第20話 次も呼びたい
「杏奈、それ私のなんだけど」
「名前書いてない」
「冷蔵庫の一番奥に入れたの私!」
「冷蔵庫は公共施設です」
「違うよ!?」
レッスン室の隅で、陽葵と杏奈がプリン一個を巡って揉めている。
その横で美月は振り入れ動画を確認し、琴葉は喉を潤しながら音源を聞き、沙耶は翌週の予定を手帳へ書き込んでいた。
数日前まで、ドラマの撮影やライブへの遅刻で頭がいっぱいだったのが嘘のようだった。
今日は、普通の日だ。
「半分あげるから」
「なんで所有者の私が半分になるの」
「友情」
「便利な言葉として使うな」
「陽葵、スプーン二本あるよ」
琴葉が無表情で差し出してくる。
「琴葉まで杏奈側!?」
「早く食べないとレッスン始まる」
「ほら」
「ほら、じゃない!」
美月が動画から顔を上げる。
「十分休憩終わるよ。食べるなら二人で食べて」
「センター命令出た」
「美月まで!」
「プリンで進行止めないで」
結局、陽葵は自分のプリンを杏奈と半分ずつ食べることになった。
悔しい。
でも、こういうどうでもいいことで本気で揉められる時間が、少し前よりありがたく感じる。
ライブも終わった。
撮影も一区切りついた。
ドラマの放送はまだ先だが、少なくとも今すぐ何かを選ばなければならないわけではない。
陽葵はスプーンを舐めながら、床に置いたスマホをちらりと見る。
通知はない。
それが妙に落ち着く。
一方、その頃。
Bright Arc Entertainmentの事務所では、佐伯真紀が机の上に広げたスケジュール表を見ながら電話を受けていた。
「はい、佐伯です」
電話の相手は、先日のドラマ制作スタッフだった。
軽い挨拶のあと、相手は本題へ入った。
『三浦からなんですけど、桜井さん、次の案件にも出せませんかって』
佐伯の手が止まる。
「内容は?」
『同じ制作チームじゃないんですが、短編の配信ドラマです。年齢的にも合う役があって。今度は前回より台詞あります』
「オーディションですよね」
『もちろん。こちらから候補として名前を出したいという話です』
佐伯は返事を急がなかった。
喜ぶより先に、机に置いてある予定表へ視線を落とす。
ルミサンのライブ。
レッスン。
外イベント。
撮影候補日。
まだ正式に決まっていない仕事まで含めると、来月はすでに白いところが少なかった。
『どうです?』
「資料を送ってください」
『本人には先に声かけても?』
「まだやめてください」
相手が一瞬黙る。
佐伯は淡々と続けた。
「受けるかどうか以前に、スケジュールを見ます。本人に話したあとで『やっぱり無理でした』は一番やりたくないので」
『なるほど』
「それと、今回の現場からの評価は?」
少しだけ間があった。
『三浦はかなり気に入ってましたよ』
「演技を?」
『それもですけど、相手を見て変えられるところを』
佐伯の目が細くなる。
『あと桐生さんも覚えてました』
「桐生蓮さんが?」
『この間、別件でキャストの話してる時に、桜井さんの名前が出て。「あのアイドルの子ですか」って』
佐伯はそこで初めて、わずかに表情を変えた。
「あのアイドルの子、ですか」
『悪い意味じゃないですよ』
「分かってます」
むしろ十分だった。
一度共演しただけの人気俳優に顔と芝居を覚えられている。
それは次の仕事を保証するものではない。
けれど、ゼロではなくなった証拠ではある。
「資料、お願いします」
電話を切る。
佐伯はしばらく画面を見たまま動かなかった。
喜ばしい。
間違いなく。
ただし、それがそのまま「良いこと」とは限らない。
陽葵の仕事が増えるほど、ルミサンの予定との調整は難しくなる。
先日の遅刻は、たまたま一度の撮影延長で済んだ。
次はそうとは限らない。
佐伯はスケジュール表の端へ、仮で一本線を引いた。
それからノートへ短く書く。
『桜井 次案件候補。本人未告知』
その文字を見てから、少しだけ笑った。
本人が知ったら、たぶん目を丸くする。
そしてその次に、四人の予定を気にする。
そこまで簡単に想像できた。
レッスン室では、そんな話が動いていることなど誰も知らない。
「はい、もう一回!」
美月の声に合わせて、五人が鏡の前へ並ぶ。
次のライブで披露する新しい振りの確認。
難しいわけではないが、細かい角度が揃わない。
「陽葵、そこ半歩前」
「え、前?」
「前。今ずっと杏奈と同じ位置にいる」
「ほんとだ」
「私に寄ってきた?」
「寄ってない」
「好き?」
「違う」
「即答ひどくない?」
「レッスン中!」
沙耶が手を叩く。
「二人とも、話は終わってから」
「はーい」
同時に返事をしたせいで、今度は琴葉が笑った。
「息は合ってる」
「振りも合わせて」
美月が呆れながら音源を戻す。
陽葵は鏡の中の自分を見る。
黄色い練習着。
汗で額に張りついた前髪。
ドラマの衣装でも、役の顔でもない。
ただの桜井陽葵。
それが今は、ずいぶん落ち着いた。
休憩が終わる直前、美月が陽葵のスマホを指した。
「予告、家族とかに送った?」
「まだ」
「なんで」
「なんか恥ずかしくて」
「ドラマ出たいって言ってた人が何言ってんの」
「出たいのと身内に見られるの別だから!」
杏奈が即座に乗ってくる。
「分かる。知らない人一万人より親一人の方が恥ずかしい」
「それはちょっと分かる」
沙耶も笑った。
琴葉は首を傾げる。
「私は普通に送る」
「琴葉はそういうとこ強いよね」
「何が?」
「照れが薄い」
「歌聴いてもらうのと同じじゃない?」
陽葵は少し考える。
芝居を見られることと、歌を聴かれること。
自分にとってはまだ同じではない。
でも、いつか同じくらい普通になるのかもしれない。
「じゃあ今日送る」
「今送れば?」
「レッスン前に家族LINE開く勇気はない」
「弱い」
「杏奈に言われたくない!」
休憩に入ると、杏奈がスマホを見ながら声を上げた。
「そういえばさ、ドラマの公式、予告出してる」
「えっ」
陽葵が即座に近づく。
「映ってる?」
「一秒くらい」
「ほんと!?」
「嘘。〇・五秒」
「刻むな!」
「でも映ってる映ってる。ほら」
五人で小さな画面を覗き込む。
桐生蓮のアップ。
主演女優。
教室の場面。
その端に、ほんの一瞬だけ陽葵がいる。
台詞は入っていない。
顔も大きくは映らない。
けれど間違いなく自分だった。
「いる」
陽葵が呟く。
「私、いる」
「そりゃ撮影したんだからいるでしょ」
美月が笑う。
「いや、そうなんだけど」
「保存しとけば?」
沙耶に言われ、陽葵はすぐにリンクを自分へ送る。
杏奈が肩越しに覗き込んだ。
「十回見るやつだ」
「見る」
「百回?」
「そこまでは」
「じゃあ五十」
「なんで増やすの」
琴葉が静かに言う。
「陽葵、嬉しそう」
「うん」
陽葵は素直に頷いた。
「嬉しい」
それ以上のことは、何も起きなかった。
新しい仕事の電話もない。
監督から連絡もない。
桐生から何か届くはずもない。
ただ、自分が出演した作品の予告に一瞬映った。
それだけで十分に嬉しかった。
駅へ向かう途中、陽葵のスマホがもう一度震えた。
今度は湊だった。
『予告見た』
陽葵は歩きながら返信する。
『早くない?』
『たまたま公式流れてきた』
『〇・五秒だけいたでしょ』
少しして返ってくる。
『ちゃんと分かった』
陽葵は思わず口元を緩めた。
『すごい。私でも二回見た』
『本人が見失うなよ』
そのやり取りを覗こうとした杏奈が、横から肩を寄せてくる。
「誰?」
「見ないで!」
「高瀬?」
「なんで当てるの!」
「顔」
「顔で分かるって何!」
美月が前から振り返る。
「置いてくよ」
「待って!」
陽葵はスマホをポケットへしまい、杏奈を追い払って走った。
湊とのやり取りも、ドラマの予告も、今日のレッスンも。
全部まだ、小さな出来事だった。
だから陽葵は、自分の仕事が次の段階へ進み始めていることに気づかない。
夜。
レッスンを終え、五人は事務所近くの駅まで一緒に歩いた。
途中で杏奈と琴葉がコンビニへ寄り、美月が電車の時間を確認し、沙耶が忘れ物がないか全員に聞く。
陽葵は少し後ろを歩きながら、スマホでもう一度予告を見ていた。
桐生が画面に映る。
その数秒後、自分。
「そんな見る?」
隣に来た美月が笑う。
「だって初めてだよ。ちゃんとしたドラマの予告に自分いるの」
「本編もっと映るじゃん」
「分かってるけど」
「じゃあ放送の日、絶対うるさいね」
「美月も見るでしょ」
「見るよ」
「録画も?」
「する」
「なんだ。私より楽しみにしてるじゃん」
「違う」
「今の間、怪しい」
言い合いながら改札前まで来る。
何でもない帰り道だった。
佐伯はその頃、事務所で届いた企画資料を開いていた。
配信ドラマ。
全六話。
陽葵が候補に挙がっているのは、主人公の職場の後輩役。
前回より出番は明らかに多い。
撮影予定日を確認した瞬間、佐伯の眉がわずかに寄った。
ルミサンのイベントと一日重なっている。
まだ調整できる。
でも、簡単ではない。
佐伯は資料を閉じた。
すぐに陽葵へ送ることはしなかった。
代わりにPingを開く。
『明日、事務所寄れる?』
そこまで打って、一度止まる。
「怖がるかな」
独り言が漏れる。
何の用事か分からない連絡は、芸能人にとってあまり心臓に優しくない。
少し考えてから、
『悪い話じゃないから安心して』
と付け足そうとして、やめた。
それを書けば、陽葵は一晩中期待する。
確定していないことを期待させたくない。
佐伯は最初の一文だけ送信した。
その頃、陽葵はホームで電車を待っていた。
「明日、事務所寄れる?」という短い通知を見たあと、陽葵は数秒だけ考えた。
「もしかして今日のプリンの件?」
杏奈が真顔で言う。
「なんで佐伯さんがプリンで呼び出すの」
「窃盗事件」
「犯人そっちだから!」
「でも半分食べたじゃん」
「被害者が示談しただけ!」
美月が電車のドア横で吹き出す。
「その程度で呼び出されたら、杏奈毎日事務所行きだね」
「私そんな問題児じゃない」
沙耶が即答する。
「問題児寄りではある」
「沙耶ちゃんまで!?」
琴葉がぽつりと言った。
「遅刻の件じゃない?」
陽葵の笑顔が一瞬固まる。
「……それだったら怖い」
「今さら呼び出さないでしょ」
沙耶がすぐに否定した。
「必要な話なら昨日してる」
「だよね」
陽葵は少し安心して、もう一度画面を見る。
それでも何の用事かは分からない。
知らないというだけで、少し胸がざわつく。
まさかその通知の向こう側に、次の役の資料が置かれているとは思いもしなかった。
スマホが震える。
佐伯から。
『明日、事務所寄れる?』
陽葵は画面を見つめた。
「……何?」
隣の美月が覗こうとする。
「佐伯さん」
「怒られることした?」
「今日してない!」
「今日“は”?」
「言い方!」
電車がホームへ入ってくる。
陽葵は返信欄を開いた。
『行けます。何かありました?』
そこまで打って、送る。
返事はすぐには来なかった。
ドアが開く。
美月に背中を押され、陽葵は電車へ乗り込んだ。
まだ陽葵は知らない。
自分の名前が、本人のいない場所で次の台本の候補に挙がっていることを。
そして佐伯の机の上で、ルミサンの予定表とドラマの撮影日程が、すでに隣同士に置かれていることを。
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