第八章 別れの贈り物
最後の朝、屋根の端からまだ雫が落ちていた。空は晴れ、隣家の窓が光を返している。明里は布団を畳み、借りたタオルをまとめた。二泊のつもりが三泊になった鞄には、着た服の重さと、折り目の増えた案内書が入っていた。来たときと同じ大きさなのに、うまく閉じなかった。
部屋の隅に小さな埃がたまっているのが見えた。初日は気づかなかったものだった。理想の宿ではなく、人が掃除をして、人が見落とす部屋なのだとわかる。そのことが旅の終わりを近づけた。明里は自分の髪が落ちているのを拾い、くず入れに入れた。
朝食のあと、房江に宿代を払った。延泊分を含めた金額を数えながら、現実に戻るとはこういうことかと思った。財布の紙幣は減り、次の給与が入る日はもう決まっていない。旅費を使った後悔はなかったが、金額を見ないで済むようになったわけでもない。房江は領収書を書き、日付を確かめてから渡した。
「また来ます」
明里は言った。房江は、来られるときに、と返した。商売なら、ぜひ、と言ってもよいところだった。だがその返事に、明里は余計な約束を背負わずに済んだ。房江は鞄を夕方まで置いてもよいと言い、明里は昼過ぎの船なので、それまでお願いしたいと伝えた。
玄関に出ると、房江が小さな封筒を持ってきた。忘れ物かと思ったが、中には宿の名と住所が印刷されたカードが入っていた。誰かに聞かれたら、と房江は言った。宣伝を頼まれたのだった。明里は笑い、はい、と受け取った。親切だけでできた宿ではなく、客が来なければ続かない宿。その当たり前のことが、かえって信頼できた。
由美の店へ向かう道は、もう昨日ほど長く感じなかった。曲がり角の鉢植えや、犬が吠える家の位置を覚えている。三日で、知らない場所の中にいくつか知っているものができた。暮らすというのは、そうしたものが増えることなのかもしれない。だが、道を覚えることと、その道の先にいる人の事情を知ることは同じではなかった。
店の前には開店前の札が出ていた。中で由美が椅子を動かしている。明里が戸を開けて声をかけると、入って、と言われた。窓際の机には大きな鍋と、乾かした瓶が並んでいた。由美は手を洗いながら、今日はいい天気になりましたね、と言った。昨日なら雨漏りを気にしていたはずだと思うと、その言葉が単なる挨拶ではなく聞こえた。
「お別れのご挨拶だけ」
明里が言うと、由美は時計を見て、十分なら座れます、と言った。明里は椅子に腰を下ろした。相手の時間をはっきり示されると、かえって安心できた。いつまでいていいかを探りながら、長居してしまうことがない。由美は小さなカップにお湯を注ぎ、レモンのシロップを入れた。
「昨日のは冷たいほうだったから」
湯気には、皮の匂いが強く出ていた。明里は両手でカップを包んだ。由美は向かいに座ったが、机の隅の伝票を揃える手は止めなかった。客のための完全な時間ではない。生活の途中を、少し分けてもらっている感じがした。
明里は、昨日メニューのことを急に言ったのが気になっていたと話した。由美は顔を上げ、大丈夫ですよ、と言った。それで終わりにしてもよかったが、明里は続けた。何か役に立つことを言わないと、話を聞いてもらった分を返せない気がしたのだと。口に出すと、ずいぶん幼い考えに聞こえた。
由美は伝票を置いた。
「私も、ただお客さんでいるの、下手でした。取材の癖で、何か聞き出して帰らないともったいなくて」
明里は頷いた。自分の場合は、何か作って渡せば関係の中に置いてもらえる気がする。学生のころから、集まりがあると案内を作り、友人の式では招待状を組んだ。頼まれて喜んでしたことも多い。けれど断ったら次から呼ばれないのではないかという不安が、その喜びに混じっていた。
「昨日のご飯を、おいしいと思って食べてもらえた。それで十分です」
由美はそう言い、それから、代金もいただいたし、と笑った。明里も笑った。気持ちのやり取りを、借りや返済に変えなくてもいいのだろう。そう理解しても、すぐ癖が抜けるわけではない。ただ次に同じことをしそうになったとき、この椅子に座った感じを思い出せるかもしれなかった。
由美は窓辺の棚から小さな瓶を取り、紙袋に入れた。中には淡い黄色のシロップが入っていた。商品用のラベルはなく、蓋に小さな紙が結ばれている。レモン、と書いた下に、作った日と、帰ったら冷蔵庫へという言葉があった。
「よかったら。道中、重いかな」
明里は受け取り、思ったより重いです、と正直に言った。由美は笑い、そう、瓶は重いの、と答えた。明里は両手で包み、ありがとうございますと言った。何かを返す言葉を探さず、それだけにした。瓶の冷たさが指に残った。
そのとき、由美の電話が鳴った。画面を見て、彼女は少し眉を寄せた。昨日の母親かと思ったが、修理業者からだった。店の屋根を見る日程について話している。明里はカップを流しへ運ぼうとして、途中でやめた。客が勝手に厨房へ入っては、かえって邪魔になる。机の端へ寄せ、自分の鞄を持った。
電話を切った由美は、すみません、と言った。明里はもう行きますと答えた。由美が店の入口まで来ると、外では配達の車が止まった。短い別れが、別の仕事に挟まれた。旅の別れとしてはあっけなかったが、そのほうが由美の暮らしに合っていた。
「落ち着いたら、お手紙を書いてもいいですか」
明里が尋ねると、由美は店のカードを一枚くれた。住所と営業時間が載っている。個人の連絡先ではなかった。明里はそれでよかった。毎日の様子を確かめ合わなくても、また話しかけられる道が一本あれば十分だった。
「返事、遅いかもしれません」
「私も、書くの遅いと思います」
二人は笑った。また必ず会いましょうという言葉は出なかった。明里は戸を閉め、店の前で一度だけ振り返った。由美は配達された箱を受け取り、中身を確かめていた。こちらには気づかなかった。その背中を見てから、明里は道を下った。
港へ戻る途中、母から電話が来た。押し入れを見たけど、話していた絵は見つからないという。明里は落胆した。自分が求めているものは、古い絵一枚ではないとわかっていても、見つかれば何かが繋がる気がしていた。
「でも、別のがあった」
母はそう言い、あとで写真を送ると伝えた。小学校の連絡帳の裏に、父が何か描いていたという。父が絵を描いた記憶はなかった。明里が何の絵かと聞くと、母は、犬やと思う、と答えた。ずいぶん自信のない声だった。
「帰ってから見る」
明里はそう言った。画面で今すぐ確かめるより、紙を触りたかった。母は、それなら置いとく、と答えた。そのあと仕事の話になり、次はどうするのかと聞かれた。昨日までなら責められたように感じた問いに、まだ決まってない、と返した。
「貯金を使い切る前には考える。いくら使えるかも、帰ったら書く」
母はそれで安心したわけではなさそうだった。しばらく間があり、仕事を選びすぎてもあかんよ、と言った。明里の胸に反発が湧いた。島で何かが変わったとしても、母の一言で簡単に元の場所へ戻される。
「わかってる。でも、今それ言われると、しんどい」
初めてそう答えた。声は少し強かった。母は黙り、明里も黙った。言わなければよかったと思ったが、取り消すのも違う気がした。道の向こうで軽トラックが曲がり、明里は端へ寄った。
「心配やから言うてしまうんよ」
「うん。心配なんは、わかってる」
それで話は解決しなかった。母は鯖を買っておくと言い、電話を切った。明里はしばらく画面を見た。仲直りの言葉がなくても、食事の約束は残った。親子の会話は、気持ちよく終わるものばかりではない。それでも次があることを、今度は少し信じてみたかった。
宿で鞄を受け取り、房江に鍵を返した。鍵についた木の札には、手で触れられ続けた艶があった。三日間の自分の手も、その上に重なったのだと思った。房江は忘れ物ない、と聞き、明里は部屋を思い出してから頷いた。返事を急がずに済んだ。
自転車を返すと、店の人は傷と充電を確認した。明里は思ったより坂がありましたと言った。そうでしょう、と返され、二人で笑った。観光の感想としては平凡だったが、自分の脚で知ったことだった。店の横の小さな売り場に、文具が置いてあるのが目に入った。
薄いスケッチブックと鉛筆を買った。専門店の上質なものではなく、表紙の色も好みではなかった。家には使わなかった紙がある。新しく買わなくてもいいという声がした。だが今、自分の手で持って帰りたいと思った。店の人が鉛筆を削ってあるほうがいいかと尋ね、明里はお願いしますと答えた。
削り器の音を聞きながら、学生時代の制作室を思い出した。誰かが机を叩き、誰かが窓を開け、うまくいかないと言いながら夜まで残った。あの頃も楽しいことばかりではなかった。友人の作品が褒められれば羨ましく、自分の絵が古いと言われれば傷ついた。それでも手を動かしていた。描く楽しさを、苦しさのなかった時代として思い出すのは間違いだった。
店を出てから、明里は紙袋の中のスケッチブックを開いてみた。最初のページはどこも同じように平らだった。表紙を折り返すと、小さく紙の擦れる音がした。その音で、昔、航平に絵を見せたことを思い出した。仕事のものではなく、彼が座っていた椅子を描いた絵だった。
「俺は描かへんの」
航平は笑って聞いた。明里は、人は難しいから、と答えた。それは半分本当で、半分は嘘だった。誰かの顔を描くには、長くその人を見なければならない。見ていることを相手に知られるのが、その頃から少し苦手だった。椅子なら照れずに描けた。
その絵は別れるとき、航平が持っていった。もらっていい、と聞かれ、明里は何でもないふうに頷いた。今も持っているのか、捨てたのか、わからない。確かめるために連絡を取りたいとは思わなかった。戻せない関係があることと、そこで描いた時間まで間違いになることは、別なのだろう。
明里は最初のページを閉じた。失ったものを取り戻すためだけに描くのではなく、今そばにあるものを見るためにも描きたい。その希望は、はっきりした決意になる前の、頼りない形をしていた。今はそのくらいのほうが、持ち運びやすかった。
港へ向かう道で、買い物袋を自転車へ積んでいる女性を見た。行きの船で葱を持っていた人に似ていた。顔を確かめる前に、女性は角を曲がった。明里は呼び止めなかった。もう一度会うための物語が、すべての出会いに用意されているわけではない。名前を知らないままもらった、坂では水を持って、という一言だけを覚えていればよかった。
待合所の手前で、小さな子が靴を脱いで砂を出していた。付き添いの大人は片方の靴を持ち、子供が座り直すまで待っていた。明里は足を緩め、その二人を避けて通った。急がないものに付き合っていられる朝の犬の飼い主を、ふと思い出した。今、自分にも船まで二十分の時間があった。
港の待合所で昼食を買い、船の時刻を確かめた。乗り場へ向かう人の中に、勝也に似た帽子が見えた。思わず立ち上がりかけたが、別の人だった。会ってもう一度礼を言いたかった気もするし、何を話せばよいかわからない気もした。会えないまま終わる関係も、あったことまで消えるわけではない。
明里は案内書の余白を開いた。昨日書いた、何も決まらなかった夜、という言葉を読んだ。次に書くなら、自分が見たことをまず書こうと思った。老人が浜の紐を拾い、袋へ入れた。孫の話で笑った。それだけで、その人が話の中に戻ってくる。明里は鉛筆の先を確かめたが、まだ紙には触れなかった。
待合所の時計の針が一つ進んだ。明里は帰りの切符を取り出し、失くさない場所へ入れ直した。昔なら、この待ち時間にも返信を一つ済ませただろう。今日は何も片づけず、弁当の包みを畳んでいた。何もしていない時間にも、出発の時刻はちゃんと近づいてくる。窓の向こうで、水面に長い光が揺れた。
船が近づいてきた。待合所の人が立ち上がり、明里も鞄を持った。レモンシロップの瓶が中で傾き、布に包み直した。贈り物は記憶の象徴になる前に、割れないよう気をつけて運ぶものだった。その重さを抱えて歩くと、別れの感傷だけに浸ることはできなかった。
岸壁で振り返ると、宿の屋根もカフェも見えなかった。港には働く人がいて、係員が乗船を促した。明里は島へ向かって大きく手を振る代わりに、近くの係員へ頭を下げた。足元の板を一枚渡り、船へ乗った。陸から離れる前に、鞄をいったん置き、靴紐を結び直した。




