第16話 予定になかった台詞
「昨日より顔死んでる」
「朝からひどい」
「だって眠そう」
「寝ました」
「何時間?」
「六時間」
「足りない」
「琴葉まで佐伯さんみたいなこと言う」
翌朝、昨日と同じテレビ局の共有控室で、私はLiveBox越しに琴葉の顔を見ていた。正確には、五人のグループ通話だ。集合時間が少し遅かったので、控室へ着いてから十五分だけ繋いでいる。
「陽葵、本当に今日桐生蓮と芝居するんだよね?」
杏奈が画面いっぱいに顔を寄せてくる。
「する」
「すご」
「昨日から何回言うの」
「だって桐生蓮だよ?」
「分かってる」
「サイン」
「もらわない」
「写真」
「撮らない」
「握手」
「仕事!」
沙耶が向こうから止めた。
「杏奈、陽葵を何しに行かせてるの」
「社会見学」
「違う」
「私もそんな気分ちょっとあるけど」
「陽葵まで言わない」
美月が画面の向こうで髪をまとめながら笑う。
「今日、私たちは午後からレッスンだから」
「うん」
「陽葵は終わったら事務所来る?」
「予定では」
「予定では?」
「撮影だから分かんないって佐伯さんに言われた」
「昨日覚えたね」
「すごく覚えた」
昨日は、ほとんど待って終わった。今日は台詞がある。桐生さんとのシーンもある。楽しみなのに、昨日よりずっと緊張していた。
「陽葵」
琴葉が言う。
「うん」
「今、桐生さんのこと考えてる?」
「え?」
「顔」
「何でみんな顔で分かるの」
「分かりやすいから」
「考えてるけど」
「役じゃなく?」
その一言に、少し止まった。
「……役」
「ならいい」
「琴葉、たまに先生みたい」
「相手見ればいいんでしょ」
「簡単に言うなあ」
「いつもやってる」
昨日、美月にも同じことを言われた。芝居が始まれば、たぶん余計なことは忘れて、相手を見て、その芝居を受ける。
そこから返すところまでは、今まで通りでいい。
「陽葵ちゃん、準備お願いしまーす」
控室の外から呼ばれた。
「あ、行く」
「頑張って!」
「杏奈声大きい」
「陽葵」
美月が最後に呼ぶ。
「うん?」
「楽しんでおいで」
「……うん」
「顔戻った」
「そんな変わった?」
「変わった」
通話を切る。私は一度だけ深呼吸して、控室を出た。
◇
「おはようございます」
「おはようございます」
教室セットへ入る。昨日よりは慣れた。机の位置も分かる。自分がどこへ座るかも覚えている。
それでも。
「おはようございます」
低い声がして。やっぱり少しだけ身体が固まった。桐生さん。
「おはようございます」
頭を下げる。昨日は廊下ですれ違っただけ、今日は、こちらを見て挨拶が返ってくる。
「昨日もいましたよね」
「はい」
「教室の後ろ」
「いました」
「背景撮ってました?」
「はい」
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
普通。本当に普通の会話。なのに、自分の中では、テレビの人と喋っているという感覚がまだ消えない。
「桜井さん」
監督から呼ばれる。
「はい」
「段取り一回やるよ」
「お願いします」
シーンは昨日聞いていた通り。主人公と友人が喧嘩しているところへ、私が間に入る。途中から桐生さんの役が教室へ入ってくる。
「桜井さん、ここ」
「はい」
「一回二人見てから止める」
「はい」
「桐生さん入ってきたら、最初ちょっとびっくりして」
「分かりました」
「昨日廊下で見た時みたいに」
「監督、見てたんですか!?」
「佐伯さんに聞いた」
「佐伯さん!」
少し離れたところで、佐伯さんが知らない顔をしている。
「ひどい」
「使えるものは使う」
「本当に芸能界って怖い」
監督が笑った。
「じゃ、一回合わせよう」
「はい」
始まる。『もういいって』 『よくないだろ』 『忘れてたんだからしょうがないじゃん』
『しょうがなくないだろ』 私は二人を見る。怒っている。でも、本当に縁を切りたいわけではない。
『はいはい、そこまで』 一歩入る。
『二人とも声大きい。廊下まで聞こえてたよ』 『お前には関係ない』 一瞬、少し腹が立つ。でも、今は二対一にしたくない。
『うん。関係ない』 笑う。
『でも怖いんだもん』 『何が』 『明日から同じクラスで気まずくされるの』 主人公が目を逸らす。
『だから今日は帰って、明日また喧嘩して』 『何それ』 『今日よりちょっと冷静だから』 空気が緩む。
そこで、教室の扉が開く。『何やってんの』 桐生さんの声。昨日、廊下ですれ違った時とはまったく違った。
声量は大きくない。でも、その一言で、全員の意識がそちらへ向く。役として、そこにいる。私は少しだけ驚いた。
本当に、自然に、『廊下まで聞こえてる』 私は思わず主人公たちを見る。『……ほら』 口から出た。
台本にはない。『だから言ったじゃん』 主人公役が少し苦い顔をする。桐生さんがこちらを見る。
ほんの一瞬、私はその視線を受ける。『先生来る前に終わらせろよ』 シーン終了。
「はい、止め」
監督の声で戻る。
「桜井さん」
「はい」
「今の『ほら』、いいね」
「ありがとうございます」
「本番も残していい」
「いいんですか?」
「自然だったから」
胸が少し熱くなる。
「あと」
監督が桐生さんを見る。
「今、桜井さん見た?」
「はい」
「何で?」
「俺の台詞と、この人の台詞が被ってたから」
「なるほど」
この人。まだ名前で呼ばれていない。当然。
でも、少しだけ不思議な気持ちになった。
◇
本番は一回目が終わり、すぐ二回目へ進む。
三回目。撮るたびに、少しずつ違った。主人公役の言い方。桐生さんの入り。
私の間。スタッフからの指示。
「桜井さん、今度少し立ち位置後ろ」
「はい」
「顔、桐生さん側向きすぎない」
「はい」
「目線だけでいい」
「分かりました」
難しい。でも面白い。相手を見るだけでは駄目。カメラにも入る。
でもカメラを意識しすぎれば、今度は相手を見失う。
「楽しい……」
小さく呟いた。
「何が?」
隣から声。桐生さんだった。
「聞こえてました?」
「近いので」
「すみません」
「何で謝るんですか」
「あ」
「今のも」
「癖かもしれません」
「謝るのが?」
「たぶん」
「直した方がいいですよ」
「そんなにはっきり」
「仕事で必要ないところで謝ると、相手も困るから」
「……はい」
危うくまた謝りそうになった。桐生さんが少しだけ眉を上げる。
「今、謝おうとした?」
「してないです」
「顔が」
「顔で分かるんですか」
「分かります」
「みんなそれ言う」
「誰?」
「メンバー」
「へえ」
そこでスタッフから呼ばれる。
「桐生さん、次お願いします」
「はい」
すぐ仕事の顔に戻る。私は少しだけ、その背中を見る。昨日より近い。でも、まだ、遠い。
◇
午前の撮影が終わる。
「桜井さん、お昼入ってください」
「はい」
控室へ戻ろうとしたところで。
「桜井さん」
監督に呼び止められた。
「はい」
「午後、一個追加」
「追加?」
「さっきの教室シーンの後」
台本を開く。
「ここ、本来桐生さんと主人公だけだったんだけど」
「はい」
「女子生徒も残したい」
「私?」
「そう」
心臓が跳ねる。
「台詞、あります?」
「今考えてる」
「今?」
「現場だからね」
監督が脚本担当と話す。数分後。
私に渡されたのは、手書きの台詞だった。『あの』 『さっき、ありがとうございました』 たった二言。
「これ」
「覚えられる?」
「はい」
「じゃ午後やる」
「はい!」
答えた声が思った以上に大きかった。
「嬉しそう」
「嬉しいです」
「正直」
「だって予定になかった台詞ですよね」
「そう」
「増えたんですよね」
「二言だけだけど」
「二言でも」
監督が少し笑った。
「じゃあ大事にやって」
「はい」
◇
昼休憩。私はすぐグループPingを開いた。【陽葵:台詞増えた】 三秒、【杏奈:!!!!】
【美月:本当?】 【琴葉:何個】 【陽葵:二言】 【杏奈:二言!!!】
【沙耶:何時終わる予定?】 そこで、少しだけ現実へ戻った。【陽葵:たぶん予定通り】 【沙耶:たぶん?】
【陽葵:午後追加撮影入った】 【沙耶:佐伯さん把握してる?】 【陽葵:してる】 【沙耶:ならいい】
短い。でも、沙耶が気にするのは、喜びより先に予定だ。今までなら少し冷たいと思ったかもしれない。でも、今は分かる。
今日もルミサンにはレッスンがある。私は終わり次第、合流する予定だ。【美月:間に合いそう?】 【陽葵:今のところ】
【杏奈:もし遅れたら私が陽葵パート歌う】 【琴葉:それは無理】 【杏奈:即答!?】 【陽葵:帰るから!】
笑う。まだ、この時は、本当に予定通り終わると思っていた。
◇
午後、追加された場面。桐生さんと向かい合う。午前より近い。
「桜井さん、緊張した?」
監督が聞く。
「しました」
「正直でよろしい」
「だって急に二人なんで」
「桐生さん怖い?」
「本人の前で聞かないでください」
スタッフが笑う。桐生さんは特に気にした様子もない。
「怖いですか?」
「聞くんですか!?」
「監督が聞いたので」
「テレビで見てた人なので」
「それ怖いとは違いますよね」
「遠い?」
「それです」
「じゃあ近づいてください。芝居なので」
言い方が真面目なのか冗談なのか分からない。
「はい」
指定された位置へ入り、芝居が始まる。
『あの』 桐生さんが振り返る。『何?』 私は少しだけ息を止めた。
『さっき、ありがとうございました』 『別に』 『でも』 『君が先に止めてたでしょ』
その言い方が、思っていたより柔らかかった。私は少しだけ驚く。『全然止まってなかったですけど』 『止めようとはしてた』
桐生さんが、ほんの少し笑った。私は、その笑いを受けて。自然に笑ってしまう。『……じゃあ、半分だけありがとうございます』
『何それ』
「カット」
監督がモニターを見る。
「いいね」
「ありがとうございます」
「もう一回」
「はい」
二回目は、さっきとは少し違う返しになった。
三回目になると、また少し違う返しになった。
私はだんだん、桐生蓮を見なくなった。役を見る。
相手の声を聞き、表情を受けることだけに集中した。
◇
撮影終了予定時刻。午後四時。
でも、スタッフが動かない。照明も片付かない。次のカメラ位置が組まれている。
「佐伯さん」
「うん」
「終わらない?」
「終わらないかも」
「レッスン」
「今確認してる」
胸が少しざわつく。ルミサンのレッスンは午後六時から、ここから事務所まで移動に一時間弱。四時半に出れば間に合う。五時でも、少し遅れるくらい。
「桜井さん」
スタッフに呼ばれた。
「はい」
「すみません。さっきの場面、一部撮り直します」
「私も?」
「お願いします」
「何時くらいまでですか?」
「まだ何とも」
一瞬、聞くか迷った。でも、沙耶の言葉を思い出す。佐伯さんに確認する。
「レッスン、どうなります?」
「今黒田さんと調整中」
「私からメンバーに言った方が」
「待って。時間確定してから」
「はい」
私はスマートフォンを見る。グループPing。杏奈から、【杏奈:陽葵もう出た?】 指が止まる。
まだ、そう返そうとした時。
「桜井さん、お願いします!」
「あ、はい!」
スマートフォンを伏せて撮影へ戻った。この時はまだ、
まだ私は、少し遅れるだけだと思っていた。
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