第九章 船尾からの眺め
船が岸を離れると、明里は船尾へ出た。風が髪を持ち上げ、額に貼りついていた短い毛がほどけた。港の人影が小さくなり、建物の隙間が一つずつ閉じていく。島はすぐに見えなくなると思っていたが、長くそこにあった。遠ざかるものを見続けるには、想像していたより時間が必要だった。
明里は手すりの近くの椅子へ座り、鞄からスケッチブックを取り出した。表紙を開くと、紙は薄いクリーム色だった。真っ白な未来、などという言葉が浮かび、自分で可笑しくなった。未来より先に、紙の端が風でめくれる。明里は片手で押さえ、鉛筆を握り直した。
航跡を描こうとした。海の上で白い泡が広がり、中央に少し濃い筋が続いている。一本引くと、その線は思ったより硬かった。もう一本重ねると、波ではなく擦り傷のようになった。明里は消しゴムを探し、買っていないことに気づいた。鉛筆の後ろにもついていない。間違えた線はそのまま残る。
ページを破ろうとして、指を止めた。まだ二本しか引いていないのに、もう失敗だと決めている。風景は変わり続け、島の端の形も見た瞬間と違っていた。似せようとするほど遅れる。明里は目の前の水ではなく、さっき見た泡の動きを思い出して引いた。今度の線は少し震えた。
誰にも見せなくていい、と言い聞かせても、誰かに見られることを考えてしまう。仕事の癖だけではない。上手だと言われたくて描いていた子供の自分も、ここにいる。明里はその欲を追い出さず、膝の上の紙へ視線を戻した。褒められたくても、今は見せる相手がいない。それならまず、一本増やせばよかった。
泡の白さは鉛筆では描けない。周囲を黒くすると白が残る。知っていたはずの簡単なことを、手が少しずつ思い出した。濃く塗ったところが掌について、紙の端が汚れた。明里はその汚れを眺めた。パソコンの画面なら一度戻せば消えるものが、ここでは自分の手にも残る。
隣を子供が通り、絵を見た。明里は反射的に閉じかけた。子供は、船、と言い、親に呼ばれて行ってしまった。絵には船を描いていなかった。だが船の後ろから見た景色であることは、伝わったのかもしれない。明里は閉じかけた表紙を開き直し、最後に遠い島の輪郭を薄く入れた。
出来上がった絵は、よくも悪くも一枚の絵だった。自分の人生を変える証拠には見えない。線はぎこちなく、遠近もおかしい。それでも出発前に閉じた白いページとは違い、今日見た時間が紙に引っかかっていた。明里は右下へ日付だけを書いた。
宇野へ着き、列車へ乗ると、旅は急に普通の移動になった。乗り換えを調べ、席を探し、鞄を棚へ上げる。岡山で弁当を買い、大阪へ向かう車内で食べた。窓の外の町が速く過ぎ、海は見えなくなった。携帯には求人の広告が出ていた。何も検索していなくても、働かなければという声が画面から届く気がした。
大阪駅に降りると、歩く速さが自然に戻った。人の流れに入れば考えずに進める。その便利さを、明里はもう憎めなかった。疲れた体を運んでくれる電車があり、夜でも食べ物を買える店がある。街は変わっていなかった。自分が少し変わったと思いたい気持ちと、何も変わっていないのではという不安が、同じ速度で歩いた。
部屋の扉を開けると、閉め切った空気の匂いがした。通販の箱はまだ玄関にあった。旅から帰った自分を迎える新しい暮らしは用意されていなかった。明里は箱を脇へ寄せ、シロップを冷蔵庫へ入れた。荷物をほどく途中で疲れ、床に座った。窓の外の車の音が、以前より大きく聞こえた。
その夜は眠れなかった。島で眠れたから、もう眠れると思っていた。明里は自分に腹を立て、次に、こんなことで腹を立てるから駄目なのだと思った。電話を開き、求人を一つ読み、給与の数字を見て閉じた。スケッチブックは鞄の中に入れたままだった。旅の効果がなくなったと決めるには、あまりに早い夜だったが、そのことを考える余裕はなかった。
朝、予定表に洗濯と書いてあるのを見た。由美の店で入れた文字だった。明里は洗濯機を回した。昼ごはんとも書いてあったので、米を炊いた。食べながら、豊島で得たものは壮大な答えではなく、今日の食事を予定に入れるという小さな行為だったのかもしれないと思った。小さすぎると笑う声は、まだ自分の中にあった。
数日後、最後の引き継ぎで事務所へ行った。自分の席に別の資料が置かれている。田辺はいつもの調子で迎え、森崎は椅子を持ってきた。明里がいないあいだにも仕事は進んでいた。そのことにほっとし、同時に、胸の奥が少し冷えた。必要とされ続けたいという気持ちは、退職の決断と一緒には消えなかった。
森崎は引き継いだ案件の確認をした。明里が説明を始めると、途中で、そこまではわかりました、と言った。以前なら、せっかく教えているのにと思ったかもしれない。その日は、自分が説明を続けることで席に留まろうとしていることに気づいた。明里は言葉を止め、後輩が本当に聞きたい箇所を尋ねた。
打ち合わせが終わり、森崎は二階の喫茶店へ行きませんかと言った。カウンターに並んで座ると、店の女性が二人分の水を置いた。明里は卵サンドを頼んだ。森崎はしばらくメニューを見てから、実はあの日、困ったんです、と言った。
明里は顔を向けた。森崎は水のコップを両手で持っていた。
「急に全部こっちへ来るかと思って。心配もしたけど、なんで今、って思いました」
明里は、ごめん、と答えた。森崎は首を振らなかった。謝罪を受け取ってもらうことのほうが、気にしないでと言われるより重かった。
「でも、田辺さんと分けられました。今まで私、明里さんに聞けばいいと思ってたから」
「私も、聞かれるほうが楽やったんやと思う」
二人はパンが来るまで黙った。気まずさの中に、以前より正確な距離があった。明里が全部悪いのでも、森崎がただ優しいのでもなかった。その関係のまま、これから会えるかもしれない。
田辺は退職の日、小さな封筒と菓子店の包装紙の見本を渡した。これ、君のやろ、と言った。棚に残っていた犬の包装紙だった。明里は、会社の資料では、と尋ねた。もう一枚ある、と田辺は答えた。送別の言葉は短かった。次が決まったら教えてくれと言われ、明里は、決まらなくても連絡します、と返した。田辺は驚いた顔をしてから頷いた。
帰りに、森崎が預かっていた植物を渡してくれた。葉の端の茶色は残っていたが、中心には小さな新芽が出ていた。明里は礼を言い、鉢を紙袋へ入れた。家に着いたら、まず水を確かめようと思った。
翌週、母の家へ行った。鯖の匂いが玄関までしていた。母は明里の顔を見て、痩せた、と言った。明里は、その話からなん、と返しそうになり、台所の皿を運んだ。母は勝手に次の仕事を探してはいなかった。ただ知り合いの話を二つ用意していて、食事の途中で話しかけ、明里の顔を見て一つを飲み込んだ。
食後、母が古い連絡帳を出した。裏表紙の犬は、耳が長く、足が三本しかなかった。明里はしばらく見て、これ犬なんかな、と笑った。母も笑った。父がいつ、なぜ描いたのか、二人とも覚えていなかった。説明のない線だけが、長く紙に残っていた。
「お父さん、明里が描くの、好きやったよ」
母が言った。明里は頷いたが、それを父のすべての答えにはしなかった。病室で寂しかったかどうかは、わからないままだった。わからない部分を残しても、好きだったという記憶を受け取ることはできる。明里は連絡帳を返しかけ、借りていいと聞いた。母は持って帰りと言った。
五月が終わるころ、明里は生活費を表にした。家賃と食費だけでなく、後から届く支払いも調べて欄を増やした。数字を見た日は、絵を描く気が失せた。翌日は描けた。その繰り返しだった。毎日描けば回復するという決まりもなかったし、描けない日がすべて後退というわけでもなかった。
六月、田辺から短期の仕事の打診があった。明里は電話口で、できます、と言いかけた。条件を聞くと、修正の回数も終わる日も曖昧だった。彼女は紙へ質問を書き、翌日返事をすると伝えた。電話を切ったあと、手が震えた。仕事を断るかもしれない自分が怖かった。生活費の表を見直し、受けられる期間と範囲を文章にした。
その仕事は別の人へ回った。田辺の返事は事務的で、明里は一日落ち込んだ。条件を伝えれば必ず相手が理解してくれるわけではない。収入は増えず、正しい選択だったという保証もない。それでも夜中に何度も修正を待つ一週間は来なかった。明里はその空いた時間に、台所のコップを描いた。上手くは描けなかったが、翌朝も自分の机に置いてあった。
港町への転居を考え始めたのは、その頃だった。島へ移住すれば解決するとは思わなかった。母へ行き来できる距離、仕事の探しやすさ、家賃。海を見たいという希望を、そのほかの条件と同じ紙に書いた。大切な希望でも、それだけで全部を決めなくていい。明里は日帰りでいくつかの町へ出かけ、晴れた日だけでなく雨の日にも駅から歩いた。
岡山県の海に近い町で、小さなアパートを見た。窓から海は見えなかったが、十分ほど歩けば港へ出られた。部屋には西日が入り、台所の蛇口は古かった。近くのカフェに求人があり、店主は経験より続けられる曜日を聞いた。明里は週四日、昼の時間帯なら、と答えた。絵を描くために働くと言うほど、まだ胸を張れなかった。ただ生活を続けるために働きたいと言った。
部屋を見た帰り、明里はもう一度、駅から同じ道を歩いた。不動産会社の車では気づかなかった坂があり、スーパーからの帰りには荷物が重くなりそうだった。途中の店で牛乳を買って歩いてみると、鞄の紐が肩へ食い込んだ。海の近くで暮らすという希望を、牛乳一本の重さへ変えて確かめるのは、可笑しいようで必要なことだった。
見送った別の部屋は、窓から海がよく見えた。明里は最初、その景色だけで決めかけた。だが壁際に湿った匂いがあり、夜の帰り道が暗かった。家賃も予算を超えていた。海が見えるほうが物語としては美しい、と心のどこかで考えている自分に気づき、恥ずかしくなった。暮らす部屋は、誰かに話すための結末ではなかった。
帰りの列車で、千絵の店から連絡が来た。面接のときに伝えた曜日で、本当に続けられるかという確認だった。人が少ない店なので、短期間で辞める予定なら先に知りたいと言われた。明里は正直に、先のことを全部約束できないが、半年は生活をここに置いてみたいと答えた。千絵は、わかりました、と言った。気楽に始められる仕事を求めていると思われなくてよかった。
明里は手帳に、半年、と書いた。それは人生をそこで決める期限ではなく、実際に暮らしてから考えるための長さだった。決められないことを、永遠に保留するのではなく、次に考える場所を作る。仕事の締め切り以外にも日付を使ってよいのだと気づくと、手帳が少し違う道具に見えた。
その晩、部屋へ戻って母の連絡帳を開いた。父の描いた犬の横に、子供の明里の字で、ねこ、と書いてあるのに初めて気づいた。母も自分も犬だと思っていた。鉛筆の字は薄く、写真では読み取れなかっただろう。明里は声を出して笑い、そのことだけを母へ電話した。転居の相談も仕事の心配もせず、五分ほどで電話を切った。理由がなくても話せる相手がいることを、久しぶりに使った。
契約を決める前に、母へ電話した。母は遠くなるね、と言った。明里は、そうやね、と答えた。便利だから心配いらないと説得する代わりに、帰れる日を相談した。真帆には住所が決まってから知らせた。真帆は海が見える部屋かと尋ね、見えへん、と答えると、それが明里らしい、と笑った。なぜそう思うのかはわからなかったが、今度会ったとき聞けばよかった。
引っ越しの日、開けないままだった保存容器の箱をようやく開けた。中身は思ったより小さかった。一つにレモンシロップを移して使おうと思い、瓶のままのほうがいいと戻した。容器にはその夜、余ったご飯を入れた。買ったときに期待した整った暮らしではなかったが、使う場所が一つできた。
最後に大阪の部屋を出る前、明里はスケッチブックを開いた。船尾で描いた航跡のページは、鞄の中で擦れ、線の一部が薄くなっていた。そこから何枚か増えた絵には、海だけでなく、流しや電柱、喫茶店の椅子があった。自分が戻った場所にも、描くものはあった。そのことを知ってから離れられるのが、明里には大事だった。
鍵を返し、駅へ向かった。御堂筋線のホームで電車を待つと、八時四分ではない時刻の列車が入ってきた。車内には空いた席があった。明里は座り、鞄を膝に載せた。暗い窓に映る顔は、まだ疲れて見えた。けれど視線を逸らさず、次の駅の案内が流れるまで、その顔と一緒に揺られていた。




