第14話 分からないなら聞けばいい
「桜井さん、立ち位置変わります」
「え?」
初めて入ったテレビ局で、私が最初に聞き返した言葉はそれだった。
収録フロアの廊下にはスタッフが絶えず行き交い、誰かがインカムで話しながら通り過ぎ、別の誰かが台車いっぱいの機材を押していく。壁には見たことのある番組のポスターが並んでいるのに、立ち止まって眺めている人は一人もいなかった。
私だけが、ここにいること自体にまだ慣れていない。
「すみません、もう一度お願いします」
「シーン十八、教室の後ろじゃなくて窓側。あと台詞の前、先生役が横切るので半歩下がってください」
「窓側で、先生が横切った後に半歩……」
「前じゃなくて、先に半歩下がる。そこに先生が入るから」
「あ、はい」
「台詞はそのままです」
スタッフはそこまで言うと、もう別の人に呼ばれて走っていった。
残された私は、台本とセットの入口を交互に見る。
「……分からない」
小さく呟いた。
今日が、初めての本格的なドラマ撮影だった。
朝はメイク室へ入るだけで緊張した。アイドルの現場ならメンバー五人で同じ鏡の前に並び、杏奈が余計なことを喋り、美月が髪型を確認し、沙耶が忘れ物を拾う。今日は私一人で椅子に座り、初対面のメイクさんから「普段より薄めにしますね」と言われるまま顔を作ってもらった。
「アイドルさんだとステージ用、濃いでしょ?」
「はい。照明で飛ぶからって」
「今日は普通の高校生だから、作り込みすぎない方がいいです」
その一言だけでも、ここでは“ルミサンの陽葵”ではなく役のために見られているのだと分かった。嬉しいような、心細いような感覚だった。
衣装も制服一式を渡され、袖丈をその場で調整された。自分の衣装なのに自分の好きなように着るものではなく、画面の中で他の生徒たちと同じ世界に見えることが優先される。
「制服、変じゃないですか」
鏡越しに聞くと、メイクさんが袖口を見た。
「変じゃない。むしろ馴染んでる」
「二十一なんですけど」
「高校生役でそこ気にしたら負け」
「そんなものですか」
「そんなもの。あと、現場で変更あっても顔に出しすぎない」
「もう出てます?」
「さっきスタッフさんに呼ばれた時から」
「早い」
「初日はみんなそんな感じ」
「みんな?」
「俳優さんでも。分からないなら聞けばいいよ」
「忙しそうで声かけにくいんです」
「忙しい時ほど、間違えて撮り直す方が困るから」
「佐伯さんと同じこと言う」
「現場の人は大体そう言うと思う」
その時は笑って聞いていた。
数分後、本当に自分から聞かなければならなくなるとは思っていなかった。
準備を終えてようやくセット前へ来たところで、今度は立ち位置変更を告げられた。
数日前に届いた合格通知には、役名すらない「女子生徒」と書かれていた。台詞は数行。それでも私は何度も読み、誰に話しかけているのか、どのタイミングで視線を動かすのか、自分なりに考えてきた。
なのに現場へ来たら、考えてきた形が開始前から崩れた。
「陽葵、大丈夫?」
付き添いで来ている佐伯さんが、少し離れたところから声をかける。
「たぶん」
「たぶん?」
「立ち位置変わったんですけど、説明が速すぎて半分しか分からなくて」
「じゃあ確認して」
「誰に?」
「今言ったスタッフさんか、助監督さん」
「忙しそうです」
「忙しいよ」
あっさり言われた。
「でも分からないまま本番やる方が迷惑。聞いてきなさい」
正論だった。
私は台本を抱えて、さっきのスタッフを探した。
けれど廊下の先に見つけた時には、すでに別の出演者と話している。割り込んでいいのか分からず立ち止まり、結局そのままセット入口まで戻った。
胸がじわじわ苦しくなる。
ライブなら分かる。
立ち位置が変われば美月を見る。フォーメーションなら琴葉と確認する。MCなら杏奈が何か言い、沙耶がまとめる。
でもここには四人がいない。
私が分からないことを、誰かが自然に拾ってくれる場所ではなかった。
「桜井さん?」
「はい!」
別のスタッフに呼ばれて振り返る。
「スタンバイお願いします」
「はい」
もう時間がない。
教室セットへ入ると、窓も机も黒板も掲示物も、本当に学校みたいに作り込まれていた。見慣れた教室のはずなのに、照明とカメラがあるだけで別の場所に見える。
床には色の違うテープが何本も貼られている。
どれが私の印か分からない。
「あの、すみません」
近くにいた助監督らしい男性へ声をかける。
「桜井陽葵です。さっき立ち位置変更って聞いたんですけど、窓側のどこに入ればいいですか」
「桜井さんね。黄色テープ」
「これですか?」
「それ。先生が前通るから、台詞前に半歩下がる。先生抜けたら戻って台詞」
「下がって、戻ってから台詞」
「そう」
「ありがとうございます」
聞けば、十秒で済んだ。
さっき廊下で一人で悩んでいた時間は何だったんだと思う。
「ちなみに、次また位置変わったら誰に聞けばいいですか」
「近くの助監督でいいよ」
「名前分からなくても?」
「『助監督さん』で振り向く人多いから」
「多いんだ」
「何人もいるからね」
「じゃあ、間違えて別の人に聞いたら?」
「その人が正しい人につなぐ」
「それなら聞けそう」
「でしょ」
難しいのは質問そのものではなく、知らない現場で「聞いていい」と自分に許可を出すことだったらしい。
「分からなかったら聞いて。新人さんは特に」
「はい」
「本番中にぶつかる方が大変だから」
それだけ言って、助監督はすぐに別の指示へ戻った。
優しく面倒を見てもらったわけではない。
でも、聞けば答えてくれた。
それだけで少しだけ呼吸が楽になった。
「桜井さん、次の変更入ったら大丈夫そう?」
近くのスタッフに聞かれる。
「たぶん」
「たぶん?」
「今度はすぐ聞きます」
「それなら大丈夫」
「皆さん、聞かれるの嫌じゃないんですか」
「本番止まる方が嫌」
「全員同じこと言う」
「現場なので」
「覚えました」
少し笑われた。
「じゃあ次、分からなかったら一分悩む前に聞いて」
「一分?」
「今たぶん五分くらい悩んでた」
「見られてた」
「新人さん分かりやすいから」
「次は十秒にします」
「ゼロでいいよ」
「努力します」
◇
「テスト行きます」
声が飛ぶ。
私は黄色いテープへ立った。
主人公役の若手女優が前方の席に座り、先生役の俳優が教壇近くで確認をしている。
私の役は、その主人公を遠巻きに見ているクラスメイトの一人だ。
大きな見せ場なんてない。
でも私はこの数行を取るためにオーディションを受けた。
「よーい」
空気が変わる。
先生役が歩き出す。
私は一歩――ではなく、半歩だけ下がる。
先生が目の前を横切る。
戻る。
主人公役を見る。
「昨日も一人だったよね」
台詞を言う。
終わった。
「はい、カット」
一瞬、力が抜けた。
でもすぐにスタッフが動き始める。
「もう一回。先生の抜けるタイミング少し早めます」
また変わる。
「桜井さん、今度は戻りを少し遅らせて」
「はい」
今度は聞き返さなかった。
「先生が抜けてから、一拍ですか?」
「そう、それくらい」
「分かりました」
二回目。
三回目。
少しずつ、現場で言われたことをその場で受け取る感覚が分かってくる。
レッスン室で準備した正解を持ち込むのではなく、その場で変わったものに合わせる。
芝居そのものより前に、仕事として覚えなければいけないことが山ほどある。
「はい、今のでOKです」
その一言を聞いた時、たった数行の役なのに、思った以上に嬉しかった。
セットを出る途中、さっき立ち位置を教えてくれた助監督とすれ違った。
「ありがとうございました」
「ん?」
「さっき、位置教えてもらって」
「ああ。ちゃんとできてたね」
たったそれだけだった。
でも、その短い言葉が妙に嬉しかった。芝居を褒められたわけでも、特別扱いされたわけでもない。ただ、変更を理解して現場を止めずにやれた。それも今日の私には立派な成功だった。
「次からはもっと早く聞きます」
「それがいい。分からないまま黙ってるのが一番困るから」
笑われるでもなく普通に返され、私は小さく頭を下げた。
芸能界の現場は、誰かが新人を育てるために止まってくれる場所ではない。でも、聞くことまで拒まれる場所でもなかった。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
「佐伯さん」
「何」
「聞けました」
「見てた」
「十秒でした」
「でしょうね」
「もっと早く行けばよかった」
「次からそうすればいい」
「怒らないんですね」
「何に」
「一回迷ったこと」
「本番止めてないから」
「基準そこ?」
「仕事なので」
「厳しい」
「でもできたでしょ」
「……できました」
「じゃあ一個覚えた」
佐伯さんがセットの外から親指を立てている。
私も小さく返した。
「顔、さっきより戻った」
佐伯さんが言う。
「そんな分かる?」
「朝はずっと『私ここいていいですか』って顔だった」
「言ってない」
「顔が」
「今日そればっかり」
「午後はもう少し普通に歩けそう?」
「たぶん」
「またたぶん」
「でも朝よりは」
「なら十分」
まだ何も成し遂げていない。
でも朝ここへ来た時より、ほんの少しだけこの場所の歩き方を知った気がした。
◇
昼休憩の前、私は自販機を探して収録フロアの廊下を歩いていた。
どこへ行っても同じような白い壁と扉が続き、自分がどこから来たのか分からなくなりそうになる。
Pingには朝からメッセージが溜まっていた。
『テレビ局どう?』
美月。
『迷子になってない?』
杏奈。
『水飲んで』
琴葉。
『分からないことは聞きなさい』
沙耶。
最後だけ佐伯さんと同じことを言っていて笑った。
『さっき立ち位置変わって焦ったけど、なんとか終わった』
送ると、すぐに杏奈から返事が来る。
『もう女優じゃん』
『台詞数行だよ』
『数行でもテレビ出るじゃん』
美月からも来た。
『ちゃんと楽しんできな』
画面を見て少し笑う。
その時、廊下の向こう側が急に騒がしくなった。
スタッフが何人か足を止める。
誰かが通るために自然と道が空く。
何だろうと思って顔を上げた。
最初に見えたのは背の高い男性だった。
黒いシャツに細身のパンツ。派手な服ではないのに、周囲の人の視線がそこへ集まっている。
私はすぐに分かった。
桐生蓮。
テレビや映画で何度も見た人が、本当に同じ廊下を歩いている。
「……本物だ」
思わず声が漏れた。
近くのスタッフに何か言われ、桐生さんが足を止める。
台本を受け取り、数ページめくる。
それだけの動きなのに、私は妙に見入ってしまった。
画面の中では、もっと遠い人に見えていた。
実際に見ても、やっぱり遠かった。
同じ仕事場にいるのに、私とは立っている場所が全然違う。
その時だった。
桐生さんが顔を上げた。
視線がこちらへ流れる。
一瞬だけ、目が合った気がした。
私は反射的に背筋を伸ばす。
けれど彼はすぐにスタッフへ視線を戻し、そのまま歩き出した。
たぶん私を見たわけではない。
廊下に立っていた一人を、たまたま視界に入れただけだ。
それでも心臓が少し速くなっていた。
「陽葵」
「うわっ」
後ろから佐伯さんに呼ばれて肩が跳ねる。
「何してるの」
「桐生蓮がいました」
「いるよ。このドラマ出てるんだから」
「そうなんですけど……本当にいるんですね」
「当たり前でしょ」
「テレビの人がテレビ局にいる」
「陽葵も今日から一応テレビの人」
「一応って言った」
「台詞数行だからね」
「自分でも分かってます」
佐伯さんは笑いながら私の台本を見る。
「午後、桐生さんと同じシーンあるから」
「……え?」
「聞いてなかった?」
「聞いてないです」
「正確には同じ画面に入る可能性がある、くらいだけど」
「それ先に言ってくださいよ!」
「今言った」
「心の準備が!」
「朝、立ち位置一個変わっただけで固まってた人が言う?」
「それとこれは違います!」
「同じ。現場では予定通りにいかない」
痛いところを突かれた。
私は台本を開く。
午前中は変更された立ち位置に慌てた。
でも最後には、自分で確認して合わせられた。
午後はもっと緊張するかもしれない。
それでも、分からなければ聞けばいい。
変わったら、その場で受け取ればいい。
ページの端を持つ指に、少しだけ力を込めた。
「……行ってきます」
「まだ昼休憩」
「気持ちの話です」
「はいはい」
佐伯さんに笑われながら、私はもう一度台本へ目を落とした。
同じ廊下の先にいる桐生蓮は、まだテレビの向こう側の人に近い。
でも午後には、その人と同じカメラの前に立つ。
その事実だけで、さっきまで慣れ始めたはずのテレビ局が、もう一度少しだけ遠く見えた。
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