企画頑張って」
「ありがとうございます。ASTERさんも」
「お互い」
手を軽く上げて、去っていった。本当に普通の人だった。
◇
楽屋へ戻ると、杏奈がすぐに気づいた。
「陽葵、どこ行ってた?」
「飲み物」
「遅くない?」
「高瀬さんと喋ってた」
「えっ!?」
予想以上の大声が楽屋に響いた。
「何!?」
「なんで!?」
「会ったから」
「何話した!?」
「演技企画の話」
「なんでそんな普通に会話イベント発生してるの!?」
「知らないよ!」
「Ping交換した?」
「するわけないでしょ!」
「そこまで行けよ!」
「何でだよ!」
「杏奈」
沙耶が低い声を出す。
「すみません」
美月が笑っている。
「陽葵って、そういうところあるよね」
「何が?」
「相手が誰でもあんまり変わらない」
「失礼じゃない?」
「褒めてる」
「今日そればっかり」
「でも良かったじゃん」
美月が自分の荷物を持つ。
「今日は陽葵の日だったね」
「やめてよ」
「演技企画選ばれて、人気アイドルと喋って」
「後半は別に報酬じゃないでしょ」
「杏奈にとっては大報酬」
「私じゃないじゃん!」
そのとき、佐伯さんが楽屋へ入ってきた。
「陽葵、明日の演技企画の資料来たよ」
「もう?」
「顔合わせから簡単なテスト収録までやるって」
「テスト?」
「同じ事務所内じゃなくて、今度は出演者同士で」
渡された資料をめくる。出演者名。
知らない名前が並ぶ。その中に、一つだけ聞き覚えがあった。
「朝倉奈々」
「ん?」
美月が覗き込む。
「Vivid Loopの子?」
佐伯さんが頷いた。
「女優志望。演技経験は陽葵より多い」
「へえ」
私はもう一度、その名前を見る。事務所の中ではなく。
今度は本当に、同じ夢を持つ相手と競う。
「面白そう」
気づけば、口から出ていた。
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