5/ 海の上・記憶の中
見慣れない天井が目の前に迫っていた。妙に狭苦しい部屋。天井までは二メートルとないように思える。縦横だって、俺が今寝ていたらしいベッドを横に二つ並べられるくらいだ。縦の幅にはベッドのせいでほとんど隙間がない。
部屋は薄暗い。
広さこそ違えど、ここは俺が初めてこの施設に来たときに入れられていた部屋にどことなく似ていた。
なぜ俺はこんな動物を入れる檻のような狭い空間にいるんだろう。
思い出そうとするけれど、あと一歩というところで、記憶に靄がかかる。リオと一緒に任務へ出たところまでは何となく覚えている。しかし、思い出せたのはそれだけだ。
ふとなにげなしに腕に目をやると、俺はテレンを付けていた。テレンを起動させると、日付が表示された。画面は、任務に出た日から二週間経っていることを俺に示していた。
二週間。その間、俺は何をしていたのだろう。
虚ろな思考で考えていると、壁の向こうからばたばたと忙しい足音が聞こえてきた。
やがて、部屋の扉が開け放たれた。
知らない男の顔。
「焉堂くん、お目覚めかな。早速でもうしわけないがB116へ向かってくれ。哀子さんが待っている」
「哀子さん……?」
どうやら、この男の人は哀子の部下なのらしい。眠っていた俺を監視でもしていたのだろうか。起きた瞬間に来たということは。まあでもそんなことはどうでもよかった。
「あの、俺はなんでここに眠ってるんですか……刕織は……」
俺は自然とその名前を口にしていた。
男の人は表情一つ変えず背を向けた。
「早くしてくれ。哀子さんも待ちわびている」
そう言って急かすように去っていった。
何がなんだか分からないまま、俺も起き上がり、部屋を後にした。
†
忘れている記憶を取り戻したいと願っていたこともあったっけ。
でも、必ずしも記憶を取り戻すことがいいともいえないということを初めて知ることになる。
†
忘却には意味があるのさ。
自己防衛本能の一つだ。
ヒトは外界からの精神への強い刺激を受けたときに、知らず知らずのうちにそれを拒否する。それが忘却の意味さ。
その過程で忘却したものを思い出すことは、精神に大きな負担をかける。
でも、知っておかなければ先に進めないことだってあるんだ。
記憶とはそういうものさ。
精神を扱うには匙加減が大事なんだ。
私が言うのも何だがね。
†
そこは広い広い水面の上の景色だった。
海? これは海?
初めて見る光景だ。
地下に住んでいる私たちは海というものを知識の上でしか知らない。
海。これが海。私が海の上に浮かんでいる。ゆらゆらと静かに。
こういうのを波の立たない凪の海というのだろうか。
静かだ。とても静か。
海なんて見たことも無かったはずなのに。なぜか懐かしさを感じる。
心地いい。
ゆらゆらと漂う。
私の感覚が曖昧になってくる。海に溶けてしまいそう……。
でも、それはとてもとても気持ちよく感じられた。このまま溶けてしまってもいいかなって思えるくらいに。
……。
私はどうしてこんなところにいるんだっけ。
そう考えると、途端にザッと小さな波がひとつ立った。
脳裏に一瞬映像が過る。
「焉堂くん……」
それは彼の姿だったように思えた。
ザッとまた波が立ち、映像が浮かぶ。
今度は炎だった。闇い炎。黒の焔。
「……あぁ」
そうだった。思い出した。
私は多分死んだんだ。
焉堂くんに……。
ここはきっと死後の世界なのだ。
不思議と何の感情もわかない。なんでだろう。分からない。自分のことなのによくわからない。
苦しささえ感じない。
でも、焉堂くんはどうだったんだろう……>? 彼はあの時、普通じゃなかった。
私は、最期まで苦しさを感じていなかった気がする。でも、焉堂くんは?
私はイマ何も思っていないけれど、焉堂くんは苦しんでいるかもしれない。なんだか、それはイヤだった。
フイに身体が重くなる。
沈む。
†
「単刀直入にいこう。焉堂」
哀子は焉堂が部屋に入るなり、そう切り出した。B116の部屋は小さなミーティングルームのような場所だった。古ぼけたプラスティック製の机と椅子が置いてある。だが、椅子に座る哀子は焉堂が座ることも待たなかった。
「約二週間前、お前たちに頼んだその任務中、イレギュラーな事態が発生。私たちは緊急措置として焉堂、新崎両名を強制回収した」
「強制回収って……」
思い出そうとしても思い出せない。
哀子の口調はいつもより淡々としていて冷たく感じられた。
「焉堂、君は私の力で眠ってもらっていた。ある程度事態の収拾がつくまではそちらの方がよいと私が判断したんだ」
「何があったんですか。何が……。それに刕織は……?」
焉堂の問いに哀子は答えない。
「今から私が数を三つ数えた後、手を叩く。それで君にかけられた私の術は完全に解除されるだろう」
「え……? でも」
焉堂は直感的に何か嫌な感じを覚えた。よくわからない何かが、従ってはダメだと告げていた。
だが、哀子は断固としてそんなことを許さない。
「いいな」
強い口調で繰り返す。
焉堂はしぶしぶうなずいた。
「じゃあいくぞ。一、二、三」
パンッと手が打ち鳴らされた。
変化はすぐにはなかった。
ゆっくりとゆっくりとそれは流れこんできた。
自分たちが行った任務の様子だった。それは記憶の映像だった。レベルE障壁の内側に飛び込み、奴らに遭遇した。なんとかやり過ごし、目的を達成した。そしてレベルE障壁を抜ける。
そこであの顔が浮かんできた。
ガツンと正面から殴られたような頭痛を感じた。よろめき後ろの扉にぶち当たる。
「おい、大丈夫か」
哀子は声をかけはしたが、立ち上がることはなかった。
「あぁあ……」
そして、全部思い出した。
自分のしでかしたことを。
あのときはよくわからなかった全部が、第三者的視点で、記憶に蘇る。
焉堂は頭を抱えた。
「俺は……俺は……っ」
「焉堂。言ってもすぐには無駄かもしれんが、とりあえず落ち着け。椅子に座れ。机にグラスがあるだろう。その水を飲め。私の力が込めてある。落ち着くはずだ」
焉堂は間髪入れずにテーブルに置いてあったグラスを手に取ると一気に飲み干した。
すっと気分が落ち着いていくのを感じた。
「……ありがとうございます」
「とりあえず座れ」
焉堂は椅子に座った。哀子と向かい合う。
「何が起きたかはお前の記憶の通りだ」
「じゃあ、刕織は……」
「彼女は……、まだなんとも言えない」
「まだ?」
それは曖昧な言い方だった。しかし、哀子
は刕織が死んだと言ったわけではなかった。
「生きてるんですか?」
「ああ」
哀子はうなずき、煙草を取り出すと火をつけた。
「……確かにイレギュラーな事態だ。だれもお前を咎めようとは思っていないさ。でもな、焉堂。事実は事実として受け止めなければいけない」
それは記憶を自ら承認するということだ。
あれを受け入れる? そんなことできるのだろうか。
焉堂は黙りこみ、下を向いた。
その時、哀子のテレンが鳴った。
「うん、私だ。……あぁ。……なに? 本当か? そうか。良かった。ならもう大丈夫なのか。………ありがとう、雅。助かったよ。焉堂! 朗報だ」
さっきまでとは違う、哀子の明るい声に焉堂は顔を上げた。
「新崎が意識を取り戻したそうだ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」
嬉しさというより安心感が支配していた。焉堂はそうであってもまだその事実が信じられない。人間は、あんな状態から生還できるものなのだろうか。
「焉堂。何を考えこんでるんだ。もう何の心配もいらない。見舞いがてら、彼女のところへ行って来い」
「え……でも……行ってどうするんですか……」
焉堂は分からなかった。どんな顔をして彼女の元へ行きどんな言葉をかけられるというのだろう。またも焉堂は顔を下に向ける。
そんな焉堂に哀子は極めて静かな口調で、
「焉堂。受け入れるべきことは受け入れて割り切るんだ。事実として、そうであることが受け入れられないのなら、その事実は何の意味も持たんさ。彼女は助かった。それでいいじゃないか。全ての存在は、概念、事象さえも、認識されて初めて意味を持ちえるんだ。ようは焉堂、君次第だ」
「でも、よく分かりません。そうしなきゃいけないのは分かっているんです。俺がどうにかしなくちゃ行けないことは。他でもない俺がしでかしたことだから。ただ、どうしていいかわからないんです……あんなことをしてしまったあとでは」
それはある意味、今の時点での心からの言葉だった。
哀子はゆっくりと目を伏せた。
「ああ、たしかにそうだな。お前のしたことは、あの時点でみれば取り返しの付かないものだったかもしれない。でも今は違う。現に様々な連中のお陰で彼女は助かったんだ。道は開かれてる」
「でも……」
まだ決心がつかない焉堂がもどかしくなったのか、哀子は立ち上がり焉堂の元へ行き、頭を軽く叩いた。
「でもでもってうるさいなお前は。でもも何もないんだ。お前がそんなのでどうする。焉堂、君だけが失われたものを失われたままにしておいていいのか? それじゃあ永遠に空白だ。空白を空白のまま放っておくのは惜しい。それにピースは失ったわけじゃない。気づけ焉堂。さあ、彼女の元へ行って来い。命令だ。行けば、何をすればいいか自ずと分かるさ」
「はい……」
今はまだどうすればいいかなんてわからない。しかし焉堂は哀子の言葉に促され、刕織の元へ向かった。




