第11話 芝居をする前に
「芝居、しないの?」
私が小声で聞くと、隣の椅子に座っていた奈々が、前を向いたまま口元だけで笑った。
「まだね」
「まだ?」
「一次なんてそんなもん」
「そんなもんって……」
「桜井、顔に出てる」
「何が」
「聞いてた話と違うって顔」
図星だった。
朝、会場へ向かう電車の中では、私は台本の三ページ目ばかり読んでいた。座れなかったのでつり革を持ちながら、相手役の台詞を頭の中で流し、自分の返しを何度も変えた。
美月からは『台本見すぎて駅乗り過ごすな』、杏奈からは『受かったら焼肉』、沙耶からは『結果よりまず無事に帰ってきなさい』、琴葉からは『水』とだけPingが来ていた。
最後の一文字だけのメッセージを見て笑ったおかげで、会場へ着くまでは少し落ち着いていた。
受付で番号札を受け取るまでは。
同じ待合スペースにいる人たちのプロフィールが、見ようとしなくても目に入った。舞台出演歴の長い人、子役から続けている人、映像系の養成所に所属している人。私の経歴欄には、ルミサンの活動と小さな舞台経験、それから最近の演技企画。
急に紙が薄く見えた。
都内の制作会社に用意された審査会場には、朝から何十人もの若い女性が集められていた。受付で番号札を渡され、プロフィール用紙を再確認し、順番が来たら小さなスタジオへ入る。
そこまでは想像していた。
けれど中で求められたことは、私が何日も練習してきた台本とはまるで違った。
「十七番、桜井陽葵さん。カメラの前へお願いします」
「はい」
白いテープで印のついた位置へ立つ。
正面にはカメラが一台。その横にスタッフが二人、少し離れた机に審査員が三人座っている。
「お名前と所属をお願いします」
「桜井陽葵、Bright Arc Entertainment所属、Lumière cinqでアイドル活動をしています」
「年齢」
「二十一歳です」
「右向いてください」
「はい」
「左」
「はい」
「正面」
言われた通りに動く。
それだけだった。
「では、今回の役についてどう思いましたか」
ようやく役の話が来たと思って、私は少し身を乗り出した。
「主人公と同じクラスの女子生徒で、台詞は多くないですけど、主人公が学校で孤立していることを自然に見せる役だと思いました。目立たせるより、そこに本当にいる人として――」
「ありがとうございます」
途中で切られた。
「以上です。外でお待ちください」
「……はい」
一瞬、意味が分からなかった。
「以上……ですか?」
聞き返してから、しまったと思った。
審査員の一人が顔を上げる。
「何か?」
「あ、いえ。失礼しました」
頭を下げて部屋を出た。
廊下へ戻った瞬間、胸の奥に溜めていた息が全部出る。
「何これ……」
「だから言ったじゃん」
先に終わっていた奈々が壁際に立っていた。
「芝居、しなかった」
「うん」
「台本、昨日何回読んだと思う?」
「知らない」
「二十回」
「少なくない?」
「そこ張り合うところ!?」
奈々は肩をすくめた。
「一次で全員に芝居させてたら時間足りないでしょ」
「でもオーディションだよ?」
「だからオーディションなんだって」
言われても納得できない。
私にとってオーディションは、芝居を見てもらう場所だった。うまくできるか、役に合うか、その結果で選ばれる場所。
でも今日、まだ私は芝居をしていない。
それなのに、もう帰らされる人がいる。
受付前のスタッフに番号を呼ばれた女性が、小さく頭を下げて会場を出ていった。次の人も、その次の人も。
「……何で決めてるの?」
「全部じゃない?」
「全部って」
「写真、立ち姿、声、喋り方、受け答え、役に合いそうか。あとたぶん画面で見た時の感じ」
「芝居してないのに?」
「芝居見る前に落とされることなんて普通にあるよ」
奈々は当たり前のように言った。
その言葉が思ったより重かった。
周囲を見れば、待っている人たちはみんな落ち着いているように見える。
舞台の出演歴が書かれた資料を持っている人。養成所らしいファイルを抱えている人。マネージャーと小声で確認している人。どこかで見たことのある若手モデルもいた。
私は急に、自分だけ何も知らない場所へ来た気がした。
「奈々、こういうの何回目?」
「覚えてない」
「そんなに?」
「受かってない回数なら結構ある」
「それ、さらっと言うんだ」
「受けないと受からないから」
奈々は私を見る。
「桜井は?」
「ドラマは初めて」
「知ってる」
「じゃあ聞かないでよ」
「顔が面白かったから」
「今それ言う?」
「だって『芝居させろ』って顔してた」
否定できない。
「したかったもん」
「分かる。でも見てもらうところまで残るのも仕事だよ」
その言い方が妙に刺さった。
芝居をする前に、見てもらえる人間として残る。
私はそんなことを考えたことがなかった。
◇
一時間近く待たされた。
最初は四十人以上いた椅子が、少しずつ空いていく。
番号を呼ばれて帰る人と、何も言われず残される人。その違いが分からないから、待っている時間そのものが審査の続きみたいに感じた。
「二十三番から三十一番までの方、本日は以上になります」
スタッフの声が響く。
また何人かが立ち上がる。
私の番号は十七。
奈々は十九。
まだ呼ばれない。
「これ、残ってる方がいいんだよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「急に全員帰して後日連絡パターンもあるから」
「怖いこと言わないで」
「現実」
私は膝の上の台本へ視線を落とした。
練習した台詞が目に入る。
使わないまま終わるかもしれない。
さっきまで、それが悔しかった。
でも今は少しだけ違う。
この台本を開く権利すら、最初から全員に用意されているわけではないのだ。
「桜井さん」
「はい!」
突然呼ばれて、必要以上に大きな声が出た。
奈々が隣で吹き出す。
「朝倉さんもお願いします」
「はい」
私たちを含め、六人だけが別の部屋へ案内された。
今度の部屋には、さっきより小さなカメラが二台。床の中央には二人分の立ち位置がテープで示されている。
机の向こうには同じ審査員がいた。
「ここから短い実技を行います」
胸が跳ねた。
「台本の三ページ目。二人一組でお願いします。組み合わせはこちらで指定します」
ようやく。
ようやく芝居ができる。
嬉しくなった直後、隣の奈々が肘で小さく私の腕を突いた。
「顔」
「何」
「今度は嬉しすぎ」
「うるさい」
「桜井さん、朝倉さん。お二人から」
「はい」
偶然なのか、演技企画の実績を見てなのかは分からない。
でも相手が奈々だと聞いた瞬間、不思議と落ち着いた。
何度も一緒に芝居をしたわけではない。それでも彼女が遠慮なく返してくることは知っている。
指定された場面は、教室で同級生同士が短く言葉を交わすシーンだった。
主人公に関する噂を片方が振り、もう片方が曖昧に返す。
台詞は少ない。
だからこそ、言葉の外側が必要になる。
「準備できたら始めてください」
審査員の声。
私は一度息を吐いた。
さっきまでの不安が消える。
カメラも、審査員も、周りの候補者も意識から薄くなっていく。
奈々を見る。
奈々も私を見る。
「ねえ、あの子さ」
奈々の声が少しだけ低い。
私は答えを急がなかった。
彼女の目に、単なる好奇心ではない色があったから。
「……何?」
「昨日も一人で帰ったらしいよ」
「そうなんだ」
「それだけ?」
奈々が一歩踏み込む。
私は視線を逸らした。
「別に。本人がそうしたいならいいんじゃない?」
「冷た」
「違うよ」
「じゃあ何」
そこで奈々が少しだけ笑った。
台本にはない笑い方だった。
だから私も台本通りには返さなかった。
「……私たちが勝手に可哀想って決める方が嫌じゃない?」
一瞬、奈々の目が変わる。
「そこまでです」
審査員の声で、空気が切れた。
私は現実へ戻る。
「ありがとうございました」
頭を下げながら、さっきの感覚を確かめる。
芝居に入れば、やっぱり怖くない。
でも今日は、それだけでは足りなかった。
芝居をする前に、ここまで残らなければならなかった。
「次の組、お願いします」
私と奈々は部屋の端へ移動する。
「最後、変えたね」
「奈々が笑ったから」
「よく見てる」
「そっちも」
「負けたくないから」
「私も」
小声で言い合っていると、スタッフから新しい紙を渡された。
「本日の結果は、本日中に所属事務所へ連絡します」
◇
夜。
レッスンを終えた私たちは、事務所の小さな休憩スペースに五人で固まっていた。
「まだ?」
杏奈が私のスマホを覗こうとする。
「来たら私が一番に見るから」
「通知音最大にしよう」
「やめて」
「落ち着きなよ」
沙耶が言うが、美月もさっきから時計を何度も見ている。
「美月も落ち着いてないじゃん」
「私は時間見てるだけ」
「五分で三回?」
「細かい」
琴葉は喉用の水を飲みながら、私の方を見た。
「どうだった?」
「何が?」
「芝居」
「最後にちょっとだけできた」
「それまで?」
「ずっと立ったり喋ったり」
「陽葵、絶対焦ったでしょ」
美月が笑う。
「焦った。芝居しないで落とされることあるって奈々に言われた」
「そりゃあるでしょ」
「美月まで知ってるの?」
「芸能界二年いるんだから、そのくらいは」
「私だけ知らなかったみたいに言わないでよ」
「実際知らなかったじゃん」
「そうだけど!」
笑いが起きた、その時だった。
スマホが震えた。
全員が止まる。
「……佐伯さん」
「開けて!」
「杏奈うるさい」
通知を開く。
短い文面。
『一次通過。明日、詳細送ります。今日はちゃんと寝て』
私は一度読み、もう一度読んだ。
「陽葵?」
美月が覗き込む。
「……通った」
「え?」
「一次、通った」
杏奈の叫び声が休憩スペースに響いた。
「やったあああ!」
「静かに!」
沙耶が止める。
美月が私の肩を叩き、琴葉が小さく笑う。
私も嬉しかった。
でも今日一日で、一つだけ今までとは違うことを知った。
芝居ができるだけでは、芝居を見てもらえる場所まで辿り着けない。
その入口を、私は今日初めて一つ越えた。
「終わったら連絡する?」
奈々が聞く。
「誰に?」
「メンバー」
「する」
「すぐ?」
「たぶん」
「受かってなくても?」
「終わった報告くらいは」
「真面目」
「奈々は?」
「私は結果出るまで言わない」
「それも奈々っぽい」
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