第17話 まだ、間に合う
「もう一回お願いします!」
「はい!」
撮り直しは五回目、いや、六回目かもしれない。時計を見ても時間が早く進むわけではないと分かっているから、なるべく視線を向けないようにしていた。
それでも、カットがかかるたび、視線が壁の時計へ向かいそうになる。午後五時十二分。レッスン開始まで四十八分。ここから事務所までは、順調でも五十分近い。
もう、間に合わない。
「桜井さん」
「はい」
「今、ちょっと次急いだ?」
監督に言われた。心臓が跳ねる。
「……はい」
「時間?」
「すみません」
「そこ謝る話じゃなくて」
監督は怒っていなかった。だから余計に、恥ずかしかった。
「次、相手待って」
「はい」
「急いでも撮影早く終わらないから」
「はい」
その通り。完全にその通りだ。
「桐生さん、もう一回いいですか」
「はい」
位置へ戻ると、向かいには桐生さんがいる。さっきまでは、同じ台詞が少しずつ変わり、相手を見て返すことそのものが楽しかった。
けれど今は、頭の端にレッスンのことが居座っている。美月、沙耶、杏奈、琴葉の顔と、刻々と過ぎていく時間が、芝居の外からずっと引っかかっていた。
「桜井さん」
桐生さんが小さく言った。
「はい?」
「今、ここじゃないですよね」
隠していたつもりの焦りを、あっさり見抜かれた。
「……はい」
「だったら一回戻った方がいい」
「はい」
「終わらせたいなら」
「はい」
「ちゃんとやった方が早いです」
きつい言い方ではない。でも、刺さった。
「分かりました」
今度は謝らなかった。一度息を吐く。スマートフォンはバッグの中。時計も見ない。
今は目の前の芝居だけを見ればいい。そこへ意識を戻す。
「お願いします」
「お願いします」
芝居が始まり、私の「あの」に桐生さんが振り返って「何?」と返す。今度は先を急がず、その目と声をきちんと受けてから次の台詞を出した。
『さっき、ありがとうございました』 『別に』 『でも』
『君が先に止めてたでしょ』 少しだけ表情が緩む。私はそれを待つ。『……全然止まってなかったですけど』
『止めようとはしてた』 桐生さんが笑う。私も返す。
『じゃあ、半分だけありがとうございます』 『何それ』
「カット!」
カットの声のあとに一瞬だけ静寂が落ち、それからすぐにスタッフの明るい声が響いた。
「はい、オッケー!」
スタッフの声が重なる。力が抜けた。
「ありがとうございました!」
頭を下げた瞬間、ようやく終わったのだと実感して、全身から力が抜けた。
◇
撮影が終わった時、時計は午後五時三十九分を指していた。
「無理」
思わず口から出た。佐伯さんがこちらへ来る。
「陽葵」
「はい」
「レッスンは四人で先始めてもらってる」
「連絡は?」
「黒田さんから入れてる」
「メンバーに?」
「運営経由で」
その言葉を聞くと、胸の奥が落ち着かなくざわついた。
「私、直接送ります」
「着替えてから」
「でも」
「今廊下でスマホ打ってても時間縮まらない」
「……はい」
「落ち着いて」
「はい」
衣装を返し、メイクを落とし、荷物をまとめる。その一つ一つが、焦っている今の私にはひどく遅く感じられた。
自分だけが急いでいる。周りは普通に仕事を終えていく。それが当然なのに、焦る。
「桜井さん」
後ろから呼ばれて振り返ると、そこに桐生さんが立っていた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
「この後仕事?」
「レッスンです」
「アイドルの?」
「はい」
「間に合わない?」
「もう始まってます」
「そっか」
桐生さんはほんの一瞬だけ考えるように黙った。
「大変ですね」
「はい」
「でも今日の最後、良かったです」
私は少し驚いた。
「ありがとうございます」
「最初、時間気にしてましたよね」
「……分かりました?」
「分かる」
「すみ――」
止める。桐生さんが少しだけ眉を上げた。
「今止めました?」
「はい」
「偉い」
「子どもみたいに言わないでください」
思わず笑った。でも、次の瞬間にはまた時計が気になった。
「じゃあ」
「はい」
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
そこで桐生さんと別れた。こんな時なのに、その言葉をかけてもらえたことは嬉しかった。
でも今は、それより先に、四人のところへ行きたかった。
◇
佐伯さんと一緒にタクシーへ乗り込み、そのまま事務所へ向かう。
「出ます」
「うん」
スマートフォンを開く。グループPing。通知がたくさん来ていた。【杏奈:陽葵まだ?】
【美月:撮影押してるって黒田さんから聞いた】 【沙耶:こっちは先始める】 【琴葉:立ち位置確認しとく】 【杏奈:陽葵パート私やる】
【琴葉:やらなくていい】 【杏奈:また即答】 少し笑いそうになる。でも、申し訳なさの方が強かった。
【陽葵:ごめん】 送る。
すぐに既読。【陽葵:今終わった。向かってる】 【陽葵:本当にごめん】 美月から、【美月:了解】
琴葉。【琴葉:気をつけて】 杏奈。
【杏奈:走るなよ】 沙耶。
少し遅れて。【沙耶:あと何分?】 【陽葵:50分くらい】 【沙耶:分かった】
それだけ、責められていない。だから、余計に苦しかった。
「陽葵」
佐伯さんが横から言う。
「はい」
「今何考えてる?」
「迷惑かけた」
「誰に」
「四人に」
「撮影延長、陽葵が決めた?」
「違います」
「じゃあ謝ること?」
「でも私の仕事で」
「それはそう」
「だから」
「だからこそ」
佐伯さんは正面を見たまま言う。
「こういうことは今後増える」
「……はい」
「演技仕事取れたら、撮影は時間通り終わらないこともある」
「はい」
「ライブはライブで時間決まってる」
「はい」
「陽葵一人の気合いで両方時間通りにはならない」
図星すぎて、すぐには何も言えなかった。
「今日どうするべきだったと思う?」
「早めに連絡」
「そう」
「でも時間分からなくて」
「分からないなら、分からないって連絡する」
その言葉を聞くと、胸の奥が鈍く痛んだ。
「四時半の時点で『押すかもしれない』って伝えておけばよかった」
「はい」
「確定してから伝えようとしたでしょ」
「……はい」
「迷惑かけたくないから?」
完全に図星だった。
「はい」
「それ」
佐伯さんが私を見る。
「逆になることあるから」
沙耶にも、きっと同じことを言われる。そう思った。
◇
午後六時三十二分、ようやくレッスン室の扉の前まで着いた。
中から聞こえてくるのはいつものルミサンの曲なのに、歌っている声は四人分しかない。私は一瞬、扉を開けられなかった。
「入らないの?」
佐伯さんが聞く。
「入ります」
意を決して扉を開ける。
「お疲れさまです」
曲が止まる。四人がこちらを見る。
「陽葵!」
杏奈が最初に声を上げた。
「遅い!」
「ごめん!」
「あと二曲!」
「本当にごめん」
「早く着替えて」
美月がすぐに変更点を説明してくれる。怒ってはいない。でも仕事の顔。
「うん」
私は荷物を置く。
「陽葵」
少しして、沙耶が私を呼んだ。
「何?」
「今は着替えて」
「……うん」
話は後。それが分かった。
◇
そのままレッスンへ入り、途中から四人がすでに確認していた変更点を教えてもらう。
「二曲目、ここ変わった」
美月がすぐに変更点を説明してくれる。
「陽葵、前じゃなく一回外」
「分かった」
「杏奈が仮で入ってた」
「ありがとう」
「めちゃくちゃだったけどね」
「美月!」
「本当でしょ」
「四人で陽葵パート埋めるの大変なんだよ!」
杏奈が言う。冗談っぽい。でも、胸が少し痛んだ。
「ごめん」
また言う。杏奈が一瞬、顔を止めた。
「いや」
「うん?」
「そこまで謝らなくても」
「でも」
「陽葵が遊んで遅れたわけじゃないし」
その言い方が、意外だった。
「ただ」
杏奈はそのまま言葉を続けた。
「もっと早く言ってくれたら、最初から四人用で考えられた」
思わず杏奈を見る。
「何」
「いや」
「私だってたまにはまともなこと言う」
「言ってない」
「顔が言った!」
「ごめん」
「また謝った!」
少しだけ笑いが起きる。でも、沙耶は笑っていなかった。
◇
レッスンが終わったのは午後八時だった。
琴葉は喉を冷やしながら座っている。杏奈は床に転がった。美月が明日の予定を確認する。沙耶が私を見る。
「陽葵」
「うん」
「ちょっといい?」
やっぱり、この話が来た。
「うん」
四人ともいる。でも沙耶は、私を別室へ連れていかなかった。たぶん、これは五人の話だから。
「今日」
「うん」
「何時くらいに押しそうって分かった?」
「四時半くらい」
「私たちに連絡来たの、五時過ぎ」
「うん」
「何で?」
「終わる時間分からなかったから」
「だから?」
「確定してから言った方がいいかなって」
「誰が?」
「え?」
「誰がそう言ったの」
「私が」
沙耶は少し黙った。怒鳴らない。だから怖い。
「陽葵」
「うん」
「決めてから報告するの、次からやめて」
胸の奥に、まっすぐ入った。
「……うん」
「今日、四人でリハするのは別にいい」
「でも」
「よくはないよ。五人のリハなんだから」
「うん」
「でも仕事ならしょうがない時もある」
「うん」
「私が嫌なのは」
沙耶が私を見る。
「陽葵が一人で『まだ大丈夫』『まだ迷惑じゃない』って決めること」
何も言えなかった。
「迷惑かけたくなかった?」
「うん」
「だったら相談して」
「でもみんなも仕事中だし」
「Ping一行でいいじゃん」
「……うん」
「『押しそう』だけでいい」
「うん」
「こっちで考えるから」
私は俯きそうになる。でも、ちゃんと沙耶を見る。
「ごめん」
「それも」
「え?」
「謝って終わらせない」
いつもより少し強い言い方だった。
「次どうする?」
「分かった時点で連絡する」
「確定してなくても?」
「うん」
「誰かに迷惑かどうか、自分で先に決めない」
「……うん」
「ならいい」
沙耶が息を吐く。そこでようやく。少しだけ表情が緩んだ。
「撮影どうだった?」
予想していなかった問いを急に向けられた。
「え」
「楽しかった?」
「……楽しかった」
「台詞増えたんでしょ」
「うん」
「よかったじゃん」
泣きそうになった。
「沙耶ちゃん」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「やっぱり」
「でも」
沙耶が小さく笑う。
「仕事取れたことは嬉しいよ」
両方。怒っている。でも嬉しい。そういうのも同時にある。
「ありがとう」
「それは言っていい」
「難しいなあ」
「覚えて」
◇
帰りは五人で駅まで歩き、少しすると杏奈が私の隣へ並んだ。
「陽葵」
「何?」
「今日さ」
「うん」
「撮影伸びてるって聞いた時」
「うん」
「美月、ずっと時計見てた」
前を歩いている美月を見る。
「そうなの?」
「うん」
「怒ってた?」
「違う」
「じゃあ何」
「心配してた」
「何を?」
「間に合うかなって」
杏奈が少しだけ声を落とした。
「だから」
「うん」
「次は早く言って」
今日二回目の連絡は、また杏奈からだった。
「分かった」
「あと」
「何?」
「桐生蓮どうだった?」
「急に戻った!」
「ずっと聞きたかった!」
「台無し!」
「そこは別!」
私は笑ってしまった。少し前まで、杏奈は何も考えていない人みたいに見えることがある。でも、ちゃんと見ている。美月のことも、私のことも。
「普通だったよ」
「嘘」
「本当」
「顔いい?」
「いい」
「近くで?」
「何の確認?」
「重要!」
「うるさい」
前を歩く美月が振り返る。
「二人とも早く!」
「はーい!」
前を歩く四人の背中を見ながら、今日初めて、女優の仕事のせいでこの四人を待たせたのだと改めて実感した。たった三十分ちょっと、それだけ、でも、これが最初なのかもしれない。
そんな予感が、少しだけ残った。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




