3/侵食・崩壊
赤眼の男は、じっと焉堂たちを見つめていた。焉堂は突然空気が失われたかのような窒息感を覚えた。ちらと刕織の方を見ると、彼女も同じのようで、すっかり固まってしまっていた。
焉堂はなんとか窒息感に耐えながら、短い時間で思考を巡らせた。ほんの一瞬だけ、気付かれないように相手の表情を窺う。
そこにあったのは疑いの目ではあるが、敵意も殺意も見られなかった。
まだこの場を切り抜ける余地があると悟った焉堂はおもむろに立ち上がった。
「ここの施設に不具合が見つかったんで、修理に見に来てたんだ……」
もちろん口から出任せではあった。そのセリフがこの状況であれば一番自然であった。
男はジロジロと焉堂のことを見つめ、ふーん、とうなずいた。
表情には出さないが内心は冷や汗ものだった。隙を見て焉堂は刕織に目配せする。いつでも逃げられるようにと思っての事だった。
刕織もその意図をすぐに読み取り、思い出したようにこっそりとテレンのボタンを押した。そのボタンには行く前に緊急コードを割り当てておいた。きちんと通じるかは分からないが、通じれば本部の哀子のところに伝わるはずだ。
男はまだしばらく疑いを持っていたようだが、やがてうなずいた。
「そうか。ご苦労さん。このところ、境界あたりが脆くなってるらしいな」
「え、ああ。そうだな……」
焉堂は適当に返事をして、また作業に戻る素振りを見せた。
相手もそれで邪魔をしては悪いと思ってくれたらしく、踵を返した。
「頑張れよ」
それだけを言い、男は去ろうとしたが、何ほか歩いたところでふと振り返った。また、焉堂の顔をジッと見つめる。
「お前、どこかで見たことある気がするな……」
その言葉に焉堂はどきりとした。もちろん、焉堂には今目の前にいる男の顔など知らなかった。だがまったく会ったことのない自信はない。なにせ記憶というものが欠けている。
今度は本当に冷や汗が出ていた。同時に、なぜか頭痛も覚えた。
「……そ、そうか……? 俺は……覚えてないけれど」
「ふーん。気のせい……かな。まあいいや。じゃあな」
そう言って、男は今度こそ去っていった。森のなかに彼の姿が消えていくのを見ながら、刕織はほっと息を吐いた。対して、焉堂はじっと森の奥を見つめていた。
「焉堂くん……?」
刕織は立ち上がり、焉堂に声をかけた。
「ああ。うん、大丈夫……」
言って振り返った焉堂の表情は曇っていた。
「さっきの新人類のこと……?」
刕織は恐る恐る、しかし穏やかな声で焉堂に尋ねた。
焉堂は少し間を置いてそっと頷いた。
「今のやつ、俺のことを見たことがあるって言った」
焉堂はずっとその言葉を気にしていた。仮に、自分が記憶のないところで彼と会っていたとしたらそれは何を意味するのだろう。考えたくもないことが次々に頭のなかに浮かんでいた。
「でも、そんな気がするって言ってただけじゃん。気にすることないよ。ほら、普通にあるじゃん。まったく知らない景色なのに、なんだか見たことがあるな、って奴と同じだよ。既視感だよ、ただの」
確かにそうかもしれないと焉堂は思った。そう、自分が普通の存在であれば素直に受け入れただろう。しかし失った記憶の空洞には、そんな他愛のないはずのことまで谺する。
一体、いつになれば記憶が戻ってくるのだろう。
そう考えている自分に焉堂は気付き、己の中に生まれた微妙な食い違いに気づいた。
もう欠落した記憶には固執しないと決めたはずなのに。
どうして記憶の空白領域に執着しているのだろう。ほかのもので、新しいもので埋めていけばいいと思っていたはずなのに。
「焉堂くん……?」
「いや……大丈夫だから。早く、作業を終わらせよう」
言ったものの焉堂の声はどこかうつろげだった。
焉堂はおもむろに作業の続きを始めた。刕織もいつもと様子の違う焉堂を不安に思いながら作業を再会した。
何を思ったにせよ、焉堂も刕織もハイブレインとの遭遇は予想外であった。本部の調査によるとレベルE障壁付近ではここ数十年、ハイブレインは感知されていなかったという。
まったく注意をしてなかったわけでもないが、不意を突かれたことに間違いはなかった。
二人は残りの作業を素早く済ませると、再びレベルE障壁の前へと立った。
「早いところ解析して、障壁の向こう側に行っちゃおう。SOS打ってるけど、障壁内じゃ通信もできないからね……。SOSがきちんと通じてるかも怪しいし、通じてるなら無事を知らせたいしね」
刕織は、入ってきたときと同じように障壁にテレンをかざし、解除プログラムを起動した。
数秒の後、また障壁は歪んで一部が弾けた。
二人はタイミングを逃さないように素早く、障壁の向こうへ飛び込む。
タァーンと、乾いた音が響いたのはちょうど焉堂の身体が障壁を抜けたかどうかというところだった。正体不明の音と同時に、焉堂は急に体制を崩し前のめりになって倒れた。とりあえず身体は間一髪で障壁を抜けた。
「焉堂くん!?」
地面に倒れ込んだ焉堂のもとに刕織はすぐに駆け寄った。
「あ、あ……何が……」
焉堂は何が起きたのかさっぱり理解していなかった。しかし、左足の感覚がなんだかおかしい。
ふと目をやると、左足首付近が赤に染まっていた。
「攻撃!? どこから?」
刕織はすぐに当たりを見回した。もちろん障壁の向こうも。しかし、人影はない。獣の姿も見当たらない。刕織は見えない何かを探すことをやめ、焉堂の怪我の様子を見た。
「狙撃……みたいだね。銃創みたい……」
刕織はすぐに焉堂の左足首あたりの血の出ている部分に手をかぶせた。
「じっとしててね。すぐに手当をするから」
「あ、ああ。ありがとう……」
能力の行使を始めた刕織に焉堂は少しだけ頭を下げた。まもなく違和感は収まっていったが、まだ血は出ているようだった。あとから思い出したかのように痛みが染み渡ってきた。
ずん、と。その感覚は体中に広がっていく。体中がまた別の違和感に覆われていく。
出血も大方治まってきたころ、刕織のテレンが鳴った。哀子さんらしい。刕織は治療を続けながらすぐに応答をした。
「焉堂、新崎大丈夫か? SOSが届いていたようだが……」
「はい、一応は大丈夫です。ハイブレインと遭遇しましたが、やり過ごして、機器の設置は完了したんです。でも、障壁を抜ける際に焉堂くんが何者からか狙撃を受けて、今治療中です」
「狙撃…………。そうか。今は警戒を怠らないようにしながら、速やかに帰投してくれるとありがたいのだが……。焉堂の傷の具合はどうなんだ? 戻れるか?」
「んんー。多分大丈夫だと思いますけど……。焉堂くん、大丈夫そう……?」
刕織は焉堂に治療が大方終わったことを告げたが、どこか焉堂の様子がおかしかった。刕織の言葉になんの反応も示さず、ぼんやりと中空を眺めている。
「焉堂くん……?」
「どうした、新崎?」
「いや、焉堂くんの様子が……」
ふいに焉堂は立ち上がったかと思うと、やはりうつろな双眸で、しかも今度はなにやらぶつぶつと呟き始めた。
「哀子さん、なんだか焉堂くんの様子がおかしい……」
刕織は立ち上がると、両手を焉堂の肩におき軽く揺すった。
「焉堂くん、ねえ焉堂くん!?」
「新崎、どうしたんだ! 焉堂に何が?」
「分からない……けど、呼びかけても反応しないの。なんだか虚ろな感じで……」
「焉堂、おい焉堂! 大丈夫なのか!? どうした!」
哀子の声にも焉堂は応じない。ただぼんやりと視線は安定していなかった。
†
一瞬、何が起きたかは理解できなかった。とりあえず、足に鋭い感覚が走り、気づいた時にはバランスを崩して地面に向かってダイヴしていた。
倒れてしまった俺のもとに刕織が駆け寄る。
「焉堂くん!?」
「あ、あ……何が……」
ふと目をやると、左足首付近が赤に染まっていた。
「攻撃!? どこから?」
刕織は叫ぶとあたりをきょろきょろと見回した。俺も見える範囲で何かを探した。刕織は何も見つけられなかったらしい。だが、俺の目には奇妙なものが映った気がした。遠く、それは遠く。なぜ見えるのかもわからないほど遠く。そこに先ほど機器を埋め込んだところのような塔があった。その屋上に人影があったのだ。
俺の目にはそれが鮮明に映っていた。その人物は大きな銃を構えていた。その銃で俺を狙い撃ったのだろう。だが問題はそんなことではなかった。その人物の顔だった。
そいつは俺と同じ顔をしているようだった。
「焉堂、新崎大丈夫か? SOSが届いていたようだが……」
「はい、一応は大丈夫です。ハイブレインと遭遇しましたが、やり過ごして、機器の設置は完了したんです。でも、障壁を抜ける際に焉堂くんが何者からか狙撃を受けて、今治療中です」
「狙撃…………。そうか。今は警戒を怠らないようにしながら、速やかに帰投してくれるとありがたいのだが……。焉堂の傷の具合はどうなんだ? 戻れるか?」
「んんー。多分大丈夫だと思いますけど……。焉堂くん、大丈夫そう……?」
いや、確かに俺と同じ顔だった。他人の空似なんていうレヴェルじゃない。双子だなんてレヴェルでもない。あれはまさに俺そのものだった。
しかし、世界に同じ人間は二人いるはずがない。個人の存在は唯一のものでなければいけないはずだ。
すると、俺はどうなんだ? あいつはまやかし? それとも俺が嘘? 記憶も持たない俺は何なんだ? 分からない。
俺はなんだか居た堪れなくなって立ち上がった。
「焉堂くん……?」
「どうした、新崎?」
「いや、焉堂くんの様子が……」
俺は本物なのか? 確かめるすべはない。すべがない……。そう、自分が自分であるという確証はどこにも存在しない。なら、なぜ俺は存在する? 錯角? 分からない、分からない分からない。
「哀子さん、なんだか焉堂くんの様子がおかしい……」
なんだ、なんなんだこれは。
何かわからないものがこみ上げてくる。黒い何かだ。
ああ、それは夢の中の世界のようなあの黒だ。
「焉堂くん、ねえ焉堂くん!?」
「新崎、どうしたんだ! 焉堂に何が?」
「分からない……けど、呼びかけても反応しないの。なんだか虚ろな感じで……」
「焉堂、おい焉堂! 大丈夫なのか!? どうした!」
なんだ、この感覚は。
「あ、ちょっと焉堂くん! どこ行くの! ねえってば!」
「任務……………」
「え……? あ、ちょっと!! ……哀子さん!」
「ん、ああ。なんだかよく分からないが、自己侵食の可能性もある。もしそうであるとすればかなりまずい。危険ならばすまないがお前が止めてくれ。私もすぐにそちらに向かう! それまで何とか保たせてくれ」
ああ。なんだか周りが煩い。でもそんなことはどうでもいい。
今はこれに従おう。
†
「はぁ……」
通信を切り、私はついため息を付いてしまった。これは想定外のことだ。いや、想定してしかるべきことだった。私が甘かった。
自覚ない自己認識は、それまでにあったものを侵食する。多重人格にしろ、記憶喪失にしろ、第一人格の目覚めは、他の人格の副人格の崩壊を意味する。これは明らかに私のミスだ。
その性質を示していたのははじめからわかっていたことなのに。
おそらく、第一人格が暴走すれば、新崎くらいじゃ話にならんだろう……。
私はすぐに緊急通信のボタンを押した。
「一衣! 緊急事態だ」
「哀子さん? どうしたんです?」
「どうもこうもない。急を要する。特例D2により緊急コード33を発令する。コードを至急回してくれ。それと緊急移動経路の確保を。場所はすぐに送る」
「なんだからよく分からないですけど、緊急事態ですね。了解しましたです!」
私は急いで出る用意をした。
他にも数人に連絡を回し、すぐに部屋を出た。
「耐えてくれよ……、新崎……」
†
なんだろう。
頭の奥が熱を持ったような感覚。自分ではない何かが自分を侵してくるような錯角。
でもそれは苦痛じゃない。心地よささえある。
そうだ、進もう……。
俺は振り向き、進み始める。
しかし、そしてどうする? 分からない。
その思考が俺を立ち止まらせる。
「焉堂くん……?」
声が。
振り返る。
そこにいるのは誰だ?
分からない。
分からない……?
そんなはずはない。そんなはずはない。
「焉堂くん、しっかりして! 正気に戻って!」
正気? 正気ってなんだ?
……。
俺の前に立つのは誰だ?
前に立つものは障害だ。
では、障害はどうする?
答えは単純だろう?
俺は目の前の何かを両手で突き飛ばした。
向こうも不意だったらしく、なされるがままに地面にたたきつけられていた。悲鳴すらあげられなかったらしい。
無様だ。なんとも無様だ。
あとは、地を這う虫けらを足で踏みつけるような勢いで排除するだけ。
自分の中に沸き起こる黒を外へ押し出す。
相手の顔がゆがむ。逃げようと必死に立ち上がる。しかし足がもつれる。
俺の周りに現れた漆黒の焔がそれを追撃する……。
まずは足だ。炎はそれの足にまとわりついて、それの足は黒い砂と化しぼろぼろと崩れていった。
もうこれで逃げられないだろう?
それはなにか必死に俺に叫んでいる。
なんだ? キコエナイ。
その声は……。
炎が一気にそれに覆いかぶさる。
「焉堂くん…………」
声が。
声が。
声が消えた。
その声は。知ってる。知ってる? 記憶もないのに? いや、違う。ちが……。
もうそこには誰もいない。ただ黒い砂が積み重なって。
「あ……あぁ……………」
さらさらとした黒い砂だけがそこに。
「りお……………?」
ただ、そこに黒い砂だけが。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
†
「コードA26、発砲があったようだがどうした?」
「いや、大丈夫。ただの獣だ」




