4/ 闇の中で
闇の中にいる。闇の中にいる。ただ、感覚ははっきりしている。足は地につき、上下の区別もできる。
ただ、視界は底のない闇だ。ひたすらに黒だ。
なんだろう。目が見えなくなったら、こんな感じなのだろうか。いや、それは違う。目が見えないというのは、在るものが見えなくなってしまうことだ。目が機能せず、また、脳が機能していないということだ。
でも、今、ここはそうじゃない。俺はそうじゃない。これは在るものが見えないというよりは、何もないから当然見えていないということのようだった。ここは何もないんだ。何も、何も。
それでも俺は、この虚の世界に何かを見出そうとしている。
何を……?
薄赤い、仄かな光がぽっと浮かんだ。
何もないはずの空間に、それはふいに現れた。
これが俺の見出そうとしている何かなのか。
薄赤い光はぼんやりと浮き沈みしている。
俺はそれに手を伸ばす。でも、その光まであと少しというところで、光は粒子に拡散して消えた。消えていった。消えてしまった。
黒闇に、呑まれた。
†
「なあ、焉堂。人はなぜヒトを殺してはいけないと思う?」
哀子さんの声だ。
俺に話しかけているのか。独り言か。
いや、俺の名を言ったのだから、俺に話しかけているのだろう。でも、俺はいない。
「それはね。ヒトがシンカの過程で得た、種の存続の一つの方法なんだ。ヒトが社会性を獲得する中で、その社会を効率よく持続し、種として繁栄していくために、ヒトの中で倫理観が目覚めた。ヒトは弱いいきものだ。個個体は本当に弱い力しか持っていない。だから、人は協力しないといけなかった。できるだけ多くの数で。だから、そのためにお互いを殺し合い、個体数を減らしてはならなかったんだ」
それでも、人はヒトを殺す。
たとえば戦争。
集団同士の殺し合い。
「うん、そうだな。人はその歴史の中で幾度となく戦争を行い、血を流してきた。でもね、戦争もまた人の、社会の持続の一プロセスなんだ。ヒトは適当な規模のソサエティでしか生きられない。自らの属する母集団を存続させようとするとき、吸収できない別の集団は障害にしかならない。ヒトは大きすぎるコミュニティには適応できないんだ。だから、戦争という現象は半ば自然発生し、その中で人殺しは正当化される。正当化されてこそ、人はヒトを殺すことができる。つまりね、人は殺人が正当化されなければヒトを殺すことはできないんだよ。人はヒトを殺す時に躊躇う。どんな形であれ必ずな。そして、正当化が完了してからヒトを殺す。あるいは、殺してから正当化しようとする。でもね、かつて何十億人もいた人の中には、ヒトを殺すことを厭わない人もいた。それは、ヒトとして機能が壊れているということなんだ。だが、同時にいきものとしての、殺しの本質を顕わにもする。彼らの中では人殺しが、その行為自体で完結する。人はそんないきもののことを鬼や悪魔と呼んだ。ヒトが人でなくなるとき、それは微塵の躊躇なく人殺しという行為を完結させる時なんだ」
…………。
「なあ、焉堂。ヒトというものはヒトを殺すことのできる行動プログラムを内包している。普段は倫理観に抑圧しているそれは、何かのきっかけで不意に表へ出ることがある。すべての行動プログラムには意味がある。人殺しを良しとしてこなかった人にそのプログラムが備わっているんだ。皆が各々の理由を持ってな。なあ焉堂。きみはどうして彼女を」
耳をふさいだ。
†
そのアラートは私のもとにまで届いていた。端末に表示されたコード名・私はその詳しい内容を把握できていなかったが、これが哀子の発令したものであることはわかっていた。
何か嫌な予感がしていた。
だけど、最初から予感していたからこそ、実際にそれを目の当たりにしたとき、表っ面くらいは冷静を保てたんだと思う。
†
ノックもなく、認証音さえなく扉は開け放たれた。部屋の中でじっと座っていた雅はすばやく立ち上がり、乱暴な入室者を見た。そして彼女は自分の嫌な予感が当たってしまったことを悟った。
そこにいたのは哀子だった。いつも通りのスーツ姿、いつも通りの表情。ただ、いつもは吸っているはずの煙草はなかった。彼女の手にはアタッシュケース。その表面にはものものしく、警告色で「Don’t touch this no matter what!(何があっても決して触れるな)」の文字。
哀子はそのケースを無造作に雅に押し付けた。
「頼めるか」
哀子はただその一言だけを言うとじっと雅の目を見た。雅はその一言ですべてを察した。
「状況は?」
「特殊なケースだ。コードはX00で検索。新崎刕織だったものをE級医療室に隔離してある」
「X00……あの少年の能力コードじゃないか……。何があったんだ」
雅は例の少年――焉堂の力を見たことがあるわけではなかった。だが、彼の攻撃を受けた患部なら見たことがある。
「詳しい説明をしている暇はない。情報素子が分化する前に、作業をすべて済ませなくてはならない」
「なる……ほどな…………」
情報素子の分化。その言葉で雅は今回の事態を完全に把握した。そして今から行わなければいけない作業が、今までの中で最も難しいものになるということも。
「それで、このケースの中身は?」
哀子に押し付けられたケース。重さはそうでもない。表面の表示は気になるが、何が入っているかは見当もつかない。
哀子はしばし目を伏せた後、そっとつぶやいた。
「刕織の構造書だ」
雅ははっとなった。眩暈のようなものによろめきかける。
「そう……だったな」
雅は机の上に置いていたグラスに酒を無造作にそそぐと、一気に飲み干した。
「分かった。今すぐとりかかろう」




